エピソード 3ー3
丘にある窪み。
それは山頂にある火口のような形をしている。ただし、底から沸き上がっているのはマグマではなくアストラルラインの力そのものだ。
また、何処かに水脈があるのか、窪みの底には幻想的な泉が存在している。これが原因で、炎に関連する精霊が寄りつかない、と前世で耳にしたことがある。
そんな泉の縁に立つと、黒い光のようなモヤが集まってくる。
それがゆっくりと人型をなし、ほどなくして黒髪の美男子に変わった。アイリスの知らない精霊だが、尋常ならざる力を纏っているのがひしひしと伝わってくる。
「この地になに用だ?」
「わたくしはアイリス・アイスフィールドと申します。精霊達に話をしたいと思っているのですが……貴方はなにを司る精霊でしょう?」
「俺は闇精霊、ダストリアだ」
精霊はとても把握できないほどの種類が存在するが、その中でも上位に位置するのが、地、水、風、火の四属性に光と闇を加えた属性に分類される精霊。
つまりダストリアは、アイリスがいままで出会った精霊の中で最上位に位置する精霊だ。
アイリスは息を呑みつつもカーテシーをする。
「よい、精霊の俺に、そのような格式張った礼儀は不要だ」
「――分かりました」
精霊は妙に人間くさいところがある。
礼儀は不要と言いつつ、敬語をやめた途端不興を買う――なんて可能性も零ではないが、それよりもその言葉に従わなかった場合の方が問題だと考えた。
アイリスは肩の力を抜いて、フィストリアと接するときのように気持ちを切り替える。
「それで、闇精霊がなぜわたくしの前に姿を現したのでしょう?」
「うむ。そなたに加護を与えている精霊達が困惑していてな。状況を鑑み、俺が精霊を代表して、おまえと会うことになったのだ」
いつの間にか知らぬ相手に加護を与えていた。
少し物の見方を変えれば、いつの間にか加護を奪われていたとなりかねない。精霊の怒りを買っている可能性に思い至り、アイリスはわずかながらに焦りを覚える。
「わたくしもちょうど、その件でこの地を訪れました。ダストリアにはお手間をお掛けして申し訳ありませんが、少し話し合いにお付き合いいただけるでしょうか?」
「構わぬ。俺もアレが目に掛けるおまえのことが気になっていたからな」
「アレ……フィストリアのこと、でしょうか?」
「ん? あぁいや、そうではない。まぁこの話はここまでだ」
追及を阻まれる。
少し気にはなるが、さりとて重要なことではないと疑問を隅に追いやった。
「では、精霊の加護について話させていただきます」
「ああ、そうだな。おまえはなぜ、会ったこともない精霊の加護を受けている」
「その質問は誤りです。わたくしはこの地で精霊の試練を受けたことがあるのです」
「……精霊を相手に嘘偽りを申すのは許されぬ悪徳だぞ?」
闇精霊から闇のオーラがにじみ出る。怒っているというよりは試しているというのが正解だろう。アイリスは焦ることなく闇精霊を真っ向から見据える。
「フィストリアの加護に懸けて、嘘偽りは決して申しておりません。ただし、受けたことがあるという言葉が適切かどうかは、一考の余地があるでしょう」
「そなたが未来より舞い戻った転生者である、という話か」
「……バード族長から聞いているのですか?」
「あの者に力を貸す精霊を通して、だがな」
ならば話は早いと。アイリスは族長に話したことを繰り返し、それが事実であると訴える。
「……なるほど、その言葉の真偽はあとで確かめるとして、そなたの目的はなんだ?」
「与えられた加護の再取得。そのために試練を受け直したいと考えています」
加護とは、すなわち精霊から与えられる助力である。極端な言い方をすれば、精霊と親睦を深めるほどに引き出せる能力が上がる。
いまのアイリスが発動できる加護の多くは、前世の時よりも弱くなっている。
「……なるほど、事情は理解した。ならば、そなたの記憶を見せてもらおう」
「わたくしの記憶を? そのようなことが可能なのですか?」
「どの精霊にも出来ることではないが、な」
精霊は嘘偽りを嫌う。闇精霊が可能だというのなら、それは可能ということだろう。自分の記憶を覗かれることに躊躇いはあるが、それも必要なことだと割り切ることにした。
「分かりました。わたくしの疑惑を払うために、ぜひお願いいたします」
