黝病

作者: 志摩鯵




最初は、小さな出来物がはじまりだった。


何時頃に出来たのか。

鏡に映った自分の顔にそれは、あった。


「………え?」


右のほほに、ポツンと尖った膨らみが。

気が付くとそれが顔一面に広がっていった。

おまけにそれがくろずみ、大きくなっていく。


外を歩くと周囲の反応が辛かった。


「うわ…。」

「なんだ、あれ。」

「気持ち悪い…。」


誰もハッキリと言いはしない。

しかし顔に恐れ、気味悪がる気色が現れていた。


どの医者も首を傾げた。


「ううん…。

 まったく分らんね。」


「そうですか。」


私は、包帯で顔を隠した。

それが精々だった。


「水銀を試してみましたか?」


「いいえ。

 ……それにちょっとお金がなくて。」


「そうですか。

 確かに水銀治療は、お金が掛かりますからな。」


医者は、そういって首を左右に振った。


私は、できる限りあちこちの医者を訊ねた。

でも、どこを訪ねても病気の手掛かりさえ掴めなかった。


やがて。


「悪いけど別れてくれ。」


恋人のラルドゥが別れを切り出して来た。


「………そうだね。

 ゴメン、私から言い出せば良かったね。」


私は、顔を伏せて涙を溢した。

遂にこの時が来たのだ。

そう噛みしめながら私は、ベッドの端に腰かける。


立ったままの彼は、びっしょりと顔に汗を浮かべていた。


「君を拒絶したい訳じゃない。

 でも…でもこのままじゃ二人とも…。」


「うん。

 だから……良いよ。」


実際、その通りだった。

彼は、殺されたのだから。

私の病気が感染したと疑われて。




「殺せー!!」


松明を手に街の人たちが私の家に押し寄せた。


彼らがここまで来た時、すでに私が立ち寄った店や友人の家まで焼かれていた。

火は、病を清める。


「いいかッ!!

 そこを動くなよォ!!」


「殺せ!」

「焼け!」

「浄めろ!!」


人々を恐怖に駆り立てたのは、私の病状が悪化したせいだ。


私の顔に広がった大きなニキビは、黝ずみ。

黝ずんだ出来物の中に小さな生き物が育っていた。

それがビクビクと動き始めるまでになったからだ。


これが何かは、分らない。

しかしきっと遠い南洋から持ち帰られた寄生虫だ。

街の人たちを騒然とさせるのには、十分だった。


「あの娘の顔から寄生虫が産まれる前に!!

 娘が立ち寄った場所は、全て浄めろー!!」


血走った目をした中年男が叫ぶ。


「獣だッ!!」


別のシルクハットの男が怒鳴る。

立派な身なりをし、上等な背広が鎧のように輝いている。


「あれは、もう人間ではない。

 獣だ。」


老紳士が胸を反らせて群衆に説いた。

それこそ獣のように目を輝かせた街の人たち。


「はい!

 私たちが殺すのは、獣ですね!!」


工場務め、新聞配り、煙突掃除の子供たち。

洗濯工場や石鹸工場で働く女たち。

阿片窟の前の路上で寝ている日雇いたち。


皆、何かしらの武器になりそうな物を頭上に掲げていた。

2階から見下ろすと、それが草叢くさむらのようにびっしりと視界を占める。


私は、窓から離れる。

そのまま裏口から家を抜け出し、夜の街を駆け抜けた。


丸い石を敷き詰めた往還を懸命に走る。

ガス灯が不気味な影を作り、私の周りを回った。

どの家も扉と窓を塞ぎ、逃げ込む場所などない。


私は、胸が裂け、脚が千切れるほど走った。


「───がう!?」


突如、私を何者かが襲う。

そいつは、私の自由を奪うと街から連れ出した。




「はあっ。」


次に私が飛び起きると、そこはベッドの上だった。

見知らぬ場所で私は、目覚める。


乱雑に読み漁った本が重ねられ、床を占領している。

天井には、シャンデリアがあるが電灯が下がっていた。

きっと面倒だからだろう。


部屋の東と南側に窓がある。

私は、爪先で歩いて本の山を避けながら窓に近づいた。


「…うあっ。」


高い。

私は、見たこともない高い摩天楼にいる。


窓の外は、巨大なビル───アドルフ・ロースがデザインする豆腐のような四角い建築ではなく、美麗なレリーフと怪獣や聖人の彫刻に飾り付けられ、神々しい装飾がふんだんな列柱や円屋根ドームを持つ太古の神殿や飛び梁と小尖塔が連なり、鋭角で背が高く反った屋根を持つ大聖堂を高層化したような───が屹立し、どこまでも広がっていた。


