エピソード 2ー8 それぞれのお気に入り
普段はフィオナの教育係として働き、空いている時間でネイトやイヴを使用人として鍛えていく。レムリア国に来たアイリスは忙しくも充実した日々を送っていた。
そうしてレムリア国での生活にも慣れてきたアイリスだが、少しだけ問題も抱えていた。
それはたとえば、フィオナに音楽を教えていたときのことだ。
グランドピアノで伴奏をするアイリスに併せ、フィオナがヴァイオリンを演奏する。
初代剣姫が友人の作曲家に依頼したという伝統ある曲で、とてもとても親しみのある音楽なのだが、練習場にはなんとも言えない音色が響き渡っていた。
剣姫としてただひたすら励んできたフィオナは少々……いや、だいぶ演奏が苦手だ。
ただし、問題とはそれのことではない。
フィオナは日を追うごとに、強さを示すアイリスに傾倒していっている。決して出来の良い生徒とはいえないが、ひたすら真面目に課題をこなして成長している。
問題なのは――
「王子……邪魔っ」
アイリスは素っ気なく言い放った。グランドピアノの上で指を踊らせるアイリスのプラチナブロンドを、アルヴィン王子が指先で弄んでいるのだ。
「おまえの髪はまるで絹のように艶やかでとても触り心地が良いのだ」
「良いのだ、でありませんよ。乙女の髪をなんだと思っているのですか?」
「……乙女?」
「ぶっ飛ばしますよ」
まったく遠慮のない言葉。
アイリスのアルヴィン王子への対応は日々ぞんざいになっている。最初は苦言を呈していた使用人達も、だったら王子を諫めてくださいというアイリスの抗議に口を閉ざした。
――とアイリスは思っている。
「みだりに女性の髪に触れてはならぬと、王子は学ばなかったのですか?」
「心配するな。俺がこのように触れる相手はおまえだけだ」
「この王子皮肉が通じないっ! というか、お嬢様が集中できないので止めてください」
ただでさえ、フィオナは武術以外のことに対する集中力は長続きしない。
彼女がヴァイオリンを弾く背後でこんな会話をしていれば、フィオナの集中力が削がれていくのは火を見るよりも明らかだ。
「たしかに、な。――フィオナ。一流の剣士は類い希なる集中力が求められる。そのように意識を散らしていては俺やアイリスには勝てないぞ?」
「わ、分かってるよっ!」
こちらをチラチラとうかがっていたフィオナだが、再びヴァイオリンに意識を戻す。
アイリスは、違う、そうじゃないと心の中で突っ込んだ。
「……王子」
「なんだ?」
「ほどほどにしてくださいよ?」
「心得た」
色々と諦めたアイリスは伴奏に集中する。
アイリスの伴奏に合わせて、フィオナがヴァイオリンを掻き鳴らす。伝統を感じさせつつも、明るいメロディーを奏でているのだが――フィオナの演奏には感情がない。
華がないと言い換えても良いだろう。
ただ淡々と譜面を攫っているような、そんな印象を受ける。
アイリスは伴奏にタメを作り、フィオナの演奏に起伏が生まれるように誘導する。上半身を揺らしながら伴奏をしていると、髪に触れていたアルヴィン王子が髪に顔を寄せてくる。
邪魔だと演奏に合わせて頭突きをするが、アルヴィン王子はそつなく避けてしまった。
「お兄様っ! 授業の邪魔をしないでください!」
ついには耐えきれなくなったフィオナが声を荒らげて詰め寄ってくる。だがアルヴィン王子はその抗議を余裕の笑みで受け止めた。
「なにを言う。俺は別におまえの邪魔はしていないだろう?」
「アイリス先生にベタベタしてるじゃないですかっ、私の先生だよ!」
「そうだ、俺が連れてきた、な。感謝しても良いのだぞ?」
「そ、それは、感謝してるけど……」
(素直で可愛いなぁ……)
アイリスはフィオナを見てそんな感想を抱くが、アルヴィン王子は苦笑した。おそらく内心ではチョロイとでも思っているのだろう。心の声が思いっきり表情に反映されている。
それに気付いたであろうフィオナの頬がぷくぅと膨らんだ。
「もうもうもうっ、とにかく気が散るから邪魔しないでっ!」
「自分の集中力のなさを人のせいにするのは感心しないな」
「むぅぅ、だったらお兄様は、同じ状況でちゃんと演奏できるんですか!?」
「――ふっ」
アルヴィン王子はヴァイオリンを奪い取り、アイリスに向かって伴奏を促してくる。
「……わたくし、フィオナお嬢様の授業をしているんですが?」
「お手本がないから上手くならないんだ」
「まぁ、そうかも知れませんが」
俺がお手本だとばかりの態度。その不遜な態度に呆れつつ、お手本があれば負けん気の強いフィオナはやる気を出すのも事実だろうと思い直す。
そして――
フィオナが背後から抱きついてきた。アイリスの首筋に顔を寄せてこすりつけてくる。どうやら、邪魔をするところまで再現するつもりのようだ。
(でもこれ、集中力が削がれるのはわたくしですよね)
アルヴィン王子がアイリスの髪を触っていただけなのに対して、フィオナはアイリスに頬ずりまでしている。物理的に演奏が阻害されているのだ。
(従兄妹でのじゃれ合いに巻き込まないで欲しいんですが……あれ? でもこれ、お兄様は放っておいて、フィオナとじゃれ合っていても良いのでは?)