「では少しジッとしていろ」
「はい――え? ちょっと」
肩を抱かれて、顔を寄せられる。とっさにアイリスは闇精霊を突き飛ばした。
「……なんのつもりだ?」
「それはこちらのセリフです。一体なにをするつもりですか?」
「記憶を読むといっただろう」
「そうではなく、その手段です」
さきほどの体勢はまるで、キスをしようとしているかのようだった。闇精霊がいくら人間離れした美男子だったとしても、決して許せることではないと警戒する。
「ふむ。そなたは関心がないのかと思っていたが……なるほど。アレに対して警戒心を抱いていないだけであったか」
再び闇精霊が口にするアレという言葉。
フィストリアでないのなら、まっさきに思い浮かぶのは他の精霊。だが、いまのアイリスは、フィストリア以外との交友がない。
だとすれば加護の対象、もしくは対象になり得る人間。アルヴィン王子の存在が脳裏をよぎるが、警戒心を抱いていないという条件をクリアしていないので可能性から排除する。
おそらくはフィオナか隠れ里の誰かだろうと当たりを付けた。
「話を戻そう。記憶を読み取るには、そなたの額と俺の額を近づける必要があるのだ」
「顔を近づけるだけ、ですか?」
「そうだ。というか、精霊が人間に不埒なことをするとでも?」
「……………………いいえ」
フィストリアやアストリアのあれこれが思い浮かぶが、それらを飲み込んで否定する。
「なにやら気になる態度だが……まぁいい。では、今度こそ記憶を読み取らせてもらおう」
闇精霊が額を寄せると、アイリスの脳裏に様々な光景が浮かび始める。
アイリスとして過ごした記憶と、フィオナとして過ごした記憶。様々な思い出がまるで紙芝居を見せられているかのように、脳裏に浮かんでは消えていく。
その数は際限なく増え続け、アイリスの脳裏は様々な光景で埋め尽くされた。
不思議と負担は感じない。むしろ意識すると、アイリス自身が忘れかけていた思い出すらも鮮明に思い浮かび、それがちょっと面白いと笑う。
続いてアイリスが思い浮かべたのは、フィオナがアルヴィン王子によって追放された時の光景だった。フィオナを追放するアルヴィン王子は――感情を押し殺すような顔をしていた。
当時は、邪魔者の排除を為し遂げた喜びを隠しているのだと思っていたアイリスだが、事情を知ったいまではそうでないことが分かる。
アルヴィン王子にとって大切な存在だからこそ、フィオナを城から遠ざけた。
(まぁ、わたくしはそんなこと、ちっとも望んでいなかったわけですが……)
当時の彼女がその事実を知ったら泣きじゃくっただろう。
自分はそんなに頼りないのか――と。
もっとも、いまのアイリスから見れば、当時のフィオナはとても頼りない。自分がアルヴィン王子だったとしても、同じ選択をしていた可能性は高いとも理解している。
その辺り、アイリスにとっては非常に複雑な心境である。
――そんな風に考えていると、脳裏に浮かんでいた光景がゆっくりと消えていく。気が付けば、闇精霊がアイリスから距離をとっていた。
「そなたの言葉が真実であると確認した」
まっすぐにアイリスを見つめ、それから厳かな声で言い放った。
「お手間をお掛けして申し訳ありません」
「さっきも言ったが構わぬ。それよりもそなたは、なかなか数奇な運命を抱えているようだな。その運命を覆すことこそが、そなたの真の目的、という訳か」
その問いに対して沈黙する。
アイリスの記憶をすべて見た後ならば、その目的も自ずと理解しているはずだ。なのに、なぜそのような確認をするのかと疑問を抱いたからだ。
記憶の一部だけしか確認していないのか、もしくはすべてを知った上での形式的な確認なのか――と、そこまで考えたアイリスは、静かに息を吐く。
(少し落ち着きましょう。彼は精霊であって、普段相手にしている権謀術数にまみれた貴族達とは違う存在。妙な深読みはしない方がいいはずです)
深呼吸を一つ。それからその通りですと肯定の意を示した。
「なるほど、そなたの人となりを理解した」
「では、精霊の試練を受け直させていただけますか?」
「その必要はない」
「……それは、どういう意味でしょう?」
きゅっとスカートの裾を握り締める。
フィオナとアイリスの身体的な能力にそれほどの差はない。筋力はともかく、それ以外の部分では優れている部分も多い。
