エピソード 4ー2
稽古後、アイリスは稽古で掻いた汗を流すため、フィオナとイヴ、それに途中で合流したクラリッサやクラウディアを伴って、里の近くを流れる川辺へとやってきた。
彼女らは川辺にある更衣室で服を脱ぎ捨て、里で手に入れた水浴び用の下着――いわゆる水着を着用している。平民が水遊びをするスタイルだ。
貴族令嬢なら決してしない遊び。
けれど、恥ずかしがっているのはクラリッサのみだ。
平民育ちのイヴや、この里の住人であるクラウディア、それに各地を旅したアイリスはもちろん、王族であるフィオナも平気そうな顔をしている。
(フィオナは他人に身体を洗ってもらうことに慣れていますしね)
むしろこの場合は、フィオナが一人で水浴びを出来るか心配するところだろう。とはいえ、イヴやクラリッサがいる。彼女達に手伝わせれば良いだろう。
川は里の女性達が汗を流すのに使っている区域で、近くに更衣室が設置されているだけではなく、水浴びをしやすいように川幅を人工的に広げてある。
そんな水辺に足を踏み入れたアイリスはザブンと水に潜り、それから浮力に任せて立ち上がった。アイリスの艶やかな肌が水滴を弾いていく。
水を掬った手で、手足の汗を洗い流し始めた。
そうして先陣を切ったアイリスに習い、次にフィオナが川へと飛び込んだ。続いてクラウディアとイヴ、最後に恐る恐るといった感じでクラリッサが続く。
「あ、そうそう。迷いの結界はクラウディアが復旧してくれましたが、まだ完全ではないそうなので、わたくしが見えない場所には行かないでくださいね」
汗を洗い流しつつ、アイリスがフィオナ達へと声を掛けた。フィオナは特に気にした風もなく川を泳いでいて、イヴはおっかなびっくり近寄ってきた。
クラリッサは周囲を見回して「男除けの結界はないのですか?」――と。
「心配せずとも、ここはもとから女性が裸で水浴びをするために作られた場所だ。里の男達がこの場に立ち入ることは絶対にないぞ。もっとも、あの王子達は知らぬがな」
クラウディアがそういって笑う。
王子だけでなく、王子が連れてきた騎士達もこの里に残っていて、いまは壊れた設備の復興などを手伝っている――が、勝手に出歩くような不届き者はいない。
そこまで聞いて、ようやくクラリッサは安堵の表情を見せた。
平民のように外で水浴びすることがなく、上級貴族のように使用人に身体を洗わせることもない。平均的な貴族令嬢である彼女が一番、水着姿に抵抗があるようだ。
と、アイリスはその結論に至った。
「そういえば、クラリッサは貴族家のご令嬢なんですよね?」
「ええ、アイリスさんの言うとおり、一応は伯爵家の次女です」
次女とはいえ、誇り高き伯爵家のご令嬢。そんな彼女が一応と付けたのは、彼女がアルヴィン王子と同様に妾が産んだ子供だからだ。
これは、アイリスがレムリアに滞在するようになってから調べ上げた事実だが、妾の子である王子には、妾の子であるメイドがお似合いだ――といった差別があったようだ。
無論、力を付けたアルヴィン王子にそのようなことをする者はもはやいない。
クラリッサもまた、アルヴィン王子の専属メイドとしてだけでなく、秘書官のような役割もおっている。アルヴィン王子の右腕とも言える存在に至っている。
もし彼女を失っていたら、アルヴィン王子の行動は大きく変わっていただろう。
「あの、アイリスさん? そんな風にジロジロと見られると恥ずかしいのですが」
「少し考え事をしていました。ですが、恥じることはなにもないと思いますよ」
普段は野暮ったいメイド服を着ている時は分からなかったが、こうして水着で並べば、クラリッサが他の女性達と比べても遜色がないスタイルの持ち主であることが分かる。
なんてことを考えていると、クラリッサは恥じ入るように、その身を水面に沈めた。
「は、恥ずかしいものは恥ずかしいんです。特にアイリスさんに見られるのは恥ずかしいといいますか、アイリスさんは本当に素敵なプロポーションをしていますね」
「ありがとう。でも、褒めてもなにも出ませんよ?」
「いいえ、ファンクラブの集会で話すネタが出ます、一杯」
「……ファンクラブ、ですか?」
「いえ、すみません、こちらの話です」
よく分からないが、追及されたくないという雰囲気を察して引き下がる。アイリスは、自分のファンクラブが、レムリアの使用人達のあいだで育ちつつあることを知らない。
