エピソード 3ー1
「またお会いしましたね、アイリス様」
魔族の少女、エリスが近付いてくる。彼女が剣の間合いに入り込む直前、「そこで止まってください」とアイリスは警告を発した。その言葉に従い、エリスは足を止める。
「以前にも申しましたが、私には貴方に危害を加えるつもりはありません」
「ですが、わたくしを連れ帰ることが目的だとも聞きましたが?」
「たしかに。ですがそれはアイリス様を攫うつもりという意味でもありませんわ。私の主は、貴方との友好的な交渉を望んでいらっしゃいます」
「……それを証明する手段はありますか?」
アイリスはエリスに対しての警戒を緩めない。これが普通の相手であれば、もう少し歩み寄ることは可能だ。そうした方が、話が穏便に進むことも分かっている。
だが、エリスはアイリスよりも強い。気を緩めた瞬間、意識を奪われて魔族の国へと連れ去られてしまう。そんな可能性がある以上、決して気を緩めることは出来ない。
だが、そんなアイリスに対し、エリスはあくまでも自然体だ。
「信頼は行動から生まれるものだと認識しています。だからこそ私は、一人で貴方に接触することで誠意をお見せしたつもりです。話だけでも、聞いてはくださいませんか?」
アイリスの認識している魔族像からはほど遠い反応。まさか魔族から誠意なんて言葉を聞くことになるとは思わなかったと、アイリスは面くらった。
その上で、どうするのが正解か考えを巡らせる。
アイリスにはいま、護衛が数名ついている。このまま立ち話を続けた場合、不審に思った護衛が接触してくる可能性は高い。
そうなれば、エリスと話す機会が失われるばかりか、戦闘になるかもしれない。
長話をするのなら、カフェかなにかに入るべきだ。だが、もしも人が多い場所でエリスと戦闘になったら、周囲の人にも被害が及んでしまう。
そこまで考えたアイリスは、きゅっと拳を握り締めた。
「……分かりました。ついてきてください」
そう言って、エリスに――背を向けた。
それは、アイリスが意図的に見せた隙だ。だが、それは罠ではない。エリスを相手に無防備な背中を晒したいま、エリスが牙を剥けばアイリスは相当な不利に立たされる。
むろん、それでも簡単に負けるつもりはないが、アイリスがエリスとの相対においては、これが最大の隙になる。これより後は、いま以上の隙を見せることはない。
『襲撃するのならいまをおいて他にありませんが、貴方はどうしますか?』
アイリスは背中でエリスにそう問い掛けたのだ。
だが、エリスがその牙を剥くことはなかった。素直にアイリスに従い、少し遅れて後ろをついてくる。少なくとも、危害を加えるつもりはないという言葉に嘘はないようだ。
アイリスは気を引き締めたまま額に浮かんだ汗を拭い、近くのカフェに足を運んだ。
カフェの店内、エリスは興味津々といった面持ちで内装を見回している。
服装は一見普通の町娘風で、容姿はアイリスに負けず劣らずの美少女――だが、その仕草は完全に田舎からやってきたおのぼりさんで、緊張感がまるで感じられない。
「わたくしは紅茶とケーキを。貴方はどうしますか?」
「……すみませんが、私はこの国の通貨を持ち歩いていません」
だから注文はしないというエリスは、けれどなんだか残念そうだ。もしかして、ケーキが食べたいのだろうかと思ったアイリスは、ここは自分が支払うと伝えた。
とたん、エリスの表情が輝いた。
「で、では、私も貴方と同じものを」
それに応じ、アイリスがウェイトレスに注文を伝える。
その上でエリスの様子を盗み見た。彼女は目に見えて分かるほどソワソワとしている。
(まるで、翌日のお出かけが楽しみで寝られない子供みたいですね。ケーキ一つにここまで感情を揺らすだなんて、魔族といっても、大部分は人間と変わらないのかしら?)