だが、能力的に条件を満たしていても、必ずしも精霊から好かれるとは限らない。加護を逆に剥奪される可能性を危惧するが、結果からいってしまえばそれは杞憂だった。
「俺が見た記憶の一部を、おまえに加護を与えている精霊達とも共有した。まぁ早い話が、おまえがどのように試練を突破したのか、確認した、という訳だな」
「それでは……?」
「ああ。おまえには正式に加護を与えるそうだ」
言うが早いか、アイリスの周囲に様々な色の光が集まり始めた。
拳精霊のグラウシスに弓精霊であるレイルシュタット。その他アイリスが前世で契約した精霊達が形をなして、レムリア国にいるはずのアストリアまでもが姿を現した。
それぞれの精霊を象徴する光の粒子がアイリスに降り注ぐ。幻想的な光景の渦中に立つアイリスは、次々に加護を授かっていく。
自らの能力が引き上げられているのを全身で感じる。
「どうだ、すべての加護を最大限まで取り戻した感想は」
「これほどの実感を抱くとは思いませんでした。ダストリアにも感謝いたします」
感謝の言葉を伝え、精霊達が帰って行くのを待つ。アストリアを始めとした精霊達は順番に姿を消していき、最後にダストリアだけが残った。
「アイリス、そなたに忠告しておこう。そなたは前世の記憶を頼りに未来を予測しているようだが、既にそなたが思っているよりも歴史は変化しつつある。それを自覚するがよい」
「……わたくしが思っているよりも、ですか?」
「たき火を焚くことで雨が降ることもある。それが巨大なたき火であればなおさらだ。自然現象ですらも、人の行動で変わると知っておくべきだ」
アイリスはその身を小さく震わせた。自分が干ばつを防ぐことで、これから起きるはずの自然現象すらも変えてしまった、その可能性に思い至ったからだ。
「ご忠告……感謝いたします」
精霊達との再契約を終えて丘に戻ると、アルヴィン王子が待ち構えていた。
「アイリス、ずいぶんと遅かったな。あまりに遅いから、なにかあったと心配したぞ」
「遅かった、ですか?」
問い返すと、アルヴィン王子は空を指差した。
昇り掛けだった太陽は森に隠れて見えず、空があかね色に染まり始めている。記憶を読み取る作業でずいぶんと時間を食ったようだ。
逢魔が時――空を美しく染め上げると同時に、人々の心を不安にさせるといわれている。
だから、だろうか?
アイリスは闇精霊の忠告を思い出し、いいようのない不安を覚えた。
「アイリス、どうした? 精霊の試練とやらには合格したのではないのか?」
「その件については問題ないのですが、少し気になることを言われまして」
「気になること、か。よく分からんが話せ。相談くらいは乗ってやろう」
アルヴィン王子らしい物言い――だが、気遣ってくれているらしい。それに気付いたアイリスは自然と笑みを零す。
「……そうですね。そろそろ頃合いかもしれません。既にお気付きのことと思いますが、わたくしはある種の未来予知をしていました」
「やはり、か。干ばつの件はあからさまだったからな。他にもいくつか心当たりがある」
アルヴィン王子の相づちに対してアイリスもまた頷き返す。彼にこの事実を受け入れてもらうために、アイリスはいままでその事実をほのめかしてきた。
彼がその事実に信憑性を抱くまで、アイリスの思惑通りである。
「ただし、わたくしの未来予知には大きな欠点があります。わたくしが知るのは、いまから数年分の、たった一つの未来だけなのです」
「数年分、それだけあれば様々なことが可能だと思うが……?」
「わたくしもそう思っていました。ですが精霊に忠告されました。人の行動を変えれば、自然現象ですらも変わることがある、と」
アルヴィン王子が難しい顔をした。アイリスの言葉の本質を考えているのだろう。
「わたくしは干ばつによる被害を最小限に留めました。ですが、わたくしの知る未来では大きな被害を受けて、多くの人々が飢え、リゼル国との関係悪化にも繋がりました」
「……アイリスの知る未来は、その被害が前提の未来、という訳か。……たしかに多くの水車を設置したことを考えても、既に自然現象ですら変化しているな」
アイリスがまだ気付いていなかった事実。
