エピソード 3ー8 心当たりはありました
書類仕事の合間、アルヴィンは執務室の窓から見える中庭を眺めていた。
芝が敷き詰められた広大な敷地。奥には植物園や薔薇園などが並んでいる。そして手前には低い木が植えられ、その木漏れ日の下には小さなテラス席。
アルヴィンの従妹であるフィオナと、その教育係であるアイリスが向き合って座っている。
「……あそこで勉強をしているのか、ずいぶんと優雅だな」
アルヴィンにとっての授業とは、王族としての責務を全うするために必要な知識を学ぶことで、辛く厳しいものだった。
いまの二人のように、木漏れ日の下で授業を受けるなど想像も出来なかった。
笑顔が零れる授業風景。
それをぼんやりと眺めていたアルヴィンの視線が、やがてアイリスへと定められた。笑わない賢姫と揶揄される彼女が柔らかな表情を従妹へと向けている。
不思議な少女だ。
アルヴィンがそのことを伝えたのは限られた人間だけなのに、なぜかフィオナの教育係を募集していることを知っていた。
あまりに怪しくて、最初はなにかの罠かと思った。
それこそ、フィオナや自分を狙う暗殺者である可能性まで考え、戦いをふっかけて自分を合法的に殺すチャンスを与えてみたりもしたが、彼女は本気すら出さなかった。
その後も無防備を晒してみたが、アルヴィンはいまもこうして生きている。少なくとも、アルヴィンやフィオナに敵意がないことは間違いないだろう。
(それに、あいつは何処かフィオナと似ている)
見た目や性格は対照的だが、どことなく雰囲気が似ているのだ。
だからこそ、だろうか?
アイリスならばフィオナを救えるかもしれないと期待してしまっている。
フィオナは責務という鎖に縛られている。
剣姫は国の象徴であると同時に、有事の際は先頭に立って戦うことを求められる。そのうえ、フィオナは女王としての責任も負わなくてはいけない。
平和な時代ならまだしも、昨今は不穏なことがいくつも発生している。いまのフィオナが女王になったとしても、責務に押し潰されてしまうだろう。
だが、アイリスは同じ境遇でありながら、責務という名の鎖を断ち切った。彼女ならばあるいは、フィオナの鎖も断ち切ってくれるかもしれないと期待している。
――と、そんなことを考えながら二人を眺めていると、家臣の一人が報告書を携えてやってきた。そんな彼の報告を聞いたアルヴィンは「ちょうど良い」と立ち上がる。
「アルヴィン王子、どうなされたのですか?」
「少し遊んでくる」
アルヴィンはそう言い残して退出していった。そのとき、ちらりと視線を向けた窓の先。そこに咲き誇る花々を目にした家臣は「春ですな」と呟いた。
◆◆◆
アイリスがフィオナに恐ろしい選択肢を突きつけてから――つまりは、陛下の毒を分解してから一ヶ月ほどが過ぎたある日の昼下がり。
授業を終えたアイリスが中庭の花壇を眺めていると、どこからか現れたアルヴィン王子に纏わり付かれた。彼はおもむろに持ち上げたアイリスの髪を指先で弄ぶ。
「ぶっ飛ばしますよ?」
「それでおまえが受け入れてくれるのなら甘んじて受け入れよう」
「処置なしですね」
溜め息をついたアイリスは「なにか用ですか?」と冷静に問い返した。
「ザカリー王子の件が決着したので教えてやろうと思ってな」
「あぁ……そんな人もいましたね」
「そんな人もいましたね、か」
なにがそんなに面白かったのか、アルヴィン王子が喉の奥で笑う。
ザカリー王太子殿下の処遇にあまり興味のなかったアイリスだが、彼の物言いには興味を覚える。アルヴィン王子はリゼルの王子をザカリー王太子と呼んでいたはずだ。
その呼称が王太子から王子へと変わった理由は――
「もしや、彼は……?」
「ああ。あいつは王太子の座を引きずり下ろされた」
「なるほど。……まぁ無理もないでしょうね」
アイリスとの婚約を破棄した時点で見限られていた。それでも王太子の地位に留まっていたのは、その地位を奪うための口実がなかったからだ。
その状況で友好国であるレムリアと問題を起こしたらどうなるかは想像するまでもない。
「おまえの父からも糾弾されたそうだからな。本来はそれで終わりとはいかない話であったが、そなたの取りなしがあったと言うことにして手打ちにしてある」
「それは……」
アイリスは目を見張った。
本来であればレムリアからリゼルに対しての貸し一つとすることが出来た。
それをあえてアイリスの取りなしのおかげとした。それはつまり、レムリアからアイリスへの貸し一つにすり替えた、ということだ。
「それと、おまえの提案も伝えて、ちゃんと王子をどん底に叩き落としておいた」
「どん底って、そんなことはないでしょう?」