そんなことを考えるが、早くしろとアルヴィン王子に急かされる。
アイリスはこっそりと溜め息を吐いて伴奏を始めた。淡々とした、いかにも練習向けですと言わんばかりの伴奏に、アルヴィン王子がヴァイオリンを被せてくる。
原曲からは想像できないほど情熱的な音色がヴァイオリンからあふれてくる。
淡々なアイリスの伴奏を嘲笑うかのように自己主張が激しい。まるで、その程度では俺の伴奏には相応しくないとでも言いたげだ。
少しだけ負けん気を発揮したアイリスは伴奏に没頭していく。
伴奏者として必要なのは忠実であること。
だが、なにに忠実なのかは解釈によるだろう。
基本的には、楽譜に対して忠実であれば良い。だが、アルヴィン王子の解釈は楽譜と異なり、情熱的なメロディを奏でている。
アイリスに求められるのは原曲のイメージを壊すことなく、アルヴィン王子の演奏を際立たせること。ただそれだけを目指して、アイリスは指を踊らせていく。
必要なのは一音一音に込めた意思。
伴奏者としての能力を発揮することでアルヴィン王子の演奏に対抗する。
強く、優しく、情熱的に、細くしなやかな指が鍵盤の上を舞い踊る。額から流れ落ちる汗もそのままに、アイリスは一心不乱に音楽を奏でる。
そして一曲が終わったとき――
「という訳だ」
アルヴィン王子が勝ち誇ったように言い放つ。どういう訳だとアイリスが首を傾げるが、アルヴィン王子の視線はアイリスではなくその背後に向けられていた。
アイリスはようやく、フィオナが自分に抱きついていたことを思い出した。
「フィオナ、おまえは自分とアイリスの気が散ると言ったがそれは違う。おまえは集中力が足りないだけだし、アイリスは集中する必要がなかっただけだ」
「むぅ~~~っ」
たしかに、アルヴィン王子の言うとおりだ。
フィオナの伴奏中は、アルヴィン王子のちょっかいに文句を言う余裕があった。だが、アルヴィン王子の伴奏中は、フィオナのちょっかいを意識から閉め出した。
それだけアルヴィン王子の演奏に集中する必要があったからだ。
つまりは、アルヴィン王子のちょっかいに気を取られるのはフィオナの演奏が未熟な証。
だが――
「という訳で、フィオナはそれを踏まえて演奏してみろ」
フィオナにヴァイオリンを返却したアルヴィン王子が再びアイリスの髪に触れようと手を伸ばす。それをアイリスがペチンとはたき落とした。
「……王子、これ以上邪魔をするなら授業に立ち会うのを禁止にしますよ?」
「ちっ、仕方ない。今日のところは引き上げるとするか」
「明日も来ないでくださいね」
「今日は言われたとおり邪魔をしないのだからその要望は却下だ」
素っ気なく送り出すアイリスに、けれどアルヴィン王子はまるでめげない。
明日も顔を出すと言って退出していった。
(まったく、難儀ですね)
アイリスに興味を持っているように見せかけているが、おそらくはブラフだろう。前世のアイリス――つまりは数年後のフィオナを失脚させたのはアルヴィン王子だ。
そのアルヴィン王子が、フィオナを教育するアイリスを邪魔する。普通に考えれば、その目的はフィオナが下手な知恵を付けないようにすることだ。
もっとも、その場合はそもそもアイリスを教育係にしなければ良かったなどの矛盾点もあるが、アイリスに分からないだけでなにか理由があるのだろう。
少なくとも――
(お兄様がわたくしを気に入ったなどという可能性よりはずっと高いはずよ)
アルヴィン王子に気を許すのは命取りだ。油断することは出来ない。しっかりとフィオナを育てようと決意を新たにしていると、そのフィオナがばっと手を上げた。
「アイリス先生!」
「はい、なんですか?」
「アイリス先生は、私の先生ですよね?」
「もちろんです。わたくしが貴方を護ります」
「……ふえ?」
うっかり護ると言ってしまったため、驚いたフィオナが目を瞬く。アイリスは咳払いをして、「わたくしが貴方を育てます」と言い直した。
なお、言い直したセリフもあまり方向性が変わっていない。
「じゃあじゃあ、お兄様とじゃなくて、私とさっきみたいな演奏をしてくださいっ」
「……さっきみたいな、ですか?」
「アルヴィンお兄様と、すっごく楽しそうに演奏してたでしょ?」
一瞬なにを言われていたか分からなかった。
そしてすぐに、フィオナが妬いているのだと気が付いた。
「心配しなくても、貴方のお兄さんを取ったりしませんよ?」
途端、フィオナがふくれっ面になる。
だけどムキになって練習を始める。この日を境にフィオナの上達は早くなった。