月夜の晩に〜セーラ姫とリーン王子の恋愛譚〜
『幻想鏡』
ある満月の晩、セーラ姫は自室の化粧台の前で大きなため息を吐いていた。
〈お父様は今日も政治の話ばかり。いい加減うんざりですわ。……こんなことを言ってはなんですけれど、正直世界情勢などわたくしにとってはどうでもよいことですわ。わたくしはただのんびりと暮らすことができればそれで――〉
その時、化粧台に備え付けられている大きな鏡がパーッと強い光を放った。
「きゃっ!」セーラ姫は突然の眩い光に思わず目を逸らす。
光が治まり、再び鏡へ目をやるとそこには見知らぬ男が映っていた。鏡に映った男もセーラ姫同様、戸惑った表情を浮かべていた。セーラ姫は不思議そうに鏡へとその右手を伸ばす。細くしなやかな指先が鏡面に触れそうになった瞬間だった。
「――誰だい? 君は」鏡の中の男が訝しげな様子で言った。
鏡からまさか声が聞こえてくると思っていなかったセーラ姫はそのつぶらな瞳をよりいっそう丸くする。だがすぐに、少し不服そうな顔をして、
「人に尋ねるときは自分から名乗るのが礼儀ではなくて?」と言った。
セーラ姫の不遜な態度に、鏡の中の男は思わず相好を崩し、「ははは!」と大きく笑った。哄笑する男の姿に、セーラ姫は少しむっとしながら、
「何がそんなにおかしいのです?」と尋ねた。
鏡の中の男はひとしきり高笑いをしたあと、
「いや、失礼。このような摩訶不思議な事態だ。妖の類を疑ってもいいものだが、君は妖にも礼儀を説くのか、と思ってね」
「妖が不思議そうな顔をしながら『君は誰だい?』なんて言うものですか」
「ははは!」再び男は声を出して笑う。「それもそうだね。どこぞの誰とも知れぬが……不思議なこともあるもんだ。鏡を通じて繋がってしまうとは」
「……セーラです」
「セーラと言うのか。見た目に違わぬ美しい名前だね。僕はリーン……」少し言いよどむ。「そうだね、いまはただ『リーン』と呼んでくれればいい」
「リーン。随分立派なお部屋に住んでおられるのですね」
「いやいや、そちらこそたいそう絢爛豪華なお部屋だ」
「……わたくしたち、案外似た境遇なのかもしれませんわね」
「そうだね。ただ、いまは身分のことなど忘れていたずらに時を揺蕩いたい」
「ふふ」セーラ姫は思わず笑みを零す。「難しいことを仰るのね」
「『難しい』かい?」
「ええ」
「自分の心持ち次第で簡単に実現できることだと思うけれど……」
「あら。そういう意味で言ったのではありませんわ。『難しい言葉をお使いになられるのね』と言ったつもりでしたの。わたくしの言い方が悪かったのかもしれませんわね」
「なーんだ。そういうことか。僕は本を読むのが好きでね。……少し、変な言い回しだっただろうか?」
「いいえ。そんなことはありませんわ。むしろ素敵だと思いましたわ」
「そうかい? こうして面と向かって『素敵』だなんて言われると少し照れるな」
「鏡越しは面と向かっていると言えるのでしょうか……たしかに鏡の面には向かっていますが……」
リーンは「ははは!」と口を大きく開けて笑った。
「セーラはときおりおかしなことを言うね」目尻に浮かんだ涙を左手の人差し指で拭いながら言う。
「……よく笑う方ですわね」
「普段はこんなに笑わないんだけどね。君とは相性がいいみたいだ」
「なんだか破廉恥ですわ」
「そうかな?」
「そうですわ」
それからというもの、二人は鏡越しに逢瀬の時を重ねた。そうするうちに、セーラ姫は次第にリーンに心惹かれていった。愉快に笑うリーンの姿に、優しげな声と笑顔に。
「今日は映らないのかしら」
鏡が二人を結ぶのは、決まって満月の晩だった。
ある満月の晩、鏡に映るリーンはとても深刻そうな面持ちをしていた。いつもは楽しげに話すリーンの尋常ならざる姿に、セーラ姫はいつまでも声を掛けられずにいた。心地がよいとは到底言えない沈黙が二人の間を流れる。セーラ姫はなんと声を掛けたらよいものか思案していた。目をぐるぐると回し、頭をフル回転させ、うんうんと唸っていた。――そんな時だった。意を決したように、リーンが話した。
「セーラ。いや、セーラ姫。君に伝えねばならぬことがある」
