エピソード 2ー3
そこからは怒濤のごとき忙しさだった。
まずは魔族との交易についての報告の場、レムリアの重鎮達が集まった会議で、フィオナ王女殿下は魔族の力を借りて、魔物を使役する案を議題に挙げた。
アイリスも魔族との話し合いに参加した当事者として同席しているが、魔物を使役する案には、不安の声や、本当に可能なのかという疑問の声が多く上がっていた。
けれど、グラニス王が「その件はフィオナに一任する」と発言したことで周囲は沈黙した。
グラニス王より一任されたことで、その件の功罪はすべてフィオナ王女殿下のものとなる。これが、フィオナ王女殿下が女王になるための最初の試練だと皆が理解したのだ。
こうして、グラニス王の後押しを得たフィオナ王女殿下はすぐに行動を開始した。
まずはディアロス陛下と協議するが、彼はすぐにでも国へ帰ると宣言していたため、話し合いは迅速におこなわれた。魔族の取り分だけを決めて、隠れ里やリゼルとの交渉はフィオナ王女殿下に委ねられることとなる。
そして、次はエリオット王子達との交渉である。フィオナ王女殿下から提案を聞かされたエリオット王子とジゼルは――
「城壁に使うモルタルの件から始まって、ジゼルが精霊の加護を授かった件。それに魔族との交易の交渉権を与えられたと思ったら……今度は魔物の使役ですか?」
「まだ一件も陛下やお父様に直接報告できていないのに……」
若干目が虚ろになっていた。こうして、世間に揉まれて成長していくんだね――と、彼らが無茶振りの対応に追われている元凶のアイリスは他人事である。
とにもかくにも、フィオナ王女殿下は彼らと摺り合わせをおこない、共に建築中の町へと向かい、その後はリゼルで詳細を話し合う――という提案をして受け入れられた。
そしてその日のうちに建築中の町へ向かう馬車の編成が始まり、翌日の朝には出発することになる。その馬車の前、アイリスはキョロキョロと周囲を見回していた。
「アイリス先生、どうかしたの?」
「いえ、神出鬼没のアルヴィン王子が珍しく姿を見せないので、どうしたのかな、と」
「あれあれ、アイリス先生、もしかしてお兄様がいないと寂しい?」
「……フィオナ王女殿下、今日は珍しく寝ぼけていらっしゃるのですか?」
フィオナ王女殿下にそんなことを言われるとは思っていなくて、アイリスはパチクリと瞬いた。これがアルヴィン王子の発言なら、ぶっとばしますよ! と手を出しているところだ。
「結構本気で言ったんだけどなぁ」
「あり得ません。というか、その言い様は、来られないことをご存じなのですか?」
「うん。お兄様は自分の派閥を纏めるのに走り回ってるよ」
「そう、ですか……」
アイリスは思わず、フィオナ王女殿下の顔色を窺ってしまった。
アルヴィン王子がどう思っているかはともかく、彼の派閥の者達は、自分達の推すアルヴィン王子が権力を持つことを望んでいる。フィオナ王女殿下は、アルヴィン王子が自分の地位を脅かす可能性を心配しないのだろうかと思ったのだ。
「……どうしたの、アイリス先生。私の顔をじっと見たりして」
「いえ、その、フィオナ王女殿下はアルヴィン王子を信頼なさっているのですね」
「もしかして派閥のこと? お兄様がどうやって纏めるつもりか聞いたから」
「ああ、ご存じだったのですね」
アルヴィン王子とアイリスが双翼となって牽制しあい、女王となったフィオナを支える。その話を聞いて安心しているということは、アイリスを信頼していることに他ならない。
そう思って表情を綻ばせるアイリスに、フィオナは「私の方が意外だったよ」と言った。
「意外、ですか?」
「だって、アイリス先生があんな提案を呑むとは思わなかったから」
