エピソード 3ー6
お茶会は無事に終了し、アイリスは王城に戻るための馬車を手配する。そうして会場の席を立ったところで、レジーナが話しかけてきた。
「ア、アイリス様……そのっ、さ、さきほどは失礼な態度を取って申し訳ありませんでした」
レジーナが深々と頭を下げる。いままでの態度からは想像できない行動に、アイリスは軽く目を見張った。その上で「謝罪は受け入れますが、最初から気にしておりません」と応じる。
「え、あ、その……そ、そのように簡単に許してもらう訳にはまいりません。お詫びをいたしますので、どうかわたくしの実家にご招待させてくださいませ」
「……分かりました。そのときは招待状を送ってください」
「い、いえ、出来れば、いまからお願いできませんか?」
アイリスは浮かべている笑みが崩れないように気を引き締めた。レジーナの申し出が、その年齢から来る幼さを加味しても不自然だったからだ。
前提として、貴族社会でのやりとりには、いくつかのパターンが存在する。
たとえば、謝罪をされたときの答えとして、謝罪を伺った、謝罪を受け入れる、許します、などなど、いくつかの言い回しがあり、その全ては微妙に意味が異なっている。
たとえば、謝罪は伺ったと答えた場合、貴方に反省の色があることは理解したが、許すつもりはないというニュアンスとなる。
対して、許すというのはそのままの意味。謝罪を受け入れて許すと言うことだ。
つまり、アイリスの使った受け入れるというのはその中間。だが同時に、最初から気にしていないと付け加えた。
つまり、反省を受けた上で、なかったこととして水に流すという意味である。
許すという行為は、許された相手にとって借りになるが、最初から気にしていないのは、なかったことにするも同然だ。一般的にはこれ以上ない、謝罪に対する甘い応対である。
レジーナはアイリスの四つ年下。つまりは十五歳で、貴族の娘であることを考えても臨機応変に不測の事態に対応できるような年頃ではない。
だがさきほどのは、貴族なら子供でも知っているような受け答えだ。
これはつまり、謝罪が目的ではないと言っているようなもの。その上で、後日あらためるのではなく、いまこれからアイリスを招待しようとしている時点で色々と想像がつく。
だが、だからこそ――
「では、ご招待に応じましょう」
アイリスは笑ってあからさまな罠に飛び込んだ。
その上で、アイリスは背後に控えているクレアへと視線を向けた。彼女はすまし顔だが、アイリスには彼女がこめかみを引き攣らせているのが分かった。
「さきに城に戻り、わたくしがレジーナ様のお家に伺うことを伝えてくれるかしら?」
「――それならば、我が家の者を使いに出しましょう。アイリス様も、使用人を連れていた方がよろしいでしょう?」
レジーナが割って入った。アイリスは少しだけ迷った素振りを見せて、ではお願いしますと応じた。ここまで、すべてアイリスの計算通りである。
レジーナがなにか仕掛けるつもりなら、アイリスの予定変更を城の者に知られることは避けたいはずだ。ゆえに、城への使いも排除する必要がある。
つまり、アイリスが黙ってクレアを使いに出していれば、クレアが襲撃を受けていた。それを避けるために、使いそのものをレジーナ側の人間に任すという形を取ったのだ。
使用人をクレアしか連れてこなかったのもそれが理由である。
「では、貴方の家に参りましょう」
こうして、アイリスはレジーナの用意した馬車に乗り込んだ。
馬車にはアイリスとレジーナ。それにそれぞれのメイドが一人ずつという状況。アイリスは凜とした居住まいを保ちつつも、穏やかな雰囲気を纏っている。
だが、レジーナは明らかに緊張しているし、その隣に座るメイドは言わずもがなで、クレアもかなり神経を張り詰めている。
馬車の中の雰囲気は最悪だが、アイリスは頃合いを見て口を開いた。
「わたくし、レジーナ様とは一度、こうして話してみたいと思っていました」
「……貴方が、わたくしと、ですか?」
レジーナが怪訝な顔をするが、アイリスは笑顔で頷いた。
「レジーナ様は建築の技術について研究なさっているでしょう?」
「なっ、ど、どうしてそんなことを知っているのですか!?」
「わたくしがリゼルで研究所の設立に携わったとき、有力な研究者の資料を集めたのです」
「……つまり、わたくしはその候補から外れた、ということですか」
レジーナがぽつりと呟いた。いまの発言を聞いて即座にその結論に至る当たり、やはり相当にひねくれているようだ。