いつになく真剣な眼差しで語るリーン。鬼気迫る表情のリーンに、セーラ姫も固唾を呑む。
「わたくしのこと……ご存知でしたのね」
少し残念そうな表情をするセーラ姫。
「いや、気づいたのはつい最近だけどね。服に装飾された王家の紋章がちらっと見えてしまったことがあって……。別に君がお姫様と知っていたから仲よくしていたわけじゃないんだ! 信じてくれ!」
「……リーンがそんな打算的な考えをお持ちなんて思ってもいませんわ。だってあなたが言ってくれたんじゃない。『身分など忘れていたずらに時を揺蕩いたい』って。あれは紛れもなくあなたの本心でしたわ。だからこそきっと、わたくしも“素敵”だと感じたのですわ」
「……ありがとう」リーンはそう言ってどこか寂しそうに笑った。「それよりも、君に伝えなきゃいけない事があるんだ」
「ええ、わたくしも覚悟ができましたわ。リーンが話すのを躊躇うほどの事態なのですよね」
「……ごめん」リーンは小さく呟いた。「僕はリーン・トーエン。トーエン帝国の第三王子だ。いままでずっと話せなくてすまない」
「それはお互い様ですわ」
「明後日明朝、我が帝国、父上が君の王国に攻め入る算段を立てている」
「そんな……! どうして!」
「……すまない。僕にはわからない。この事をすぐに皆に報せるんだ。一人でも多くの民に逃げてほしい」
「いまからなんて無理ですわ! 王国民は何十万といるんですのよ!? それを一日ちょっとで避難なんて……。それに、わたくしがいきなりそんなことを言ったところで信じてもらえるかどうか……」
「……本当にすまない。僕では父上の決定を覆すことはできない。どうか、どうか君だけでも逃げ延びてはくれないか!」
「国民を見捨てて逃げることなどできませんわ! これでも王家の人間の端くれです。王族としての矜持がありますのよ! ……国民なくして、国は成り立ちません。王国が滅びるというのであれば、その時はわたくしも……」
「ダメだ!」
リーン王子はそう叫ぶと鏡へ――鏡の中のセーラ姫へと左手を伸ばす。無情にも、その手は鏡面に遮られセーラ姫には届かない。リーン王子は両手を鏡面に押しつけるようにして身を乗り出す。
「頼む……! 君だけでも……君だけでも逃げてくれないか!」
セーラ姫は悲しそうに首を横に振り、届くはずもないリーン王子へとその右手を伸ばす。鏡越しに二人の手が重なる。けして感じることのできない温もりが、悲しく現実を突きつける。
セーラ姫は声を震わせながら言った。
「どうせ萎れていく花であるなら……せめて……せめてあなたの手の中で逝きたい」
「ダメだ!」
「……最後くらい、あなたのおそばに飾らせてください……」
「ダメだ!」
「……私室でお待ちしております」
「頼む!」
「誰よりも早く私のもとへ辿り着いてください。そして、あなたの手で――」
「君には生きていてほしい!」リーン王子の悲痛な叫びが虚しく木霊する。「君のいない世界など! 僕は! 僕は――」
「では、わたくしを迎えに来てくださいませんか。この囚われた籠の中から連れ出す白馬の王子様となって」
セーラ姫はそう言って悲しく笑う。
「ああ、ああ! 必ず! 必ず行くから! 君の居場所を教えてくれ!」
「……そうですわね……。いま、紙に書いてお持ちしますわ。しばしお待ちください」
そう言ってリーン王子の手のもとから遠ざかっていくセーラ姫。小さくなっていく彼女の背中に、リーン王子は言いしれぬ不安を抱いていた。
「いくらでも待つさ! 君のためなら!」
そんな不安を搔き消し、自身を鼓舞するように叫んだ。
「それで、ここまで来たら右に曲がると――」
「『右』? 左じゃなくて?」
「ええ……もしや、鏡だから反転しているのではなくて?」
「そうかもしれない。これは覚えるのが面倒だな」
「……リーンなら大丈夫ですわよ。信じて待っていますわ」
――明後日。それは朝日の昇る前のことだった。トーエン帝国が一斉に放った火矢によって、セーラ姫の暮らす王国は猛き炎に包まれていた。バチバチと激しく火の粉の爆ぜる音と人々の悲鳴が不協和音を奏でていた。甲冑を着た騎士たちの行軍する音、金属の擦り合う音が王国へと近づいていた。