「アイリスせーんせいっ」
逃げるクラリッサの背中を目で追っていると、背後からのし掛かられた。
同時に耳元で底抜けに明るいフィオナの声が響く。ぎゅっと抱きつかれたアイリスは瞬いて、「フィオナ王女殿下?」と問い返した。
「さっきアストリアから聞いたんだけど、ここに大きなアストラルラインのたまり場があるって本当ですか?」
「本当ですが……って、さっき、アストリアから?」
フィオナがアストリアと邂逅できるのは城の地下にあるアストラルラインのたまり場だけで、精霊の顕現は出来なかった、はずだ。
にもかかわらず、さっき聞いたと言うことは――と、アイリスの疑問に答えるように、背中にのし掛かっているフィオナが右手をアイリスの前にかざした。
その手のひらの上に、小さなアストリアが顕現する。
「……え、なんですか、これは」
「アストリアを顕現させるには力が足りなくて、だったら小さくしたら出来るかなって思ってやってみたの。そしたら、出来ちゃった」
「いや、出来ちゃったって……そんな」
さきほどの稽古で、少しコツを話しただけ。
しかも小型化での顕現は、アイリスも聞いたことのない技術――だが、目の前にいる小さな精霊はたしかにアストリアで、フィオナとの繋がりを保っている。
(前世の記憶があるわたくしは大概だと思っていましたが、前世のわたくし自体も大概ですね。わたくしに稽古を付けて呆れていたアッシュ達の気持ちが分かった気がします)
習熟速度が尋常ではない。
自分が何年も掛けて身に付けた技術を、たった数週間で身に付けてしまう。教え甲斐があるのは事実だが、同時に師匠泣かせな存在と言えるだろう。
もっとも、フィオナがお気に入りのアイリスにとっては純粋に喜ばしい話である。
「アイリス先生、褒めてください」
「ふふっ、フィオナ王女殿下は可愛らしいですね。それに、精霊の顕現もあっという間に為し遂げて、凄く偉いですよ」
「ありがとうございます、アイリス先生!」
喜ぶフィオナの頭を背後に回した手で撫でる。
これで、初代剣姫の再来という売り込みが可能で、フィオナの次期女王という地位は不動のものとなるだろう。
だからこそ、それにまつわる問題を先に解決する必要がある――と、フィオナの頭を撫でながら、アイリスはクラウディアの姿を盗み見た。
水浴びの後――クラリッサはアルヴィン王子の下へ。フィオナは水浴びをした直後にもかかわらず、再び稽古をするとアッシュの下へと向かっていった。
対して、イヴはクラウディアの下で錬金術のお勉強――という訳で、アイリスはそちらのグループに同行する。目的はクラウディアとの話し合いである。
という訳で、やってきたクラウディアの家の教室。クラウディアが子供達に勉強を教えている。アイリスは後ろの席に座り、クラウディアがおこなう授業を見学していた。
子供達――とは言ってもアイリスに近い年齢の子供もいる。そんなわりと大きな子供達が、見た目は十四歳くらいのクラウディアに学んでいる。
彼女がハイエルフであると知っているアイリスだが、やはりなんだか微笑ましい。
というか、かつてのアイリスは彼女が見た目通りの子供だと思い「ディアちゃんは物知りなんだね?」なんて笑っていた。いまにしてみれば、かなり恐れ多い所業である。
(あぁ見えて、200年くらいは生きていますからね)
懐かしい――と、ニコニコしていると、ジロッとクラウディアに睨まれる。どうやら、考えていることがなんとなくバレてしまったらしい。
アイリスが素知らぬ顔で小首をかしげると、クラウディアは小さなな溜め息を吐く。
「よし、おまえ達。いま教えたことを実践してみろ」
黒板に書き示した錬金術の実験方法を指し示し、それからアイリスに視線を合わせた後、奥にある彼女の研究室を示した。どうやら付いてこい、という意味らしい。
アイリスはこくりと頷いて、彼女の後を追い掛ける。
彼女は教室の奥にある自分の実験室に入ると、無造作に紅茶を入れ始めた。実験に使うビーカーで水を沸騰させる彼女を見て、アイリスは相変わらずだなぁと苦笑いを浮かべた。
「言っておくが、これは紅茶用のビーカーだ。ちゃんと分けているから心配するな」
「そこは信じていますが、紅茶は容器で味が変わるんですよ?」
「む? 容器で味が変わるというのは……なんらかの反応が起こる、ということか?」
