エピソード 1ー1 裏切りの王子
初めて会うはずの相手。なのにアイリスの口からお兄様という言葉が零れ落ちた。その不思議な感覚に彼女の胸がトクンと高鳴る。
続けて激しい頭痛に襲われる。知るはずのない彼と過ごした時間。知らない人々の顔。見たこともないお城で暮らす日々が脳裏に浮かぶ。
それはレムリア国の幼き王女殿下、フィオナの記憶だった。
リゼルにとっての友好国であるレムリアの象徴。
剣姫として育てられたお姫様。
祖父の後を継いで女王になるはずだった彼女はけれど、従兄のアルヴィン王子の裏切りに遭って失脚し、その末に儚く命を散らした。
いや、散らしたはずだった――というべきだろう。
アイリスが思い出した記憶と歴史を照らし合わせた限り、フィオナの失脚はまだ何年もさきの話である。アイリスは自分が過去の他人に転生した可能性に思い至った。
そして、目の前にいる青年こそがフィオナを裏切った従兄だ。
「なぜ、こんなところに……」
「俺はたまたま居合わせただけだ、それより、なぜ俺を兄と呼んだ?」
「し、失礼いたしました、アルヴィン王子」
「ほう、俺のことを知っているのか」
(うくっ。失敗したわね。少し落ち着きましょう)
賢姫と呼ばれるアイリスではあるが、唐突に前世の記憶を思い出すという現実を受け入れるのが精一杯で、目の前の裏切り者に対する判断が追いついていない。
一度だけ深く呼吸をした彼女は、背筋を正してアルヴィン王子を見上げた。
「夜になお煌めくブロンドの髪に、強い意志を秘めた青い瞳。なにより、お姿を目にした令嬢全てを魅了しそうな美青年は二人とおりませんもの」
「令嬢全てを魅了するという割に、おまえは平気そうだが?」
「それはまぁ……」
前世で見慣れている上に、自分を裏切って破滅させた仇敵だ。恐怖に目をそらすならともかく、その容姿に見蕩れることなどあろうはずもない。
――などと言えるはずもなく、アイリスは穏やかな愛想笑いをもって誤魔化した。ちなみに、これは前世の彼女――フィオナの記憶を思い出した影響である。
いままでのアイリスは、愛想笑いなどめったに浮かべなかった。
「……ふむ。それで、なぜ俺を兄と呼んだ?」
その言葉にアイリスはドレスの裾を握り締めた。
アイリスの知るアルヴィンは優秀で、そのうえ好奇心が強い。彼の興味を引いてしまっては、前世に続いて破滅させられるかもしれない。
(上手く彼の興味を外さなくては――いえ、ちょっと待って。わたくしが本当に過去に戻って他人に転生したのなら、前世のわたくしはいまどうなっているの?)
素早くいくつかの可能性を思い浮かべ、それを確かめるために探りを入れる。
「……それは、アルヴィン王子には愛らしい妹がいらっしゃると伺ったからです」
「フィオナのことか? それとなんの関係がある」
(やはり、前世のわたくしが別人として存在している!)
驚くべき事態ではあるが、予測した結果でもある。
もはやアイリスには確認のしようがないことではあるが、おそらくフィオナとして暮らしていた前世では、この国に別のアイリスが存在していたはずだ。
いまのフィオナが前世のアイリスなのか、それとも別のフィオナなのかは分からない。けれど、フィオナが存在する以上、かつてのアイリスが受けた裏切りは繰り返される。
このままでは、あらたなフィオナがアルヴィン王子に破滅させられる。
あらたなフィオナはいまの自分にとっては赤の他人だし、追放されてから死ぬまでの数年は自由で、決して辛いことばかりではなかった。
けれど、慕っていた従兄に裏切られた狂おしいほどの痛みは誰よりも知っている。
(叶うなら、前世のわたくしを救いたい)
未来を知るアイリスにしか出来ないことだ。
それに前世の記憶がたしかなら、これから両国にとって良くないことが立て続けに発生する。それを未然に防ぐにはレムリア国にいた方が都合がいい。
だから――
「おい、聞いているのか?」
「失礼いたしました」
「俺は理由を訊いているんだが?」
「わたくしが貴方を兄と呼んだ理由。それは……」
一度そこでタメを作り、かつての仇敵の視線を受け止める。そうして彼の興味を引いたアイリスは、人差し指を唇に押し当てて――
「秘密、です」
人を食ったように、それでいて艶やかに笑う。
多くの殿方を虜にしそうな魔性の微笑みを前に、けれどそうして己に近付く令嬢に辟易しているアルヴィン王子は目を細めた。
「……そんなことで誤魔化せると思っているのか?」
「誤魔化すつもりなどございません。ただ……答える気がないだけですもの」
「……ほう。俺の正体を知ってなお、そのような口を利くか」
軽い殺気に晒される。並みの令嬢であればそれだけでへたり込むであろう殺気を受けながらも、アイリスは悠然とした微笑みを崩さない。
アイリスの知るアルヴィン王子は好奇心が強い。
だが、兄と呼んだ程度でそれほど注意を引けるとは思っていない。彼とお近づきになりたい令嬢達は星の数ほどいて、気を惹くためにあの手この手を使っている。
お兄様と呼んだ女性も他にいるだろう。
(でも、いまの殺気を受け流す令嬢は初めてのはずよ。フィオナなら受け流せるでしょうけど、お兄様はフィオナにそのような殺気を向けたことないものね)
あえて浅はかな令嬢を演じ、アルヴィン王子の殺気を引き出した。その殺気を受け流すことで、剣姫を従妹に持ち、自らも剣の達人である彼の興味を引く。
目的は、彼に取り入ってレムリアへ渡ること。
幸いにして婚約破棄をされたアイリスは自由の身だ。賢姫との婚約を破棄するという王太子殿下の愚行を盾にすれば、醜聞から逃れる名目で他国に渡る程度は為し遂げられる。
父親を説得してレムリアに渡る許可を得る算段は出来ている。ゆえにこの件の成否は、この仇敵――アルヴィン王子の興味を引けるかどうかに掛かっている。
果たして、彼は殺気を収めてニヤリと笑った。
「なるほど、さすがは賢姫ということか」
「あら、わたくしをご存じなのですか?」
「限りなく銀に近いプラチナブロンドの髪に、幻想的なアメシストの瞳。数多の男を魅了する容姿を持つ娘などこの国に二人といまい。アイリス・アイスフィールド。この国を代表する公爵家の娘で、最年少で精霊の加護を得た希代の賢姫だろう」
「あら、王子がそのような世辞を口にするとは思いませんでした」
まるでアイリスが口にした賛美の使い回し。さきほどのお世辞を揶揄されていることに気付いたアイリスは、それをあえて社交辞令として受け流す。
「……ふむ、笑わない賢姫と聴いていたが、たしかにあまり愛想がないな。俺を兄と呼んだときの笑顔は素直に美しいと思ったのだが……もう一度笑うつもりはないか?」
「もちろん、楽しいことがあれば笑いますよ?」
挑みかかるように、勝ち気な瞳を王子に向ける。
アルヴィン王子は――というか、レムリアの王族は基本的に脳筋なのだ。彼の好奇心をくすぐるように挑発すれば、戦いを挑んでくるに違いないという打算があった。
そのもくろみ通り、隣国の王子は「面白い」と笑うが――
「では、俺と一曲踊ってもらおうか」
差し出された右手を見て、なんだか思っていたのと違うとアイリスは首を傾げた。