どのビルも異常なほど垂直性に拘り、屋根が細く細く伸びて可能な限り高く作られていた。

ビルとビルの間には、連絡橋があり、空中回廊を為して縦横に交差している。

また煙突から絶え間なく白い煙が吐き出され、街全体をもやが覆っていた。


中には、信じられない程、巨大な建造物もあり私は、目を丸くした。


ある円屋根は、かなり遠くにあるはずなのに視界を覆うまでに大きい。

ある尖塔の冒涜的な高さは、神を威嚇するために作られたとしか考えられない。

あるビルの壁は、直径10mはあろうかという薔薇窓と縦数十mの細長い窓が並んでいる。


そしてすべての正面ファサードには、あの怪物の彫刻が飾られていた。


見下ろすと眼下には、黒い塊が動いていた。

あれが蒸気式自動四輪車スチーマーという新しい発明だろう。

煙を吐いて羊の群れみたいに物凄い数が途切れずに流れていく。


これほどの建物、これほどの人出。

じゃあ、やっぱりあれが噂に聞く宿礼院ホスピタル中央病棟。

───ここが医都オクセル。


「………。」


私は、恐る恐るこの部屋のドアを凝視した。

勝手に外に出て平気かしら…。


どれぐらい時間が経ったろう。

私が部屋の中で怯えていると外から声がした。


「起きてる?」


女の声だ。


私は、水槽の中の魚みたいに壁に向かって逃げ出した。

自分でもどうにかなったように必死に壁に張り付く。

呼吸も忘れ、ドアをじっと見ている。


「………開けるね。」


今度は、男の声。


私の恐怖は、頂点を迎えた。

眩しい光が注ぐ部屋の中、爪先立ちで痙攣する。

壁を背にビクビクと震え、最高存在に祈りながら、その時を待った。


「はあ、はあ、はあ…。」


まず部屋に入って来たのは、若い男。

彼の背広は、立派だけど変わっていて流行遅れかあるいは新大陸の流行りなのか。

私の感覚からすると、ちょっとおかしかった。


でも清潔な印象を与えるデザインで頭から爪先まで整えられていた。

何より知的な彼の横顔は、私を安心させる。


彼の隣には、女の子が立っていた。

年齢は、12歳ぐらい。


この女の子もすこぶる美しく人形のように完璧な美貌。

将来は、誰からも求婚を受けるような美人になるだろう。

白く透き通る肌に長いまつ毛が印象的だ。


しかしアメジスト色の、ひどく疲れた瞳をしていた。


やはり彼女も風変わりな服を着せられている。

旧大陸では、見ないデザインで新しいのか珍奇なのか。

黒っぽいインバネスコートを着ていた。


「…怖がってるところ悪いけど。

 そろそろできれば昼食にしたいんだ。」


若い男は、そういって私に近づいてくる。

まるで野良猫を家に連れ帰ろうとするみたいな調子だ。


「早く来て。

 冷めてしまうわ。」


女の子の方は、握った拳を腰に突き、胸を反らせていた。

傲慢な顔つきで私を睨んで、ぷいっと横を見る。




顔の包帯を取ると私は、テーブルに着いた。


煮たキドニー豆、肉団子。

大量のマスタードポテトサラダ。

良く分からないスープ。


食卓は、華美ではないがピューリタン的ではない。

若い男の方が作ったのか。


一口食べて目が覚める。

これが新大陸の料理?

随分と珍妙な味だ。


「治療は、早速始めよう。」


食事を摂りながら若い男がそう言った。

私は、驚いてテーブルから顔をあげる。


「ち、治療法があるのですか!?」


私が声をあげると女の子が不愉快そうに目を細めた。


「運が良かったわね。

 彼、水妖フーアの専門家よ。」


「水妖…?」


私が呟くと若い男が。


「まあ、詳しい事は、後にしよう。

 とにかく食べて……。」


まだハッキリと分らないが私の胸は、希望に満たされ始めていた。

それは、すっかりとしぼんだ心を奮い立たせるに十分過ぎる量で。


ただ、この料理は、美味しくなかったけど…。




若い男は、ルーフレッド。

女の子は、ヴェロニカ。

この二人は、師弟関係らしい。


しかし、どうにもおかしい二人だった。


「もう少し、私に触れてくれてもいいじゃない。

 私が大人だった頃は、甘えてくれたわ。」


ヴェロニカがルーフレッドにそう言った。

身体を寄せ、年上の男に言い寄っているように見える。


「それは…ははは。

 あの時は、俺も12歳だったし。

 ヴェロニカも32歳だったじゃないか。」


そう言って苦笑いするルーフレッドは、ヴェロニカの頭を撫でていた。

どういう意味だろう?


