旅人の話
ある日、ぼくの家に旅人がやってきました。
寒くもなく、暑くもない季節。いつものとおりぼくは、夜に向けて夕御飯の支度をしていて、小麦で牛乳を溶いたり、その中に砂糖をほんの少し混ぜてみたりしていたのです。そんな時に、旅人はきました。
コンコンコン。
最初は風の音だと思いました。なぜなら、ぼくの家を訪ねる人はあまりいないからです。
どうして、ぼくの家を訪ねる人があまりいないのかと言いますと、ぼくの家は砂漠の端にありまして、砂漠の端には、ぼく以外の人間が住んでいないからです。
そんなわけですから、最初は風の音だと思ったのです。
コンコンコン。
でも、あまりに長く続きます。
ぼくは鍋を火にかけるのを一度やめると、音の正体を探しました。音がなんなのか、すぐに分かりました。
それは、玄関の扉がノックされる音でした。
音を確認してから、ぼくは扉に向かいました。先程もお伝えしましたが、ぼくの家を訪ねる人は殆んどいません。
ですから、とても緊張しながら扉に近付きました。
もしかしたら綺麗なお嬢さんかもしれませんし、年老いた農民かもしれませんし、もしかしたら砂漠からやってきた盗賊かもしれませんし、あるいは、やはり風かもしれません。
ぼくは色々な緊張を抱えながら、ゆっくり、実にゆっくりと、扉を開けました。
そしたら、旅人だったわけです。
「死ぬかと思いました」
旅人は作ったばかりの温かいグラタンを、もそもそと食べながら言いました。
「歩いていたら砂漠が目の前に広がっていたんです。とてもとても迷ってしまいそうな広い砂漠でしたから、渡るのを迷いました。でも、引き返す理由もなかったので渡ったのです」
旅人は、グラタンのこげをすくいとりながら続けました。
「そうしたら、砂漠の中で五回も太陽が登り、水も食糧も尽きてしましました。それから三回も太陽が登り、いよいよ死んでしまうのかしらと思っていたところに、この家を見付けたのです」
旅人は、グラタンのこげをすくいとりながら更に続けました。
「倒れてしまいたいのを我慢して頑張って歩きましたら、砂漠も抜けることができました。そうして私は、あなたの家をノックしたのです」
旅人はグラタンを食べ終ってしまいました。そして、両の手を鼻の前で合わせました。
「あなたとあなたの家は、私の命の恩人と恩家ですね」
そんなことを言われたのは生まれてはじめてでしたから、ぼくはなんだか恥ずかしくなってしまいました。
「ぼくはただ、ここにいただけです。ぼくの家もまた、ここにあっただけです」
恥ずかしさをごまかしたくて、こう返しますと、旅人は再び手を合わせました。
「ですがやはり、私はいのち拾いしたのです。これはとても素晴らしいことで、とてもとても素敵なことです。ですから私は、なにか恩返しをしなければなりませんね」
そういうと旅人はぼくに、恩返しについて尋ねはじめました。
「あなたは農民ですか」
「はい、そうです」
「あなたは一人ぐらしですか」
「はい、そうです」
「では、あなたの代わりに、私のいのち分、あなたの仕事をしましょう」
「といいますと?」
「畑を耕しましょう」
「ぼくの畑はあなたのいのち分の大きさではありません。とてもとても小さな畑です」
「掃除をしましょう」
「ぼくの家はあなたのいのち分の大きさではありません。とてもとても小さな家です」
「羊の世話をしましょう」
「ぼくの羊はあなたのいのち分の大きさではありません。とてもとても小さな羊です」
旅人はついに、がっくりと頭を下げました。そしてそのまま、悲しそうに頭をかかえました。
「困りましたね。わたしはどうやって恩返しをしましょうか」
困り果てる旅人をみて、ぼくはこう答えました。
「では、あなたのいのち分、お話をきかせてください」
「といいますと?」
「あなたのいのちが絶えそうになった、旅の話をしてください。ぼくは生まれてこのかた、旅をしたことがないのです」
ぼくがそういいますと、旅人は太陽のような笑みでこくりとうなずきました。
「分かりました。わたしのいのち分、旅の話をしましょう」
旅人はそれから、旅人のいのち分、旅の話をしてくれました。それはそれは、素晴らしい旅の話でした。