「候補から外れてなどいませんよ。当時の貴方はまだ幼かったために保留しただけです。もしもわたくしがいまもリゼルにいたのなら、貴方を誘っていたでしょう」
「な……ん、で……っ。ふ、ふんっ、そのようなお世辞、わたくしには通用しませんわよ」
そう言いつつも、彼女の頬はずいぶんと緩んでいる。
意外とチョロ可愛いと、アイリスはかなり失礼なことを考える。
「別に、わたくしが貴方を持ち上げる理由はないでしょう? それに、貴方の研究は目を見張るものがありましたが、問題点も少なからずあります」
「ば、馬鹿にしているの?」
「いいえ。リゼルの研究所には、貴方と似て非なる研究を進めている者がいます。一緒に研究を進めれば、きっと素晴らしい結果へと繋がる。そう思っているだけですわ」
アイリスはすまし顔で答えた。
その言葉はすべて真実である。リゼルのパーティーでレジーナと出会ったとき。アイリスは彼女と研究について語れることを少し期待していた。
だが、レジーナはアイリスに突っかかってきて、その期待は見事に裏切られた。だから残念には思ったが、アイリスがレジーナを見限った訳ではない。
そもそも、研究者にはクセのある者も多い。当時幼かったアイリスを、賢姫といってもしょせんは小娘と侮る者もいたが、アイリスは気にも留めていない。
アイリスが研究者に求めるのは、礼儀作法ではなく、その手の才能だけだ。だからこそ、いまの状況を理解しているアイリスは、レジーナに踏みとどまって欲しいと願う。
「レジーナ様。なぜわたくしを敵視するのか、その理由を訊かせていただけませんか?」
アイリスは静かに問い掛け、レジーナの瞳を覗き込んだ。アイリスの持つアメシストの瞳に射すくめられ、レジーナの持つ金色の瞳はゆらゆらと揺れる。
「な、なぜってそれは、貴方のことが気に入らないからよ」
レジーナの発言に、彼女のメイドが真っ青になって袖を引く。だが、アイリスがメイドの行動を遮って、レジーナに畳み掛けるように問い掛ける。
「では、なぜ気に入らないのですか?」
「そ、それは……ナタリアが貴方のことばかり話すから……」
「……それだけですか?」
レジーナの心の底まで見透かすように、アイリスは決して視線を外さない。賢姫としての圧倒的な圧力を前に、気圧されたレジーナがゴクリと生唾を飲む。
「そ、それだけじゃありませんわ。貴方はリゼルの研究成果を盗み、レムリアに流出させたでしょ。他人の努力を軽んじる人は最低よ!」
「レジーナ様っ、なんと言うことをいうのですか!」
彼女のメイドが声を荒らげ、主人の無礼をお許しくださいと懇願を始める。だが、アイリスは手振りでメイドの発言を遮った。
「気にしていません。ここでのやりとりについて、あとあと問題にするつもりはございません。それよりも、レジーナ様。わたくしは研究成果を盗んでなどいませんよ」
「嘘よっ」
「嘘ではありません。研究者達は十分な報酬を得ていますし、わたくしはあの研究所で得た技術の扱いについて制約を受けておりません」
そもそも、あの研究所を作ったのはアイリスだ。
目的が王太子に手柄を与えるためだったので、名目上は色々と偽装しているが、アイリスがその技術の扱いに制限を受けるような制約は掛けていない。
「う、嘘よっ」
「繰り返しますが嘘じゃありません。誰から聞かされたのですか?」
「そ、それは……メイド、に」
レジーナの発言に、隣のメイドは「私じゃありません!」と真っ青な顔で首を横に振った。
「この子じゃなくて、赤い、髪の……」
その発言に顔色を変えたのは、レジーナのメイドだった。
「赤い髪のメイド、ですか? タルファス伯爵家には赤毛のメイドはいないはずです。いえ、そもそも、滞在先である奥様の実家でも見かけていません」
どういうことですかと、メイドがレジーナに詰め寄った。
「なにを、言っているのよ? ときどき、わたくしの側にいるでしょう? 今日だって一緒にいたはずよ。それで、アイリス様を馬車に乗せるようにって……」
「馬車に? 一体なぜそのようなことを――いえ、待ってください。誰かに指示をされたというのですか? アイリス様を馬車に乗せるように、と?」
「それは、だって、ナタリアのために……」
言い訳を口にするが、誰かの指示であることは否定しない。
メイドの顔色が見ていて可哀想なくらい青ざめる。
「ば、馬車を止めないと。いますぐ――」
メイドが御者に呼びかけようと腰を浮かす。
その瞬間、馬車は急停車した。