水車によって川の水が大量に汲み上げられている。全体から見れば些細な量ではあるが、確実に自然もアイリスの知る未来とは変わっている。
「アイリス、おまえの変えた未来は、他にどのようなものがあるのだ?」
「それは……」
動きを止め、じぃっとアルヴィン王子の顔を見つめる。アイリスはいままで、前世で彼に裏切られたと思っていた。少なくとも、その可能性を捨てきれずにいた。
だが、前世の彼がフィオナを護るために遠ざけたことだけはおそらく事実だろう。
それを前提に考えれば、アルヴィン王子は敵じゃない。ただし、フィオナが前世と同じような危険にさらされた場合、同じことを繰り返す可能性もある。
それを回避するためにも、王子を味方に引き込む必要がある。
だから――と、アイリスは自分の変えた過去を打ち明けることにした。
「最初に変えたのは、クラリッサの命運です。リゼル国から帰還後、彼女は貴方の前から姿を消しています。おそらくはあのときに発生した襲撃が原因でしょう」
それはアルヴィン王子にとって少なからず衝撃だったのだろう。彼はわずかに目を見張って、それから「……続けてくれ」と静かに口にした。
「次はレベッカ、それにネイトとイヴですね。脅されていたレベッカが敵を城内に引き入れることで、フィオナ王女殿下が襲撃される事件がありました」
「……レベッカだと? だが、彼女は俺も内通者としてマークしていた。そのようなことをさせるはずがないのだが……いや、そうか。クラリッサがいない未来、という訳か」
内通者の挙動をマークしていたのはクラリッサ。彼女を失ったことで情報の伝達に齟齬をきたし、内通者の動きを掴み損ねた可能性がある、ということ。
「クラリッサとずいぶん仲がよいのですね?」
「なんだ、焼き餅か?」
「いいえ、純然たる好奇心です」
半眼になると、なぜか頭を撫でられた。
「あいつは同志みたいなものだ。おまえも知っていると思うが、俺は愛妾の子供だろ? それ故の苦労が多くてな。あいつは、その頃から俺に協力してくれているんだ」
「へぇ……」
フィオナとして過ごしたころでも、そんな話は知らなかった。というか、アルヴィン王子が愛妾の子供として苦労していたこと自体を知らなかった。
なんて思っていると、今度は髪の一房を持ち上げられる。とか思っているうちに、アルヴィン王子がその髪の房に唇を落とした。
「とにかく、おまえが嫉妬する必要はないぞ。むしろ、最近は俺の方が……」
「……ん? 俺の方が、なんですか?」
「いや、クラリッサが、おまえとお茶をしたとか、最近うるさくてな」
クラリッサのアイリスファンクラブの活動が活発だ――なんて知るはずもなく、アイリスはよく分からないと小首をかしげる。
「まぁその話はいい。未来を変えたのは以上か?」
「いえ、まだあります。グラニス陛下が命を狙われた件です」
「……毒の件か。あれは、掛かり付けの医者がレスター侯爵に抱き込まれていたらしい」
「あぁ、それで……」
毒だと見抜けなかった訳ではなく、毒だと見抜いた上で気付かぬフリをしていた。
グラニス王が精霊の加護を受けていて病などは跳ね返す丈夫な身体の持ち主ということを合わせれば、他の人間が毒殺を疑うことは難しかった、という訳だ。
「わたくしが既に変えた未来はその辺りまでです。あとは、貴方が中継ぎの王になり……」
「フィオナを追放でもしたか?」
「……よく分かりましたね」
「それだけ国が荒れていれば、な。側に置いておくよりも、遠くへ逃がす方が安全だと考えるだろう。あいつなら、一人でも生きていけるはずだからな」
フィオナの末路を知るアイリスは複雑な心境を抱え、その言葉には沈黙を持って答えた。アルヴィン王子はなにか気付いたかもしれないが、結局はなにも言わなかった。
「話を戻します。わたくしの知る未来では、レムリアと隠れ里に魔物の襲撃があります。その発生時期が、数ヶ月後と数年後なのですが……」
「なるほど、その時期がずれる可能性があると危惧しているわけだな」
「……はい」
「状況を理解した。すぐに城に伝令を出し、魔物の襲撃に対する備えを強化させよう」
アルヴィン王子が迅速な判断を下す。だが、その判断は無駄になってしまう。そこに駆け寄ってきたクラリッサが新たな情報をもたらしたからだ。
「アルヴィン様、里の者からの報告です。何者かによって里の結界が破られたそうです」