「第一、32歳のオッサンが12歳の女の子にベタベタ触るのはさ。」


「いいじゃない。

 他の誰でもない。

 私が望んでることなのに…。」


眉をひそめて私は、首を傾げた。

この二人は、何を話しているんだろう。


「もしもし?

 …ああ、それは石涙病だ。

 うん、残念ながら感染するね。」


分厚い本を睨みながらルーフレッドは、電話で話していた。

彼が電話し始めるとヴェロニカも黙って、その場を離れる。

日に何度か、このようなことを彼がやっているのを見る。


どうやら彼は、医者らしい。

日々、なにがしか病気の症状に関して質問を受けている。

しかし宿礼院ホスピタル医師ドクターではないようだ。


この日、ルーフレッドは、私の前に洗面器を持って来た。

中には、水が入っている。


「…そろそろ薬が回って来ただろう。

 痛いかも知れないけど我慢してね?」


そういうと彼は、私の顔に細長い金属の器具を突き立てた。

ぴりっと痛みが走る。


「―――ッ。」


そして身の毛が弥立よだつことが始まった。


私は、それを決して目にしたくなかった。

私の顔に、私の顔の中で成長していた寄生虫を掻き出すのだ。

その説明を事前に聞いただけで、ゾッとした。


一匹ずつ寄生虫を洗面器に落していく。


ぽたん…。

ぽたん…。

ぽたん…。


生きたまま悍ましい寄生虫が洗面器に落ちる音だ。

潰すより寄生虫に自分から出て来させる方が良いらしい。

じっと目を閉じて見えないが心臓が凍り付くようだ。


ああ…。

いったいどんな生き物が黝ずんだ出来物の中にいたのだろう。


それが洗面器の水の中で泳ぐ姿を想像してしまう。

きっと100匹ぐらい洗面器の中に奴らがいる。

私の人生を滅茶苦茶にした憎むべき虫たちが…。


点滴から私の身体に回っているのは、ルーフレッドの血だ。

厳密には、彼の血液から任意の成分を精製。

そこにさらに薬を混ぜたものであるらしい。


これが宿礼院ホスピタルの輸血医療だという。

病に対して強い抵抗力を持つ他人の血液を患者に注入することだ。


「……どう?」


ヴェロニカが隣でルーフレッドを手伝いながら声をかける。

消毒した器具を彼に手渡し、使用済みの器具を銀色のトレーに移す。

金属の擦れ合う音、小さな冷たい響きが私にそれを察知させる。


「うん。

 ただのクァンジュルだね。

 …どうして、あの辺りで感染したのかな…。」


「環境に適応した繁殖力の強い新種じゃないの?」


「この輸血が効いてるからそうじゃないね。

 ……まあ、まだまだくろつち病は、研究不足なところもあるから。」


「…これ、どうするの?」


ヴェロニカは、洗面器の寄生虫のことを言っているのだろう。

私もそれは、気になった。


「しばらく育ててみる。」


その一言で私は、全身に鳥肌が立った。

皮膚が痛いほど毛穴が逆立ち、身体が震える。


「そ、そういえば……。」


私がおもむろにルーフレッドに声を掛けた。

でも彼は、治療の手を止めずに返事する。


「どうしたの?