旅だった日の、眠れない夜のこと。
魚をとっていたら、となりに竜が座っていたこと。
星のおちる街であった、歌姫のこと。
旅人は更に、旅人のいのち分、旅の話をしてくれました。
荒れた海で、大きなタコと戦ったこと。
世界の真ん中で、歌をうたったこと。
そして、大きな砂漠で、七日間も迷ったこと。
旅人のいのち分の旅の話。
それは、とても勇敢な、とても情熱のある話でした。
ぼくは話を聞き終ると、その素晴らしさから、思わず拍手をしました。
「とてもすごい話をききました。あなたのいのちはとても勇気があり、とても決断力があり、とても興奮のあるものですね」
旅人は顔を真っ赤にさせました。そしてこう言いました。
「私はただ、旅に出ただけです。私のいのちもまた、旅にでただけなのです」
「でもやはり、ぼくは感激しました。これはとても素晴らしいことで、とてもとても素敵なことです。ですからぼくは、あなたをとても強いと思います」
ぼくの言葉に旅人は大きく目をあけると、先程のように頭を下げてしまいました。
「どうしました?」
「いいえ、なんでもありません。ただ私は、あなたの言葉のとおりの人間ではないのです」
「と、いいますと?」
「私は、強くないのです」
旅人の言葉の意味が、ぼくには分かりませんでした。
だってそうでしょう。
旅人は、自由と冒険を求めて故郷を去りました。
旅人は、となりに竜が座っていても、かまわず魚をとりました。
旅人は、歌姫を、悪い盗賊から守りました。
旅人は、大きなタコをうちとりました。
旅人は、歌をうたい、また旅にでました。
そして旅人は、大きな砂漠をこえて、ぼくの家にきました。
そんな旅人が強くないなんて、信じられません。ぼくは思わず、問いかけました。
「どうして、あなたが強くないというのですか?」
旅人は微笑むと、こう答えました。
翌朝、ぼくはいつもどおり、羊に餌をやりました。羊はとても小さいので、ぼくはすぐに餌をやり終りました。
旅人は昨晩、こんなことを言いました。
「わたしは、弱いのですよ」
「弱い?」
「ええ、弱いのです」
それから僕は、家の掃除をしました。家はとても小さいので、ぼくはすぐに家を掃除し終りました。
旅人は昨晩、こんなことを言いました。
「なぜ、弱いのですか? あなたは旅人で、強いはずです」
「そうです、旅人です。だから弱いのです」
「よく分かりません。ぼくには旅はできません。あなたはぼくより強いはずです」
それからぼくは畑を耕すために、くわをもちました。そして家の横の畑にいくと、畑を耕しはじめました。
旅人は昨晩、こんなことを言いました。
「ちがうのです。人は弱いから、旅に出るのです」
「弱いから、旅に出る?」
「そうです。強い人は旅に出ません。なぜなら、旅立つ必要がないからです」
そばには、旅人が渡った砂漠が広がり、その反対側には平原が広がっています。
旅人は昨晩、こんなことを言いました。
「わたしは、ずっと畑を耕し続けることができません。わたしは、ずっと家を掃除し続けることができません。わたしは、ずっと羊の世話をし続けることができません。だからわたしは、旅に出たのです」
そして旅人は、立ち上がりました。
「守るべきものを守れないから、旅立つのです。そして少しずつ、強くならなければならない。旅立つなんて、弱い人がすることです」
そして旅人は、荷物を持ちました。
「そしてわたしはまだ、ひとつの場所にとどまることが恐ろしい。なぜならわたしには、守る力がないからです」
そして旅人は、扉に手をかけました。
「おいしいグラタンでした。ありがとう」
そしてそのまま、旅人はまた旅に出ました。
ぼくは旅人が旅立った平原をみつめました。旅人はどこに向かうのか、ぼくは知りません。もうぼくには、旅人の背中も見えないのでした。
ある日、ぼくの家に旅人がやってきました。
寒くもなく、暑くもない季節。いつものとおりぼくは、この家にすんでいて、旅のない日々を送っていました。
そんな時に、旅人はやってきました。
コンコンコン。
そしてぼくはそれを、風の音だと思ったのです。
“小説家になろう”に登録し、初めて書いた思い出深い話。