エピソード 1ー1
季節は巡り、アイリスがレムリアに渡ってから二度目の春が訪れた。
レムリアの城内に用意された私室。
アイリスはプラチナブロンドを後ろで束ね、私服のシンプルで動きやすいドレスというラフな恰好で、エリスから受け取った預言書に目を通していた。
預言書――というか、正しくはこの世界の元となる乙女ゲームとやらの内容。その悲劇的な展開を読み終えたアイリスは、なんだかなぁと溜め息をついた。
自己犠牲はたしかに美しい。
血の女王が独裁者のように振る舞うことで、そのアイリスを撃ち倒した政権が動きやすくなるという理論も理解できる。魔族の影響を受けた者達を排除する近道だったのも分かる。
だけど――
アイリスが読み終えた物語。
その結末はメリーバッドエンドだった。
悪しき女王アイリスを討ったエリオットとジゼルは結ばれ、二人でリゼル国を立て直していく。そして、攻め込んでくる魔族と交戦することになるのだが――
その戦争で、選択をミスるとジゼルやエリオットのどちらかが亡くなり、選択をミスらずとも、エリオットがジゼルを護って魔族に討たれてしまうのだ。
魔族の軍勢は退けることが出来る。一人残されたジゼルは、エリオットやアイリスの意志を継ぎ、女王となってリゼルを繁栄させていく。
ジゼルは国を救っているが、愛する者達は失っている。
メリーバッドエンドが、この乙女ゲームの正規ルートなのだ。
(多くの犠牲の末に得た結末がそれって、あんまりじゃないですか?)
前髪を掻き上げて溜め息をつく。アイリスが不満を抱くのも当然だ。
だが、乙女ゲームのストーリーはそれで終わりではなかった。メリーバッドエンドを迎えた後、もう一つの物語が始まる。
それはレムリアで暮らす無邪気な王女、フィオナの物語。
しかも、そのフィオナは、断片的ながらもジゼルとしての記憶の一部を引き継いでいた。つまり、自分が暗殺される未来を察知することが出来た。
ゆえに、レムリア編のフィオナは暗殺を回避、アルヴィン王子と共に様々な問題を解決していく――というストーリーが続き、最後は物語がリゼル編へと戻る。
リゼル編の結末と、レムリア編の結末。
その両方の記憶を持ったジゼルがベッドの上で目覚める。二度目の巻き戻りに気付いた彼女は、いまなら運命を変えられるはずだとアイリスの部屋へ向かう。
けれど、ジゼルが目覚めたのは、悪しき女王アイリスを討ち滅ぼした直後だった。
どうやっても姉を救えないことに涙する。そんなジゼルのまえに現れたのはエリオット。姉は救えずとも、彼ならば救うことが出来るはずだとジゼルは立ち上がった。
エリオットを救うためにはまず、レムリアと手を取り合う必要がある。そしてレムリアと手を取り合うには、王女を失って荒れているレムリアに手を貸す必要がある。
ジゼルはそう考えたのだが、レムリア編の展開が反映されたこの世界では、フィオナは暗殺されていなかった。ここは、リゼル編とレムリア編の、両方の展開が反映された世界。
こうして、リゼルとレムリアの両国は力を合わせて魔族と戦うことになる。
――というグランドストーリーが展開されるのだ。
それを読み終えたアイリスはぽつりと呟いた。
「この物語を作った人は、わたくしのことが嫌いなのでしょうか?」
巻き戻りを組み込む世界観なら、悪しき女王アイリスも救っていいじゃない。
というのがアイリスの言い分である。
まぁ、しょせんは物語の中のアイリス。ここにいる彼女にとっては他人事なのだけども。
重要なのは、こういう未来もあり得た、ということである。
魔族との関係は、現在平和的な方向に向かっている。レムリア国もゲームに比べるとかなりよい状態にあるので、魔族との全面的な衝突にかんしては可能性が低いと思われる。
だけど、だ。
魔族の影響を受けた者達は残っている。国内に潜んでいた魔族を排除し、大きく影響を受けた貴族を排除したとしても、すべての影響がなくなった訳ではない。
それに、第一王子派に至っては、物語の中よりも影響力を残している。