 痛かったかな……。

 おかしいな、そんなはずはないんだけど。」


「なんで?」


そう訊ねたのは、ヴェロニカだ。


「クァンジュル自体が麻酔というか。

 痛みを抑える成分を出してるからね。

 ちょっと痒い程度しか感じないはずだよ。」


「私、まだ名前を名乗ってませんでしたよね?」


そう私がいうと。


「ごめんね。

 ちょっと後少しだけ、静かにして貰えると嬉しい。」


そういってルーフレッドは、強引に治療を続行する。


正直、口実は何でも良かった。

とにかく一度、治療を止めて欲しかった。

あまりに嫌らしい想像が頭から離れず、気分が悪くなって来た。


「私…ちょっと気分が……。」


「ヴェロニカ。

 ちょっと彼女を抑えてくれる?」


ルーフレッドがそういってヴェロニカに私を抑えつけさせる。

それも子供とは、思えない力で私の頭を支えた。


「ううっ…!?」


「それにしても…。

 何度見てもスゴイわね。

 よくあんたは、平気で治療ができると思うわ。」


ヴェロニカが私を抑えながら言った。


なんだろう。

彼女から物凄く嫌な臭いがする。


「ほ、本当に一度、止めて下さいっ。

 気分が……うっぷ。」


「本当に悪いと思うけど我慢して!

 輸血薬は、精製に物凄く時間がかかるんだ。」


「うえっ。」


堪らず私は、嘔吐する。

もうどうしても我慢できなかった。

勿論、彼は慣れているのか動じない。


「うう……。

 す、すみません。」


私は、ルーフレッドに謝った。


「い、痛くはないんですけど…。

 ほ、本当に気分が…!」


「大丈夫。

 この吐き気は、くろつち病と関係ないから。」


なんだろう。

やっぱり奇妙だ。


私は、少しずつこの違和感の正体に気付き始めた。

それは、恐ろしい思い付きだった。

だが、もう他に納得できない。


「あの…っ。」


私は、意を決した。


「きょ、今日は…何曜日でしょうか?」


「額のは、全部取れました。

 あと2/3ぐらいだから…。」


「今日が何曜日か答えて下さいっ!」


「大丈夫だから。

 落ち着いてって…。」


「あ、貴方を殺したい…。」


私は、意を決してそう言ってみた。

彼らの反応を確かめるためにだ。


「ねえ、ルーフレッド。

 彼女、相当痛いんじゃないの?」


ヴェロニカがそう言った。

ルーフレッドも平気そうに答えるだけだ。


「う~ん…。

 確かにこの騒ぎようは、普通じゃないな。

 やっぱり俺の研究と違うのかな…。」


やはりそうだ。

二人には、私の言葉が通じていないんだ。


なんで?

どういうこと?


私は、治療用の椅子から飛び上がった。

恐怖を抑えて目を開き、部屋から逃げ出そうとする。


「………マズいな。

 勘付かれたらしい。」


ルーフレッドは、大して困ったようにも聞こえない口調でいった。

ヴェロニカも目を細めて呆れたように鼻を鳴らす。


「ふん。

 獣からサンプルを取ろうなんて。

 やっぱり無茶な思い付きだったじゃない。」


「彼女が大人しかったから上手くいくと思ったんだ。」


私は、その会話にゾッとした。

予想通りといえば、それまでのことだけれど。


「殺しても?」


ヴェロニカがいった。

ルーフレッドは、返事さえしない。


私が逃げ出そうとするとヴェロニカが素早く反応した。


風も凍り付く微笑を浮かべ、女の子は、私に向かって駆け寄った。

いや、実際に駆けるという言葉は、間違っていた。

彼女は、一歩踏み出すとたちまち私の前に立っていた。


「いやあああ!!」


私は、ドアを次々に開いて逃げ道を探す。

しかし構造の分からない建物の中よりも窓の外に飛び出した。

ビルの壁面にある、何でもいい、足や指のかかる場所を頼りに。


「いや……ッ。

 ああ、あああ……。」


懸命に指で壁に掴まり、小尖塔ピナクル控え壁(バットレス)を伝って逃げる。

でもすぐにヴェロニカも私の後を追って来た。


「こんなところに逃げるなんて…。」


12歳の女の子は、醜怪な武器を持ち出していた。


その形は、悪夢に出てくるような刃物で到底、口頭で説明できるものではない。

苦痛を引き出す棘と先端が並び、鋸歯きょしを備えた拷問器具のような武器だ。

しかも不潔で毒々しい姿は、それが忌むべき使われ方をしていたことがハッキリと分かった。


「私は、貴方たちの悲鳴も大好き。」


ヴェロニカは、嬉しそうに私の前に飛び降りた。

完全に先回りされ、私は、怯えて立ち止まる。


そう。

ルーフレッドとヴェロニカは、獣の狩人。

人ではなくなったと決めつけられた人間を獣として狩る者。


「やあ!!」


強振したヴェロニカの武器が火花を散らして壁に激突する。

私は、身をよじって逃げ、別の胸壁に飛び移った。

そのままガーゴイルや他の彫刻を足場にヴェロニカから必死で離れる。


「ぎゃ、あ…あああッ!!」


しかし知らぬ間にヴェロニカは、私に接近していたらしい。

鋭い痛みが私を襲った。


「ひい……ああッ!?