アイリスの提案とは、ザカリー王子の結婚相手に関することだ。
王太子殿下と男爵令嬢のヘレナでは結ばれることが叶わなかった。
だが、王太子から下ろされたザカリー王子は微妙な立場に立たされる。元王太子と言うことで、傀儡の王に祭り上げようとする者が現れないとも限らない。
彼は何処かの田舎に封じられるだろう。
それゆえに、いまの彼は身分が高い令嬢との婚姻は望まれない。またその可能性を摘み取るためにも、男爵令嬢のような下級貴族の娘との婚姻こそが望まれる。
だからアイリスは、王子がヘレナの入り婿となることを提案したのだ。
王族の責務を投げ出してまで手に入れたかった真実の愛。それを手に入れられるのなら、決して不幸な人生にはならないだろうというアイリスの優しさだ。
だが――
「振られたそうだぞ?」
「……そんな、どうして?」
「どうしてもなにも、少し想像すれば分かることだろう? あのへっぽこ王子がどう思っていたかはともかく、相手は権力者に取り入ろうとした娘だぞ?」
だから、王太子から下ろされた傷物王子には用はない――と、そういうことらしい。
「想い合っていれば幸せになれると思ったのですが……ままならないものですね」
「努力なくして得られるものは知れている、ということだ」
そう言ったアルヴィン王子がアイリスの頭を撫でつけた。その手がいつもより優しく感じる。もしかして慰められているのだろうかと小首をかしげる。
「ともあれ、おまえの祖国での名誉も回復に向かうだろう」
「それ、よろしかったのですか……?」
アルヴィン王子の一存で決めて良い話ではない。そう思ったのだが、この件はグラニス陛下も了承しているそうだ。
「おまえが両国の橋渡しをしたとなれば、今後もこの国に滞在する口実となるだろう、だそうだ。よほど陛下に気に入られたようだな」
「はぁ……そうですか」
可愛い孫娘のためだろうかと、アイリスは小首をかしげる。
アイリスが陛下の毒殺を未然に防いだことを知らないアルヴィン王子はむろん、アイリスも自分がそれだけの価値を示したという自覚がない。
「そのうえで、おまえの父から伝言を預かっている」
アルヴィン王子はそこで言葉を切った。
おそらくは彼にとって言い出しにくい話なのだろうと読み取る。アイリスは覚悟を決めて、その伝言をお聞かせくださいと促した。
「これでおまえの汚名は晴れる。リゼル国に帰ってきてはどうか、と」
「……それは、わたくしを解雇する、ということでしょうか?」
いまの伝言を王子が口にするのを躊躇う理由がない。
ゆえに迂遠な言い回しなのかと問い返す。刹那、アルヴィン王子がアイリスの腕を掴み「馬鹿を言うな。おまえを――」と声をつまらせた。
「……アルヴィン王子?」
「あぁ、いや……すまん。おまえを手放すつもりなど毛頭ない。それは陛下の意向からも明らかだったはずだ」
アイリスから離れ、アルヴィン王子はそっと目をそらす。そのらしからぬ態度に首を傾げつつも、アイリスは誤解であったことに安堵した。
「申し訳ありません。穿った受け取り方をしたことを謝罪します」
「いや、俺も言葉が足りなかった。俺はただ――」
アルヴィン王子の手のひらがアイリスの頬に触れる。
いつもと同じようで、だけどいつもとは少し違う真剣な眼差し。なにか言いたげな顔をする彼を前に、アイリスはその言葉を待ち受けた。
だが、王子の指が頬から離れ、髪の間を滑り落ちてしまった。
それから一呼吸おいて、花壇の向こう側から話し声が聞こえてくる。そうして姿を現したのはレスター侯爵とその連れの男。
連れは二十代半ばくらいだろうか? 黒髪に緑色の瞳。精悍な顔つきの男だった。
「これはアルヴィン王子もご一緒でしたか。お取り込み中、でしたかな?」
「いや、気にする必要はない。アイリスになにか用か?」
アルヴィン王子“も”と口にしたレスター侯爵の言葉から、彼らの目的がアイリスであると察したアルヴィン王子がアイリスを彼らの前に押し出した。
その横顔には何やら意地の悪い笑みが浮かんでいる。
(お兄様のこの顔、わたくしがなにかやらかしたと思っていますね)
失礼なと、レスター侯爵達から見えないようにアルヴィン王子の脇腹を抓る。笑顔を浮かべたまま、「わたくしになにかご用ですか?」と問い掛けた。
「そなたがフィオナ王女殿下に良くない教育をおこなっていると聞いてな」
「良くない教育、ですか?」
「詳しい話はゲイル子爵がする。まだ若造ではあるが、優秀で将来性のある男だ」
「ご紹介にあずかりましたゲイル子爵です。私は農水大臣を務めております」
「……なるほど」
やらかした心当たりのあるアイリスであった。