アイリスがそんな風に考えていると、視線に気付いたエリスが咳払いをした。
「すみません、少し浮かれてしまいました」
(浮かれていた自覚はあるのね。……というか、それをわたくしに言うのね)
第一印象よりも幼く感じる。もしかしたら、アイリスが思っているよりも幼いのかもしれない。そんな風に考えながら、アイリスは疑問を口にする。
「ところで、あの翼はどこへ行ったのですか?」
「いまは隠しています。ある程度高位の魔族なら擬態することが可能なんです。ダメージを受けるとその限りではありませんが、普通に過ごす分にはご覧の通りです」
それはつまり、人の世界に紛れ込めると言うことだ。
その可能性に気付きながら、アイリスは別の質問を投げかける。
「では次の質問です。貴女の主がわたくしと友好的な関係を築くことを望んでいるとおっしゃいましたね。まず、貴女の主というのはどなたですか?」
「魔族を束ねし魔王、ディアロス陛下です」
迷いなく告げられた言葉は、アイリスにとって完全に予想外だった。
「……どういうことでしょう? 貴女はわたくしのことを、魔王の魂を持つ者とおっしゃいませんでしたか? わたくしの片割れが存在していると、そういうことですか?」
アイリスの問いに、エリスは首を横に振る。
「魔王とは魔族を束ねる者を表す言葉です。ですが、魔王の魂を持つ者とは、初代魔王と同じように、異なる世界から紛れ込んだ魂をその身に宿す存在のことなのです」
「異なる世界より紛れ込んだ魂、ですか……?」
理解が及ばないが、アイリスは自身で不思議な体験をしている。だからこそ、与太話とは切って捨てずに続きを促す。エリスは頷き、話を再開した。
「初代魔王の言い伝えによると、ここは『乙女ゲームの舞台となる世界』だそうです」
耳慣れない言葉にアイリスが首を傾げた。
それを見越してか、エリスが初代が言い残した言葉で乙女ゲームについて語る。それを聞いたアイリスは、乙女ゲームが架空の物語のようなものであると理解する。
「……つまり、異世界の誰かが、この世界をベースにした架空の物語を作った、と?」
「かもしれません。ですが初代魔王の見解は異なります。初代魔王は、異世界の誰かが物語を作ったことで、この世界が生まれた、と」
異世界が存在することを前提とするのなら、この世界をベースにした物語があるのは理解できる。アイリスのように転生した人間が実在する以上、この世界の記憶を持つ人間が異なる世界に転生して、この世界の物語を書く可能性も零ではないからだ。
だが、物語を書くことで世界が出来ると言うのは次元が違う。
「……貴女は、それを信じているのですか?」
「懐疑的だった、というのが正解でしょうね」
懐疑的だった。つまりは過去形である。それを言い換えるならば、最近その与太話を信じるようななにかがあったと言うことだ。
その上で、彼女がアイリスに接触したことを考えれば、一つの可能性が浮かび上がる。
「……わたくしの存在が、初代魔王によって示唆されていた、と?」
「少し異なります。貴女だけが、初代魔王の語った乙女ゲームのストーリーから逸脱した行動を取っているのです」
「……どういうことでしょう?」
「初代魔王によると、いまが乙女ゲームの舞台となる時代です。リゼルやレムリアで生まれてくる王族の名前、その動向などが語られているのです」
「……本気で、言っているの?」
アイリスはゴクリと生唾を飲み込む。
もし事実であれば、エリスがこの世界が物語から生まれたと認識するのも無理はない。少なくとも、初代魔王の語った内容は予言の域を超えている。
「事実です。ですが、貴女の行動だけが初代魔王の語った内容と違った」
「聞かせてください」
「ヘレナに現を抜かすザカリー王太子に失望した貴女は、王太子やヘレナ、それに邪魔な貴族達を罠に掛けて投獄し、国の実権を奪ってしまうのです」
アイリスは首を傾げた。
フィオナとしての人生を記憶するアイリスが、それまでのアイリスと考え方が違うのは当然だ。だがそれを差し引いて考えても、自分がそのような行動に走る理由が分からない。
「なぜ、わたくしはそのようことをするのですか?」
「ジゼルを王太子妃に据え、エリオット第二王子に国を任せるためです。貴女は腐った貴族を排除しながらも、悪を演じて二人の成長を促す、という訳です」
「ジゼルと、エリオット王子ですか……」
たしかに、二人ならばザカリー元王太子達よりもよほど頼もしい。だが同時に、まだまだ幼くもある。二人の成長を促し、同時に敵となる者を排除する。
フィオナのことがなければ、そういう選択もあったかもしれないと思う。
「そんな訳で、貴女は悪役令嬢として、とても人気があったそうですよ?」
「……と、言われましても」
アイリスにとっては、原作ゲームなどと言われてもピンとこない。それよりも、いまの話が本当に初代魔王の口から語られたものなのかどうかを考える。
(いまの情勢からも予測できる域を出ませんね)
話を信じるにたる情報ではない。
そう思ったから――
「だから、貴女が剣姫の家庭教師になったと聞いたときは本当に驚いたのです。自分と同じ存在が現れたなら、歴史を変えようとする可能性が高いと初代魔王は言っていたそうですから」
その言葉にアイリスは息を呑んだ。エリスの示す言葉が、アイリスが変えた、アイリスしか知らないフィオナの未来を示唆していると思ったからだ。
「わたくしが、フィオナ王女殿下の家庭教師になったことに驚いた理由をお聞きしても?」
「物語通りならば、剣姫はメイドの手引きで侵入した暗殺者達に殺される運命でした。貴女は、それを変えたのでしょう?」
けれど、語られたのはアイリスの思っていた内容と違っていた。
アイリスの知る前世の歴史と違う。アイリスがフィオナだったときは、暗殺未遂にはあったが殺されてはいない。その後、追放されたことで魔物に殺されたのだ。
それだけならば、エリスが実際に起きた暗殺未遂の件を利用して嘘を吐いている可能性もある。けれど、彼女は『メイドの手引きで』と口にした。
この人生で実際に起きたのは、レスター侯爵の手引きによる暗殺未遂だ。メイド――つまりはレベッカが手引きしたのは、前の人生のときだけである。
(どういうこと? フィオナは、あの襲撃で死ぬはずだった?)