 ひゃああああーッッッ!!」


あの汚れたギザ刃が私の肉を切り裂く。

濁った傷跡は、大きく開き、肉が引き裂かれていた。


ヴェロニカは、抵抗できない私をなぶるつもりではないのだろう。

私が逃げるせいだ。

でも殺されるつもりはない。


「ああ…痛い……あ、ああ…。

 ひっ…があ………。」


痛む体を必死に引きずって私は、逃げる。

その後を風のようにヴェロニカが追う。


「………ごめんなさいね。

 すぐ殺してあげたかったんだけど。」


ヴェロニカは、私を追いかけながら話し始めた。

それは、私に聞かせるつもりの話ではないのだろうけど。


「ルーフレッドが生かしてサンプルを採りたいっていうからよ。

 仕方ないでしょ。

 ふふ…。」


私たちは、小尖塔ピナクル群に迷い込む。

私は、前の飛梁フライング・バットレスに飛び移り、ヴェロニカを引き離そうとした。


ようやっと気付いたが、もう私の身体は、人間のそれじゃない。

飛び越えた飛び梁の距離を考えると、きっとそうだ。


私は、不吉な物に変身した。

吐き気を催す体臭を撒き散らし、胸が悪くなる獣になったのだろう。


でも頭がおかしくなってるんだ。

もうどこが人間と違うのか分らない。

腕も脚も、私には、普通に感じられる。


「来ないで……!!」


振り返った私は、まだ祈るように狩人に叫ぶ。

しかし向こうは、見るに堪えない獣に慈悲を持ち合わせてなどいない。

ヴェロニカは、嫌悪感を露わに顔をしかめた。


「臭い息を吹きかけないで。」


彼女は、そういって飛び掛かって来た。

私は、攻撃を咄嗟にかわし、元居た場所で火花が飛び散る。

でも。


「がう!?」


ヴェロニカの撃った銃弾が私の動きを封じる。

急に身体が動かない。


素早く彼女は、私に迫った。

あの背筋が凍る武器を傷口に捩り込む。


「いやあああッ!!

 ああ、あああーッッ!!!」


目から炎が噴き上がるような痛み。

血も涙もない狩人の冷血極まる拷問に私は、崩れ落ちた。

もう逃げる気力がない。


そんな風に私が諦めた時だった。

ヴェロニカの刃が突き立てられた瞬間、名伏し難い衝動が噴き出した。


「ギイイイ……×ガ××ァァ×××ィィ!!!」


「うう…!?

 ひっ………あああッ!!」


驚いたヴェロニカは、飛び梁から転げ落ち、眼下に消えた。

下は、目も眩む高さに加え、小尖塔群で針の山のようになっている。

きっと無事ではないと思う。


私は、辺りを見渡す。

驚くべき異変が起こり始めていたからだ。


私を中心にビルが凍り付き、壁面や小尖塔が霜に覆われていく。

小さな氷片が風に舞い、雪のように飛び去る。


これは、獣化した人間の力なの?

周りのものが凍り付く不思議な力を授かったということ?


「ギイ…ギイギイ…。

 こ、氷が私の…手から広がっているの?」


私は、ビルの壁面を登っていく。

飛び梁や彫刻に足を掛け、上を目指した。


どうして上を目指したのかは、自分でも分らない。

強いて言えばヴェロニカが下に落ちたからだろう。

彼女が生きているとも考え難いが彼女から離れる方向に進みたかった。


「師匠は、やられた?

 ……油断したかな。」


急に人の声がして私は、辺りを見渡す。

なんと壁に対して垂直に立ったルーフレッドが歩いてくる。

そして彼は、ヴェロニカより速い。


「やめてっ!!

 なんで、こんな酷いことをするんですか!!」


私の手は───

いや前脚は、ルーフレッドを簡単に弾き飛ばせそうなほど大きい。

今の彼は、私から見て子猫ぐらいの大きさしかなかった。


「私を騙して…助けるなんて言ったのに…!!」


涙が出そうになってるのに涙は出なかった。

そしてやっぱり私の言葉は、ルーフレッドに通じていないようだ。


凍て付く空気をまとって私は、ルーフレッドと戦う。

過ごした日々は、短いが受け入れ難い感情が胸を抑える。


ずっと私の言葉は、彼らと通じていなかった。

獣として連れ帰られ、寄生虫を育てさせられていたんだ。

悲しみと怒りで頭がおかしくなりそう!