「金属の種類によってはそういった反応もあるそうですが、ガラスなら問題ないはずです。わたくしが指摘したのは、茶葉から煮出す紅茶の旨味のことです」
水の種類や、沸騰させる水に含まれる空気の量でも味に変化が生まれる。そして旨味を引き出すのにもっとも重要なのは対流による茶葉のポッピング。
ビーカーで再現するのはかなり無理がある。
「ふぅむ……料理も実験と同じ、という訳か。なかなかに興味深い話だが……その話をするために、私のもとを訪ねてきた訳ではあるまい?」
「はい、クラウディアに二つほど相談がありまして」
「相談が二つ? 片方は分かるが、もう片方はなんだ?」
催促されて、アイリスは唇を噛んだ。
自分が魔王の魂を持っていて、だからこそこの里が襲撃されたかもしれない。そんな事実を口にすれば、この里の住人、クラウディアに恨まれるかもしれないからだ。
だが、それでも、アイリスは黙っていることを嫌った。
「実は……魔族の目的は私だった、可能性があります」
「……ほう、そうなのか?」
罵られても仕方がない。くらいの覚悟をしていたアイリスは拍子抜けする。
「そうなのか――って、それだけですか? わたくしがこの里に来たせいで、なんの罪もないこの里の住人が怪我を負ったのかもしれないんですよ?」
「なるほど、それで責任を感じているのか。だが、それはあり得ぬな」
アイリスとて、自分の責任を感じていない訳ではない。むしろ人一倍責任を感じていて、それでも毅然と振る舞っていた、というのが正解だ。
なのに、それを根本的に否定されて混乱してしまう。
「……あり得ない? いいえ、わたくしはこの耳で、魔族の口から聞きました。わたくしが魔王の魂を持って生まれた人間である、と」
「……魔王の魂だと?」
「私の魂が魔王のそれだと、魔族が言っていました」
「ふむ……それが事実なら、たしかに色々と調べる必要はあるな。だが、だとしても、この里の襲撃はアイリスのせいではないだろう」
「なぜそう思うのですか……?」
クラウディアに限って、気休めでそんなことを言うとは思えない。だからこそ、彼女がそう口にする根拠がなんなのかと困惑する。
「簡単な話だ。結界になされた細工の痕跡が、昨日今日のモノではなかったからだ」
「昨日今日のモノではない、ですか?」
「そうだ。アイリスの言葉を信じ、バード族長が調査を命じた。そして見つけた結界に施された細工の痕跡は、少なくとも数ヶ月以上は以前におこなわれたモノだった」
事実であれば、魔族が結界に細工を仕掛けた目的は、アイリスとは別にあったことになる。少なくとも、その時点でアイリスがここに来ると分かるはずがない。
「これは私の予想だが、魔族には二つ目的があったのではないか?」
「……そう、かもしれません」
最初に現れた少女、エリスと名乗った魔族はアイリスを生きたまま連れ去ろうとした。だが、後から現れた魔族はアイリスを殺そうとした。
この里の襲撃こそが本来の目的で、エリスは他の魔族の計画を利用してアイリスを攫おうとしたと見るべきだろう。
(魔族も一枚岩ではないのかもしれませんね)
「それにしても魔王の魂、か。もしや、おまえが過去に戻って転生したという話、その魂が原因ではないか?」
「それは……魔王の魂がアイリスを乗っ取ったと、そういう意味ですか?」
この世界にはもともとフィオナとアイリスがいて、魔王の魂が最初はフィオナ、その次はアイリスに宿ったという可能性。たしかに否定できない。
「無論、あくまで可能性だ。だが……それほど心配せずともよいのではないか? おまえが私をディアちゃんと呼びたがったのは、前世のおまえがそう呼んでいたから、なのであろう?」
「ええ、そう、ですけど……それが?」
どう関係あるのかと困惑する。
「簡単なことだ。おまえは二度に渡って、私をディアちゃんと呼ぶ資格を得た。そのような人間が、悪人のはずがなかろう」
「え、それって……」
ここにいるアイリスが魔王のような悪であるならば、愛称で呼び合うような仲にはならないという意味。であると同時に、いまのセリフは――
「ディアちゃんと呼んで、良いのですか?」
「おまえには色々と助けられたからな。それに、最初はディアちゃんなどと、私を見下しているのかと思ったが、そうじゃないとも分かった。ゆえに、好きに呼ぶがいい」
それが彼女なりの慰めだと理解したアイリスは「ありがとう……ディアちゃん」と、今日一番の笑みを浮かべた。