小窓から御者台に呼びかけようとしていたメイドがバランスを崩して頭を打ち付ける。その反動で倒れ込みそうになったところをクレアが抱き留めた。
「も、申し訳ありません」
「いえ、それよりも、ここが目的地のようですよ」
クレアがカーテンを開けると、外は人気のない路地裏だった。そして、いかにも野盗ですと言いたげな恰好をした連中が馬車を取り囲んでいる。
「賢姫アイリス! その馬車に乗っているのは分かっている。大人しく下りてこいっ」
外にいる連中の目的はアイリスだった。
だが、この馬車はレジーナの母親の生家である貴族家の家紋入りの馬車である。アイリスが馬車に乗り込んだのもつい先ほど決まったことで、知っている者はそう多くない。
レジーナの言葉からも、推測できる理由は一つしかなかった。
「これはまさかっ、レジーナお嬢様の仕業なのですか!?」
「し、知らないっ。こんなのは知りませんわ!」
「お嬢様! この状況でそのような言い訳が通じると思っているのですか!?」
「だ、だって、本当に知らないのよ! わたくしはただ、ナタリアがアイリス様に脅されているって聞いて、アイリス様を馬車に乗せたらなんとかしてやるって言われたから、だからっ」「それに従ったというのですか!?」
メイドが取り乱す。
レジーナがこの件に加担していると認めたも同然なので無理もないが――
「いまは、そのような話をしている場合ではありません」
アイリスが割って入ると、メイドはハッと目を見張って席を立ってその場に跪いた。狭い馬車の中で、床に額を付けるほどに頭を垂れる。
「こ、このようなことになって申し訳ございません。しかしながら、お嬢様も誰かに騙されているだけなのです。どうか、どうか、寛大な処置をお願いいたします」
「それも、この状況を抜けてからにいたしましょう。――クレア」
「はい。出来れば、私に外を任せて欲しいのですが……?」
「いいえ、外の掃討はわたくしがおこないます」
「……かしこまりました」
この場は任せますと言って、アイリスは馬車から飛び降りた。
「わたくしが賢姫アイリスですわ」
「へっ、言われたとおりに出てくるとは、中々肝が据わってるじゃねぇか」
答えたのはアイリスの正面、数名の野盗の後ろにいる男だった。自分の声に応じたことから、その男がこの場の指揮官だとアイリスは判断する。
(味方の後ろに隠れることが間違いだとは思いませんが……小物臭がします。危険なのはむしろ他の者達ですね。ただの野盗ではなさそうです)
見た目は野盗だが、剣を構える姿は様になっている。正規の兵士かどうかまでは分からないが、少なくとも正規の訓練を受けたものであることは間違いないだろう。
「もう一度聞きます。目的はなんですか?」
「復讐だ」
「……復讐、ですか?」
アイリスはキョトンと瞬いた。
「心当たりがないって顔だな」
「ええ、まぁ……」
身に覚えがありすぎて――とはさすがに口に出さない。
「ちっ、これだから温室育ちのお嬢様はよぉ。いいか、耳をかっぽじってよく聞きやがれ。俺達はてめぇに潰された伯爵家に仕えていたんだ! おまえが余計なことをしたせいで、俺達は職を失った! 俺達はなにも悪いことをしてないのに、だ!」
おそらくは事実だろう。アイリスは極力連座処分などは避けるように動いたが、取り潰しになった家もあれば、爵位を一つ二つ落とされた家もある。
規模の縮小を余儀なくされ、無実の使用人や兵士が解雇されることもあったはずだ。
だが――
「それで、わたくしに逆恨みという訳ですか」
アイリスは一瞬で切り捨てた。
「なにが逆恨みだ! おまえが伯爵家を潰したせいで、どれだけのものが路頭に迷ったと思っている! それを、おまえはなんの責任を感じないとでも言うつもりか!」
「少なくとも、あなた達には感じませんね」
「なんだとっ!?」
指揮官が声を荒らげる。それと同時、別方向から一本の矢が飛来した。アイリスはそれを見ようともせず、身体を少し捻るだけで躱して見せた。
「あなた達が職を追われたのは不幸だったのかもしれません。ですが、話を聞きつけた貴族達が、優秀な人材の取り込みに動いたとも聞いています」
声が掛からなかったのは、本当に運がなかったか、あるいは普段のおこないが悪かったから。そして、いまのこの状況を見れば、後者だったことは明らかだ。
「俺達のせいだって言うのか?」
「さあ? ですが、己に降りかかった不幸をただ嘆き、乗り越える努力もせず、逆恨みを晴らすために犯罪に走る。あなた方のどこに同情の余地が?」