「早いッ。」


ルーフレッドは、短くそう呟いて私の攻撃をかわす。

彼は、振り向きざまに白銀に輝く銃を私に向けた。

美しく精緻な細工が銃身に彫られている。


その細工彫りさえ、今の私には目視で確認できる。

素早く動かす彼の手の中にある小さな銃をだ。

当然、指の動きまで私には、完全に視認することができた。


「この…!!

 人でなしッ!!」


私は、ルーフレッドの銃弾を跳躍で躱す。

そのまま彼に向かって飛び掛かった。


でもルーフレッドも素早く私の爪と冷気から逃れた。


「信じられない反応速度だ。

 並みの獣じゃないなッ。」


「獣は、貴方の方じゃない!!

 人を寄生虫を育てる苗床みたいに!!」


通じないと分っていても私は、叫ばずに居られなかった。

反面、牙を見せて吠える自分は、もう人間じゃないことを自覚した。

獣でありながら自分の獣性を自覚するという奇妙な体験だ。


今、ルーフレッドは壁に垂直に立っている。

対する私は、90度反転して飛び梁やビルから突き出た場所を足場にしていた。


これは、何かの魔法なんだろうか。

でもきっと彼は、答えないだろう。


「………!?」


私は、足場が次第に不安定になっているのを感じた。


「嘘…いや…ッ!?

 何が起こってるの……!?」


壁面に立つルーフレッドが私には、逆さに見える。

つまり私は今、ビルから落ちそうになって前脚で物に掴まっていた。

今の私の背後には、地面ではなく地平線が伸びている。


もっとも地平線なんか見えないほど鋭い尖ったビルが並んで建っているけど。


「お、落ちる…ッ。」


私は、爪に満身の力を込めた。

奇跡を祈って堪え続ける。


やがてまたもや奇妙な現象が起こった。


今度は、ルーフレッドの周りに何かが落ちて来たのだ。

それらは、ルーフレッドと同じく壁に対して垂直に起き上がった。


「お早いお帰りで。」


ルーフレッドが背の高い一人の女性に声をかける。


その女性は、酷く汚れたコートとボロボロの三角帽子トリコーヌを被っていた。

パリッとしたスーツにネクタイを絞め、洒落たコートを羽織るルーフレッドと対照的だ。

だが白く透き通る肌に長いまつ毛、そしてアメジスト色の、ひどく疲れた瞳をしていた。


「茶化すな。」


大人になっていたヴェロニカは、ルーフレッドを睨む。

彼女と一緒に落ちて来たのは、毛むくじゃらの怪物だった。


怪物たちは、私と同じ人を失った獣のようだった。

彼らには、分らないであろう獣の鳴き声が私には分かるからだ。


「殺してやる…。」

「獣の狩人め…。」

「地獄に落ちろ!」


中には、ヴェロニカと似た三角帽子の獣もいる。

獣の狩人というご大層な身分でも時には、獣と化するものらしい。

これは、堪らない皮肉だ。


それに彼らがどこから来たのかは知らないが味方に違いない。


「く…ひひひッ。」


私は、思わず噴き出した。

それは、ルーフレッドたちには、不吉な鳴き声に聞こえたのだろう。

二人して私を睨み付けて来た。


けれど私が有頂天になっていられたのは、それが最後だった。


二人の狩人は、息の合った連携で獣たちを狩り始めたからだ。

回転し、跳躍し、美しく呼吸の合った戦闘は、舞踊のようだった。

壁に、屋根に、彫刻に獣たちの血を内臓と骨片が飛び散る。


刃が、銃が、火花を散らし、悲鳴と銃声の混声合唱がやがて途切れる。

それは、死と暴力の突風で凄まじい速さで次の目標を私に定めて向かって来た。


「そこだッ!」


「任せて!」


ルーフレッドとヴェロニカは、獣たちを引き裂き、私に襲い掛かる。


「うう…ぬ……ううッ。

 ぐひぃ…いいいいー――ッッッ!!」


突然の激痛と共に私の顔が熱くなる。

あの身に覚えのある痛痒さが蘇った。


「いやッ!!