そこまで考えた瞬間、アイリスの中である可能性が浮上する。
乙女ゲームのストーリー通りなら、フィオナはメイドの手引きで暗殺されるはずだったとする。だが、当時のフィオナの中には、いまのアイリスの魂が存在していた。
その影響で歴史が変わった。
いまのアイリスが歴史を変えたように、フィオナだったときにも歴史を変えていたと仮定する。そうすれば、前世ではフィオナが何度も魔物の襲撃を受けた理由に説明が付く。
だが疑問点もある。
いまのアイリスにはフィオナだった頃の記憶があるが、フィオナだった頃のアイリスには、それ以前の前世と呼べるような記憶はなかった。
そういう意味で、アイリスと初代魔王は似て非なる存在なのかもしれない。
そんな風に考えていると、ちょうどウェイトレスが紅茶とケーキを運んできた。それを幸いと、アイリスはケーキを口に運び、ひとまず自分の考えを整理する。
アイリスは、魔族の思っているような存在ではない可能性がある。
だが、その事実がエリスとの関係にどう左右するかが分からない。
それでも問題ないと言われるか、あるいは思っていた存在と違うと交渉を打ち切られるか。どちらの可能性もある以上、いまは口にしない方が無難だろう。
そう考えたアイリスは紅茶を一口、小さく息を吐いて話を再開する。
「ひとまず、魔王の魂については理解できました。その上で問います。もしもわたくしがその魔王の魂を持つ存在だったとして、魔王はわたくしになにを求めるのですか?」
問い掛けると、ケーキを幸せそうな顔で頬張っていたエリスがもぐもぐと口を動かし、コクンとケーキを咀嚼する。その姿を見る限り、普通の人間と変わらない。
思わず、食べ終わるのを待ってあげればよかったと思ってしまうが、人間同士でも価値観の相違は生まれるものだ。魔族が相手ならなおさら、どこで価値観が違っているか分からない。
アイリスが視線で促すと、エリスが口元を指先で隠して口を開いた。
「最初に申し上げたとおり、我が主は貴女と友好的な交渉をしたいと考えています」
「……友好的な交渉とおっしゃいますが、襲撃を仕掛けてきたのはそちらですよね?」
「それについては申し訳なく思っています。ですが、魔族も一枚岩ではないのです」
「つまり、友好的な交渉をしたい貴女達と、そうではない派閥がある、と?」
「我々は穏健派と過激派と言っています」
アイリスはその言葉に納得する。リゼルにも、第一王子を支持していた者や、第二王子を支持していた者、他の王子や王女を支持する者達だって存在する。
だからこそ、穏健派と過激派の存在自体には特に驚かない。
だが――
「貴女の言葉がすべて真実だとして、魔族が襲撃してきたのは事実です。違う派閥だから我々に責任はないと言われても、受け入れられるはずがありません」
実際には、穏健派と過激派は同じ魔族というだけで、まったく違う考え方の集団なのかもしれない。だが、アイリスの視点からは、それが真実かどうか確認できないのだ。
確認できない以上、鵜呑みにすることは出来ない。だが、もしも確証を得ることができるのなら、相手に理解を得るつもりがあるのなら、魔族との関係は大きく変わるかも知れない。
果たして――
「アイリスの言うとおりです。だからこそ、私は貴女の下に来たのです」
エリスは、アイリスに新たな可能性を示した。