「くっ、もういい、さっさと殺せ!」
彼が掲げた手を振り下ろす。その瞬間、今度は一斉に矢が射かけられた。二桁に近い矢を、アイリスは流れるように身体を捻り、体術だけで躱しきった。
「馬鹿なっ! なぜいまのを避けられる!?」
「あら、賢姫は体術が苦手だなんて誰が言いましたか?」
アイリスが地面を這うように飛び出し、アストリアの剣を虚空より抜刀。その勢いをそのままに、指揮官を護る男の一人に斬りつけた。
ギィンと鈍い音が響いた。
不意を喰らったにもかかわらず、男がアイリスの攻撃を受け止めたのだ。とはいえ、無理な体勢で受け止めたことで男は大きく体勢を崩す。
そこにアイリスが追撃を掛けるが、それはもう一人の男が受け止めた。
(腐っても正規の訓練を受けていただけのことはある、ということですか。ですが、わたくしの脅威にはなり得ませんね)
攻撃を防ぎきった――と相手が油断した瞬間、アイリスはクルリと身体を捻った。ドレスの裾がふわりと広がり、その下から伸びたしなやかな足が男の脇腹に食い込んだ。
男が呻いて膝を付き、もう一人がカバーに入ろうとする瞬間、アイリスは標的を変えた。
剣術を習った者がぶつかる壁の一つに、攻守の切り替えがある。
防戦一方に陥った者は中々反撃に出られない。だからこそ、攻戦に出ている者は守備の意識がおろそかになる。予想外の反撃に対応できなくなるのだ。
誰かを護ろうとするのも同じことだ。ピンチの誰かを護ろうと意識を傾けたとき、自分の護りがおろそかになりやすい。だから、回し蹴りを喰らって膝を付いた男がピンチに陥ったいま、それを護ろうとした男は自分が狙われることを意識していなかった。
――ドンッと、鈍い手応えがアイリスの腕に伝わる。
彼女の突き出した剣は、男の肩口を貫いていた。
男の悲鳴が上がる。刹那――アイリスに二の矢が放たれた。アイリスの剣は男の肩を貫いており、引き抜いているとワンテンポ遅れる。そのタイミングに合わせた見事な攻撃だ。
だが、仲間に当たることを恐れたのか、はたまたその判断が出来なかったのか。アイリスに向かって放たれた矢はわずか二本だけだった。
アイリスは剣を手放して
同時に、男の肩口に刺さっていた剣は消失している。アストリアの加護によって具現化した武器だからこそ出来ることだ。
アイリスは回し蹴りを加えた敵を除いて三人の敵を排除している。しかも、それだけの犠牲を払っても、武器一つ奪うことが出来なかった。
その圧倒的な戦闘力差を前に襲撃者達の心が揺れる。
それでこの戦いの趨勢は決した。
アイリスは動揺した彼らが立ち直る隙を与えず、一人、また一人と無力化していく。それからわずか数分で、アイリスはこの場にいるすべての敵を排除してしまった。
その後、生き残った敵はすべて拘束。クレアが近くを通りかかった見回りの兵士を捕まえて城に使いを出し、レジーナとそのメイドは馬車の中に軟禁するという処置を執った。
しばらくして、騎士を伴った馬車が到着。そこから令嬢が飛び降りてきた。
「アイリス様、ご無事ですか!?」
馬車から飛び降りたのはナタリアである。彼女は捕らわれている襲撃者達を目にして息を呑み、それからアイリスの無事な姿を目にしてほっと息をついた。
「アイリス様、一体なにがあったのですか!?」
「ご覧の通り、襲撃がありました。どうやら、狙われたのはわたくしのようですね」
「アイリス様が……? しかし、あの馬車は……」
ナタリアが目を向けたのは、アイリス達が乗ってきた馬車。その馬車には、レジーナの母親の生家、つまりはこの国の貴族の紋章が飾られている。
レジーナの馬車に乗っていて襲撃されたのは明らかだ。
「ま、まさか、彼女が……?」
「信じがたい話ですが、いまのところその可能性は否定できませんね」
「そ、そんな……っ」
ナタリアは目を見張って、信じられないと首を横に振った。
「ア、アイリス様、レジーナを許してあげてください! 彼女はきっと誰かに操られているのです。だから、どうかお願いします! 彼女を許してあげてください――っ」
ナタリアが詰め寄ってくる。
彼女はアイリスの目の前まで詰め寄ると、最後の一歩は大きく踏み込んでアイリスの胸に飛び込んだ。その瞬間、彼女は隠し持っていた短剣を突き出す。
「アイリス様っ!?」
クレアの悲鳴と甲高い金属音が被さり、アイリスがこふっと小さな呻き声を零す。アイリスの胸に、ナタリアの突き出した短剣の柄が押し付けられていた。