「別に不思議ではありませんよ。フィオナ王女殿下の側にいるには有効な手ですし。とはいえ、宰相の地位をいただけるとは思っていなかったので、わたくしも少し驚きましたが」
フィオナ王女殿下はまばたきを二つ。それからきゅっと目を瞑ると、すぐに目を開いてアイリスを見上げ、満面の笑みで言い放つ。
「それだけ、アイリス先生が評価されてるってことだよ!」
少し引っかかりを覚えたアイリスだが、「それより、交渉についておさらいをさせて」と頼ってくるフィオナ王女殿下を前に、その違和感をすぐに忘れてしまった。
その後、一行はすぐに建築中の町へと出立した。
メンバーはレムリアからアイリスとフィオナ王女殿下。リゼルからエリオット王子とジゼル。それに魔族の代表としてエリス。それぞれの使用人や護衛達である。
そうして数日ほど馬車旅が続く。城に上がってくる魔物の目撃情報は少なくないのだが、一行が大所帯だからか、いまのところ魔物の襲撃は発生していない。
そんなある日の昼下がり、馬を休ませるために一行は小川の近くで休憩を取る。アイリスが川を眺めていると、側にジゼルが寄ってきた。
ジゼルはそのままアイリスの隣にしゃがむと、小川の水に指先を浸した。
「お姉様はこれからどうなさるおつもりですか?」
「ずいぶんと抽象的な質問ですね」
そう応えながらも、アイリスはその質問の意図を正しく理解していた。そして、それが避けられぬ質問であることも理解している。
アイリスは同じように小川の水を指先で掻き混ぜながら続きの言葉を待った。
「お姉様は……リゼルに帰るつもりはないのですか?」
「建築中の町で会議を終えれば、その後はリゼルに向かうことになるでしょう」
「……そう、ですか」
ジゼルの質問は、レムリアに永住するつもりか、というものだった。それに対し、アイリスは答えをはぐらかした――わけではない。
帰るのではなく、向かう。
その言葉に自分の意思を込めたのだ。
「……お姉様は、リゼルが嫌いになってしまったのですか?」
「そういう訳ではありませんが――」
何気なくジゼルに視線を向けたアイリスはぎょっとする。自分の妹が、儚げな見た目ながらも強い心を持った彼女が、まるで親に捨てられた子犬のような顔をしていたからだ。
「お姉様は、わたくしのことが嫌いになってしまったのですか?」
「そんなはずないでしょう?」
「ですが……レムリアにいるのは、フィオナ王女殿下のことを妹のように可愛がっているから、なんですよね?」
「え、ど、どうしてそう思うの?」
「城の皆さん、そう仰っていましたから」
「それは……」
言葉に窮する。アイリスにとって、フィオナ王女殿下は前世の自分だ。そして死の定めにあることも知っていた。だからこそ、フィオナ王女殿下の元に駆けつけた。
ただそれだけのことだったのだが……
(ジゼルからしてみたら、自分よりフィオナ王女殿下の方が妹として可愛い、と言われ続けているように感じる……ということなんでしょうね)
「アイリスお姉様、わたくしは……お姉様の妹に相応しくありませんか?」
「いえ、そんな、相応しくないとか、そんな問題じゃなくて、その……フィオナ王女殿下はもちろん可愛らしい方ですが、ジゼルも同じくらい大切に思っていますよ」
「では、どうしてレムリアを選ぼうとしているのですか?」
「え、それは、その……」
まるで浮気現場を押さえられた夫のように動揺する。アイリスは視線を彷徨わせ、とっさに閃いた妙案を口にする。
「レムリアにいらっしゃるのは、フィオナ王女殿下だけではありませんから!」
「え、それって……」
目を丸くするジゼルに対し、アイリスは無言で頷いた。前世の自分だけでなく、前世のお祖父様もいる――なんて、もちろん口には出さない。
そうして誤魔化したアイリスに対し、ジゼルはぽっと頬を赤く染めた。
(え、ここでどうしてそういう反応が……?)