出陣の際の騒ぎに乗じて帝国を抜け出したリーン王子は、ひと足先に王国へと辿り着いていた。
「ごほっ!」周囲を覆う熱とひどい黒煙とに襲われ、思わずむせる。
〈待っていてくれ。セーラ。いま――〉
「セーラ様! お逃げください! 直にここも炎に飲まれますぞ!!」
セーラ姫の部屋の外から嗄れた老夫が声を掛ける。ドアは開け放しとなっていたが、どこからともなく聞こえてくる火の粉の爆ぜる音に、自然と声が大きくなる。
「ごめんなさい! 爺や! ここで待たなくてはならない人がいるのです!」
「そんなことを言っている場合では――」
大きな音を立てて天井が崩れ落ちる。
「セーラ様! ご無事ですか!」
「わたくしは大丈夫です!」
老夫はほっと胸を撫で下ろす。
「しかしこれでは!」
瓦礫となった天井が入り口を塞ぎ、立ち入ることはできなくなってしまっていた。
「わたくしのことは放って逃げなさい! あなたにはまだできることがあるはずです!」
「しかし! 姫さまを置いて逃げるというわけには! ……いやしかしこれではどうしようもありますまい」
「これはわたくしの意思です! あなたに責はありません!」
「そうは申されましても!」
「犬死にがしたいのですか!!」
そう言ってセーラ姫はごほごほとむせる。
「……思ったよりも火の回りが早いようですわね」小声で呟く。「これ以上喋るのは喉の負担になります! わたくしを早死にさせたいのですか!」
「ええい! 致し方ありませぬ! 爺は逃げ遅れている者がいないか確認しながら逃げますゆえ! 姫さまもどうかご無事で!」
老夫はどうかする思いでその場を立ち去った。〈姫さま、どうかご無事で〉その思いが、火事の中を急く老夫の頭の中をひたすらに反響していた。
「ごほっ! ごほっ!」
セーラ姫は身を低くしてリーンが来るのを待っていた。……というよりも、立っているのもやっとで、自然と倒れ込んだというほうが正しいのかもしれない。
〈……この火の手ではリーンも来れないでしょう……。ふふ。バカね。本当にリーンが来ると思っているのかしら。彼が来るはず――〉
「セーラ! 無事か!」
「り……リーン?」
「まだ中にいるのか!? 返事をしてくれ!」
「リーン……わたくしはここに……」〈ダメ、声が……〉「気づいて……」
セーラ姫はリーンの声が聞こえてくる入り口のほうへと力なく手を伸ばす。その手は伸びきることなく床へと落ちた。
「セーラ?」燃え盛る業火の中聞こえてきた、そのわずかな音を、リーン王子は聞き逃さなかった。「いるんだな!? いま行くから待っててくれ! もう少しの辛抱だ!!」
〈ああ……リーン。気づいて……くれたのね……。これで……あなたの手の中で……〉
「くそっ! この瓦礫の山が邪魔で!」リーン王子は瓦礫と瓦礫との間にできたわずかな隙間に気づいた。「通れそうな隙間を見つけた! いま行くからな!」
わずかな隙間を縫うように這って進む。
「セーラ! セーラ! 無事か!?」
「り、リーン……来てくれると信じていました……」
「いい、いい。もう喋るな! いま外に出してやるからな!」
「ああ……ずっとお逢いしたかった……」
「もういい!」
何かを悟ったように微笑むセーラ姫と、何かを必死で探すリーン王子。二人を眩い光が包んだ。
「うっ……! なんだ?」
化粧台の鏡が、セーラ姫とリーン王子を繋いだその鏡が、妖しく光っていた。
「不思議……なんだかわたくしたちを導いているみたい……。リーン、あちらへ」
「あ、ああ」
リーン王子がセーラ姫を担いで鏡の前へ行くと、そこには幻想的な花畑が映し出されていた。セーラ姫が腕を伸ばす。リーン王子は慌ててをそれを遮った。
「ダメだよ! 何が起こるかわからない」
「わたくしたちを……繋いでくださった鏡ですのよ……? 悪いモノの気は……しませんわ……」
「そうだけど……」
「この先に何があるのか確かめたい。あなたと二人で」
向かい合って頷き合う二人。二人一緒にその手を鏡へ伸ばす。鏡に触れた瞬間、二人は鏡の中へと吸い込まれ姿を消した。
白みだした空に、満月がうっすらと輝いていた。