つまり、エリオットとジゼルが接近したいま、命を狙われる可能性は高い。
しかも作中では、アイリスがそれらの敵を巧妙に排除すると同時、エリオットやジゼルが自分達で敵を排除できるように、過剰なまでの試練を課して成長を促していた。
現実のエリオットやジゼルでは、敵を自分達で排除できない可能性がある。それはすなわち、二人が殺されてしまう可能性がある、ということに他ならない。
エリオットにかんしては、アイリスはあまり面識がない。
けれど、最近はジゼルと仲がよいという情報は摑んでいる。ジゼルはもちろん、エリオットの身になにかあっても困る。二人は大丈夫なのだろうかとアイリスは憂慮する。
「いますぐにでも様子をうかがいに行きたいところですが……」
アイリスは窓から見える中庭に視線を向けて思案した。
まず大前提として、フィオナは大丈夫なのか、という問題がある。暗殺を回避したとはいえ、いわば彼女も危険な原作ストーリーの真っ最中。
なにか不測の事態があれば、バッドエンドに行き着く可能性がある。
フィオナに目を向けすぎれば、ジゼルが死ぬかもしれない。だが、ジゼルに目を向けすぎることで、フィオナが死ぬ可能性だって存在するのだ。
どちらも、絶対に招いてはいけない結末だ。
それにいまのアイリスは、フィオナ王女殿下の教育係という地位にある。続けて、様々な事業にも関わっており、リゼル国との取り引きにも影響を及ぼしている。
ちょっと里帰りしてきます――なんて、気楽に言えない立場なのだ。どうしたものかと考えを巡らせたアイリスは、サラサラと手紙を書き上げた。
それに封蝋を施し、呼び鈴を鳴らす。
すぐに、アイリスに仕える使用人の一人、イヴが姿を現した。
「イヴ、一人でいるなんて珍しいわね」
「兄さんは薬草園の方で説明をしています。呼んできましょうか?」
「いいえ、それなら問題ないわ」
アイリスが二人を保護したのはおよそ二年前。まだ十二、十一歳だった二人は頼りなく、二人でようやく見習いといったレベルでいつも一緒に行動していた。
それが、いまのように別々に行動をするようになった。
アイリスは二人の成長に頬を緩める。
「では、イヴがこの指令書をクレアに届けておいて」
イヴは指令書という名の手紙を受け取ったその手をピクリと動かした後、かしこまりましたと、その手紙を懐にしまった。
「なにか言いたいことがあるのかしら?」
「いえ、それは……」
イヴが視線を泳がせる。
「イヴ。かまわないから、気になることがあれば言いなさい」
「いえ、その、私にもいつか、クレアさんが引き受けるような仕事もこなせるようになれればなぁと、その……思って」
「クレアの仕事を? 諜報活動は使用人の仕事じゃないわよ?」
「アイリス様のお役に立つのが私のお仕事です!」
ぎゅっと拳を握り締めて訴えかけてくる。
あれからおよそ二年、十三歳になったイヴはずいぶんと大人びて、夜色の髪も少し長くなった。それでも、健気な姿勢は少しも変わっていないとアイリスは破顔する。
「なら、クレアに頼んでみなさい」
「いいんですか!?」
「いまの仕事をおろそかにしない範囲でね」
「はい、もちろんです。それじゃ――行ってきます!」
イヴは身を翻し、早足で退出していった。
これで、ジゼルやエリオットの様子はクレアが調べてくれる。正確には、リゼルに滞在する、クレアの姉であるアニタから報告を届けてくれる。
今後の方針を立てるのは、その報告を得てからでも遅くはない。
そのように判断を下し、アイリスは席を立った。
フィオナの自室を訪ねると、彼女は艶やかな髪を翻して駆け寄ってきた。
「こんにちは、アイリス先生。今日はなんのお勉強をするの?」
「そうですね……今日は久しぶりに剣術のお稽古をしましょう」
「剣術!」
文字通りにぴょんと跳び上がった。アイリスと同じアメシストの瞳を輝かせ、上目遣いを向けてくるフィオナはとても愛くるしい。
「ホントに? 今日はホントに剣術のお稽古をしてくれるの?」