なにか致命的にボタンを掛け違っているような気がすると不安になるアイリスだが、次のジゼルの言葉で、さきほどの違和感は吹き飛んでしまった。
「実は、わたくし……その、エリオット王子に求婚されたのです」
「……それは、正式なルートを通して、ですか?」
ジゼルとエリオット王子は長らく城を開けている。正式なルートで決まったことならば、とっくに自分の耳に入っているはずだと、アイリスは小首をかしげた。
「いえ、まだエリオット王子の個人的なお言葉です。でも、必ず陛下や、うちの両親を説得してくださると、その、約束してくれたんです」
「それはそれは。エリオット王子も中々やりますね」
見た目は女の子と見紛うような愛らしさなのに、行動は男らしいと感心する。
(ジゼルはストレートな愛情表現が好きみたいですね。わたくしとしては、もう少し奇をてらったような感じが好きですけど)
勝手なことを考えながら、アイリスは素早く状況を整理する。
エリオット王子の言動から、ジゼルに求婚したのは政略的な意味合いではない、少なくとも恋愛感情を抱いているのだろうと予想する。
そして、ジゼルもまんざらではない――というか、完全にエリオット王子に惚れている。
(ジゼルが欲しければ、わたくしを倒してみせなさい――と言いたいところですが、いまの彼には酷でしょうね。というか、ジゼルに嫌われそうなので自重しましょう)
乙女ゲームの歴史では、二人でわたくしを倒したようだし、良しとしておきますか――と、心の中で呟いて、アイリスは協力する方向で考えを纏める。
「エリオット王子は今回の旅で多大な功績を挙げておいでです。そしてジゼル、貴女は……精霊の加護を手に入れましたね?」
「はい。ですが、お姉様のおかげです。わたくし個人の功績としては……」
それを否定しようとしたアイリスは、自分が根本的な部分で思い違いをしていることに気付いた。ジゼルは『賢姫であるアイリスと比べて自分が劣っている』と、気にしているのだ。
アイリスがエリオット王子の婚約者になるなど、あらゆる意味であり得ない。だが、一部の者達はこう言うだろう。『エリオット王子の婚約者が姉の方であったなら』と。
妹には、万人から祝福されて欲しい。そう願ったアイリスは、乙女ゲームの歴史と、今世で学んだことから妙案を思い付いた。
「ジゼル、大丈夫です。二人が祝福されるように、わたくしが協力いたします」
「本当ですか、お姉様?」
「ええ。お姉様に任せなさい」
むんっ、と、力こぶを見せる。その令嬢らしからぬ仕草にジゼルは目を瞬いて、それからクスクスと笑い、涙目になって「お姉様、ありがとう」と微笑んだ。
「それで、お姉様は一体どのような方法で助けてくださるのですか?」
「それは――」
と、アイリスは目を細めて口を閉じた。
「アイリスお姉様?」
「向こう岸の雑木林、虫の音がいつの間にか消えています」
魔物が潜んでいるかもしれない――という言外の言葉は正しく伝わったようで、ジゼルもすぐに神経を研ぎ澄ます。
ほどなく茂みが揺れて、そこから醜悪な魔物が姿を見せた。
「ゴブリン――」
立ち上がったジゼルが魔術を使おうとするが、アイリスがその袖を引っ張った。
「待ちなさい。なにか、様子がおかしいです」
小川は推進が脛の辺り程度。背の低いゴブリンでも渡れなくはないが、襲撃に適した位置関係とは言い難い。飛び道具でも持っていれば別だが、それも見当たらない。
敵の狙いは――と考えを巡らせていると、ゴブリンの背後から人影が現れた。
「……って、エリスじゃないですか」
アイリスがぽつりと呟く。
ゴブリンの背後、黒幕のような登場をしたのはエリスだった。
「そのようなところでなにをしているのですか? というか、そのゴブリンは……?」
「大所帯の一行を避けようと隠れているのを発見したので使役いたしました。魔物の群れを使役する方向で話し合うなら、実際に使役しているのを見せた方がいいかと思って」
「……なるほど、たしかに道理ですね」
エリスの言っていることはなに一つ間違っていない。
間違っていないのだが……
(このまま魔物を連れて戻れば、騒動になるでしょうね)
その光景を想像して、アイリスは思わず天を仰いだ。