 こんなの…いやァ!!」


私の顔から寄生虫がボトボトと飛び出す。


どうしてこれ以上、苦しい目に会わなければならないの?

もう私の人間としての尊厳を傷つけないで。


「うえっ。

 虫が湧き始めたじゃない。」


ヴェロニカは、そういって不快そうに目を細める。

ルーフレッドも難しい表情を作った。


「………見ろ。」


でもそれは、私のためではなかった。

彼が指差しているのは、巨大な満月だ。


気が付くと地平線が円環を為し、中心に満月が停止していた。

あの悪夢じみた大聖堂に似せたビル群が月に向かって伸びる。

それは、さながら人間の瞳に見えた。


「いや…いや……いやァァァ!!!」


月から黒い何かが私の身体に落ちる。

暗く深い孤独から月が集めたどす黒い人間の淀みが。


「あー――ッ!!」


小さい。

ルーフレッドとヴェロニカが小さく見える。

私は、獣として更なる成長を遂げたらしい。


「………こんな獣、僕たちの手に負えないよ。」


ルーフレッドがすっかり大人になったヴェロニカに甘える。

でも砂のように渇いた目でヴェロニカは、感情を殺した口調で応ずるだけだ。


「あんたは、狩人。

 獣をただ、狩ればいい。」


吐き気を催す心地良さで毒が血管に回るようじゃないか。

私の口は、大きく裂け、不快に広がり続けていく。

私を傷付けた狩人どもを飲み込むまで。


ヴェロニカは、躊躇せず私の前に飛び込む。

振りかぶった私の腕を躱して一撃を加える。

肉が切り取られ、鮮血と寄生虫と氷片が噴き出す。


ルーフレッドは、その隙に背後に回り込もうとする。

私の大口は、彼を飲み込もうと大きく開いた。

彼は、咄嗟に空中に舞い上がり、ゾクゾクするほど美しい弧を描いて逃れる。


「貴方たちが憎くてならない。

 どうして希望を与えておいて私から奪ったの?

 なら最初から拒絶して欲しかったのに!!」


私を中心に氷の颶風が旋回し、狩人どもを退ける。

彼らの黒いコートが白く凍て付いてカチカチになって固まっていく。

いまや私の凍気が暴力から私を守るすべてだ。


「どうする!?

 狩人は、仲間を頼るっていう方法もあるけど?」


そう話しながらルーフレッドは、輸血ビンから血を注射器に移し、上腕から打ち込む。

獣の狩りに供される特別な血は、狩人の生命力を奮い起こし、傷を塞ぐ。

ヴェロニカも太腿に注射を打つ。


「この程度の獣に怖気づくような狩人は、お前だけだ!」


火花を散らしてヴェロニカの武器が変形する。

生き物のようにノコギリ刃の鎌や斧が動き始めた。

血を啜る不潔な鉄の塊は、悲鳴を上げて私に向かってくる。


ルーフレッドの細長い鎌も変形し、四重のノコギリ刃になる。

小型になった武器で接近戦を挑む考えのようだ。

私の傍に果敢に斬り込んでくる。


私の前脚がルーフレッドに襲い掛かる。

彼は、巧みに攻撃をかわし、攻撃の応酬は、互いの鮮血を伴った。


「ぎィ…あああッッ!!?」


激しい接近戦の最中、ルーフレッドが銃で私の目を撃った。

ヴェロニカが空かさず私の右脚をぐちゃぐちゃにする。


「ぎいい…ッ!!」


こうなると私は、アリに集られたカマキリみたいなものだ。

少しずつ二人がかりで私の肉を削ぎ、嬲り殺しにかかる。

どの脚も骨が見えるまで痛めつけられた。


「嫌だ…なんで……!?

 もっと……まだ…私は、こいつらを……殺したいよ?」


私は、月を仰ぐ。

もう一度、力を。

月虹を纏う青白い月が煌々と光り輝き、私を見下ろしている。


「なんで…!?

 貴方まで…希望を与えておいて…!!

 やっぱり裏切るうッッ!!!」


嫌だ。


なんでなの?

こんな醜い怪物になって殺されないといけないの?

私が何か悪いことしたの?


どうして助けるの?

どうせ殺すのに。

その前になんで一度だけ助けるの?


この行為に意味があるのですか?

私に分からないだけで、これが貴方の計画なのでしょうか?


「もう一度だけで良いから………助けて…よ。」


痛い。