「はい。最近は座学が続いていましたし、フィオナ王女殿下も頑張っていますから」
ご褒美というニュアンスだが、フィオナの身の安全を憂慮してのことでもある。
フィオナが女王になるためには多くを学ぶ必要がある――と、アイリスは思っていた。アルヴィン王子もそう思っている節がある。
そしてそれは、ごくごく一般的な考え方である。
けれど、乙女ゲームのフィオナは、暗殺を回避した後、アルヴィン王子の協力を得て政治をおこない、自身は主に武力を伸ばしている。
そうすることで、命を狙う者達を退けていったのだ。
フィオナが乙女ゲームのフィオナと比べ、賢くなった分だけ武力が劣っているとしたら、彼女が自力で外敵を排除できなくなっている可能性がある。
だからこそ、今日は久しぶりに剣術の稽古をすることにした、という訳だ。
また、フィオナは次期女王としての未熟を知り、座学の授業にも真剣に取り組むようになった。それでも、やはり剣術のお稽古が一番楽しみなのは変わらないのだろう。
剣術の授業と聞いたフィオナは目を輝かせている。
「アイリス先生、今日はなにを教えてくれるんですか!」
「そうですね……今日は戦闘中に精霊の加護を上手く発動する稽古をしましょう」
「精霊の加護の使い方、凄く楽しみだよ!」
クルリとターンして、両手と共にピンクゴールドの髪を広げる。その顔には早くお稽古したいと書いてある。浮かれたフィオナを伴って、アイリスは中庭へと向かった。
互いに殺さずの魔剣をかまえ、芝の上で静かに向き合う。二人は多少動きやすいドレスに着替えているが、今日は騎士が着るような服には着替えていない。
もちろん、鎧を身に着けた戦いを想定して訓練することもある。ただ、次期女王であるフィオナはドレス姿でいることが多いため、その際の襲撃を意識したドレス姿での訓練が多い。
「さて、精霊の加護の使い方を実地で学ぶ訳ですが、そのまえに。戦闘系の精霊の加護を発動するとどうなりますか?」
「はい! 強くなります!」
「もう少し具体的にお願いします」
色々とお勉強をしても、戦闘の感覚が獣的なところは変わらないらしい。フィオナらしいなぁと思いながらも、アイリスは詳しい説明を促した。
「えっと、えっとぉ……剣精霊の場合、加護の多くは身体能力の向上が認められます。後は剣筋が鋭くなったり、剣を強化……あ、剣を召喚する力もあります!」
「そうですね。同じ剣精霊でも個体差があり、能力も異なります。また同じ精霊との契約でも、契約者の力量によって引き出せる能力に差が生まれることもありますね」
アイリスは肯定しつつ、アストリアを大人サイズで顕現させた。アストリアはドレスの裾を翻して、フィオナに向かってふわりと笑みを浮かべる。
ちなみに、転生直後のアイリスは精霊の力を最大限に引き出すことは出来なかった。でも、隠れ里で精霊と再契約を結んでからは精霊の力を自在に操れるようになった。
対してフィオナは、まだ手のひらサイズの顕現が出来るようになったばかりである。同じ精霊と契約しても、契約者の能力によって使える能力には大きな開きがある。
「はい、アイリス先生! 気になることがあります!」
「なんですか?」
「先生と私は、同じ剣精霊のアストリアと契約していますよね? 私とアイリス先生が同時に能力を使った場合はどうなるんですか?」
「そうですね……フィオナ王女殿下との訓練で使っていますが、特にどうにもなっていないので、問題なく使うことが出来ると思います」
「じゃあ、同時にアストリアを呼び出したら?」
「それは……どうなるのでしょう?」
アイリスはその答えを持ち合わせていなかった。
そもそも、一人の精霊が二人の契約者を持つということが異例。ましてや、その両方の契約者が、精霊を顕現させることが出来るなど、歴史を紐解いても存在しない事例である。
「……アストリア、どうなのですか?」
困ったアイリスは本人に聞いてみる。
「……さあ、実例がないから。試してみればいいんじゃない?」
(なんと剛毅な……)
アイリスは呆れつつ、フィオナにもアストリアを顕現させるように促した。未知の試みではあるが、アストリアが薦めるのならそう危険なことにはならないだろう。
なにより、危険があるのなら、対処できるいま試すのが望ましい。
「えっと、それじゃ、精霊を顕現させてみるね。……アストリア!」
フィオナがうーんと唸ってから、力ある言葉を持ってアストリアに呼びかけた。アイリスの顕現させたアストリアがわずかに揺らぎ――そして、フィオナの眼前にも顕現した。
「……同時に出現しましたね。ですが、これは……」
「アストリアが小さくなっちゃった」
二人は、手のひらサイズよりも更に一回り小さいアストリアを見下ろす。もちろん、アイリスの隣に顕現したアストリアはそのままの状態で、である。
「アイリス先生のアストリアはそのままだね?」
「そうですね。ただ、フィオナ王女殿下がアストリアを召喚したとき、わずかに揺らぎがあり、魔力を奪われるような感覚がありました」
「同時に顕現させるのは、魔力の消費が多くなる、ということ?」
「かもしれません。それより……どういう感覚なのですか?」
アストリアに問い掛ける。
アイリスにとって、フィオナは前世の自分だ。つまり、自分だった存在が目の前に存在している。アストリアも同じような感覚なのだろうかと疑問に思ったのだ。
だけど、アストリアの答えはそれを否定した。
「私の本体はアストラルサイドに存在するの。だから、これは私の分身のようなモノ。二つ存在したとしても、そこまでおかしなことではないんじゃないかしら」
アイリスのアストリアがそう語り、フィオナのちびアストリアがコクコクと頷いた。大本が同一の分身とのことだが、完全に同一の存在とも異なるようだ。
でなければ、片方の意見に、もう片方が相槌を打ったりはしないだろう。
その辺り、細かいことは不明だが、重要なのは同時に顕現できるという事実である。
「ひとまず、同時に顕現させても問題はないようですね」
「私のアストリアはちっちゃくなっちゃったよ?」
「それはフィオナ王女殿下が顕現になれていないからです。いまの調子でフィオナ王女殿下が成長をなさったら、すぐに問題なく顕現できるようになるでしょう」
「そっか、それなら……いいのかな?」
「はい、ご心配には及びません」
それに、わたくしが顕現させるのは主にフィストリアですので、アストリアをフィオナ王女殿下と同時に顕現させることは滅多にないでしょう――と、アイリスは独りごちる。
精霊を顕現させる利点は、契約者の受けられる加護が強くなることと、精霊自体が攻撃をしてくれることの二つで、アイリスは剣も使えるが、その本質は魔術師だ。
ゆえに、前者はフィストリアの方が相性がよく、後者はどちらでもかまわない。二人同時に顕現させられれば最強だが、さすがにそれは魔力的に厳しいだろう。
結果、アイリスが顕現させるのはもっぱらフィストリア、ということである。
それよりも――と、アイリスはアストリアを見つめる。
「……なによ?」
「いえ、完全に同質の存在なら、あなたを介することで、遠く離れた場所でもフィオナ王女殿下と連絡が取り合えると思ったのですが……手紙の代わりくらいにはなるでしょうか?」
「精霊をそのように便利に使おうとするのはあなただけよ」
アストリアが半眼になる。
精霊に突っ込まれる契約者もアイリスだけだろう。
アイリスは咳払いをして、話題を元に戻す。
「話が逸れましたね。精霊の加護は強力ですが、同時に魔力の消耗も無視できません。ゆえにとっさの発動が必要になるのですが、全力での発動は隙が生まれます」
「初めての模擬戦で、アイリス先生が消えたように見えたのは、私が精霊の加護を全力で発動させた隙を突いたんだよね?」
「はい。その重要性は、今更言う必要がありませんでしたね。という訳で、今日は戦闘中に加護を自在に使いこなす稽古です。それでは――」
アイリスの瞳が妖しく光る。
次の瞬間、アイリスはフィオナの懐に飛び込んでいた。
「――征きますよ」