十八
私があの子と出会ったのは二年ほど前のことだったか。
何時ものように夜中、無縁仏を供養して家路についた時のことだ。
『あら』
体質上。私は陰の気に酷く敏感だ。
それゆえに気付いた。硬い硬い殻の内側。育ち過ぎた陰気が今にも爆ぜそうな気配がすることに。
『これは少々よろしくないわね』
恋をして以降は生きた人間に手を差し伸べるようなことはしていない。
それでも住職や師匠の影響は大きかったのだろう。問題のない範囲でやれることはやっていた。
既に死人である無縁仏の供養や目についた怪異の討伐などがそれだ。
陰の気が爆ぜる予兆への対処も問題のない範囲でやれることだった。
『可哀そうだけれど』
殺すしかない。そう決めて私は気配のする方へ向かった。
そこは貴族の屋敷だったが問題なく忍び込めた。昼でも紛れてしまえば分からないし夜なら尚更だ。
気配の主は子供だった。
『ッ……ぐぅ……あぁ……!!』
広い部屋の片隅で子供は痛苦に喘いでいた。
病や怪我ではない。体に大小問わず生々しい傷が刻まれているがそれらは最早、意味を成していない。
身体的な痛みが気にもならぬほどその心は闇に侵され切っていたのだ。
『……』
同情、ではない。
その感情に敢えて名をつけるのであれば“憤り”だろう。
傷を刻んだ誰かへの怒り? 否、違う。強いて言うなら不公平に対する怒りか。
生まれながらに死ぬべきであった私にさえ手が差し伸べられたのだ。
よほど救いようのあるこの子供に一度もそれがないというのは面白くなかった。
自滅し周囲に禍を撒き散らして退魔師、陰陽師に討たれるか。そうなる前に私に殺されるか。
今この子供の前にある選択肢はそれだけ。だからだろう。
『こんばんは』
『どなた様、でしょうか……?』
見知らぬ女が夜半、寝室に侵入している。明らかな異常事態だ。
にも関わらずこの反応。私が誰かを気にはしていても危険を感じていない。
真っ当な精神状態ではないことの証明だ。
『蘆屋道満。破戒僧よ』
女らしくない名前だが独り立ちする際に師匠が送ってくれた名なので今も使い続けている。
姓は師のそれを。下は苦難に塗れた道行きの果てにその心がみつることをという意味で道満。
不相応な名前だが師の祈りを無碍にすることはできない。
彼には偽名を使ったけれどそれは互いに認識し合った状態で改めて名を名乗り合いたかったからだ。
『御坊様でしたか……』
『早速だけどこのままだと私はあなたを殺さなくてはいけなくなるわ』
筋道立てて分かり易く説明してやる。
普通の子供であれば泣き喚く、恐怖し命乞いをする、当たり散らすなどの反応をするだろう。
だがこの子供は、
『ああ、やはり僕は天羽の次期当主には相応しくなかったのですね』
ただただ己の不明を嘆いた。
天羽の次期当主。その言葉に一層強い陰気を感じた。
そして大体のことが分かった。この子供と、そして次期当主という言葉。察せぬほど愚かではない。
惨いことをする。だが私もこれから惨いことをしようとしていると思えばこの子の親を責められはしない。
『それで良いの?』
『良いも何も僕は結局』
『どれだけ絶望的でも最後の最後まで道を模索する。それもまた当主の器ではないのかしら?』
『そ、それは』
何故、そんなことを言う。ようやく楽になれるのに。
そんな感情がありありと見えたがそれを表に出すことを許されていなかった。
恐らくは頭の中で思い浮かべることさえ。だからこそ本人は気付いていなかったのだろう。
『では、それならこの僕にどうしろと?』
『霊力の扱い方を教えてあげる。覚えが良ければ暴走しそうな陰気を制御できるかもしれないわ』
それまでは私が抑えてあげる。
そう提案すると少しの逡巡の後、子供は床に手をつき頭を下げた。
『ご指導のほどよろしくお願い致しまする道満様』
『ええ。ああそうだ。あなたの名前を聞かせてくれる?』
『樹。天羽樹と申します』
そうして子供――樹との師弟関係が始まった。
元々は人並の霊力しかなかったが霊力を扱う才能自体はあったらしい。
勤勉で従順。教える側としてはつまらなさを感じるほど。
半年ほどで樹は荒れ狂う陰気の手綱を握ることに成功した。
お役御免と言いたいが、
『あなたには才能があるわ。だからもっと教えてあげる』
『ありがたきお言葉。以降もよろしくお願い致しまする』
霊力の使い方を学ばせ陰気を制御する、というのは方便だ。
樹を救わんと力の使い方を教えても教える人間が私なのだから当然、悪い結果になる。
間違った形で立ち直り傲慢にその力を振るう悪しき陰陽師になるのが関の山。
現にその兆候は出ていた。樹は得た力で実の父を虐げるようになっていた。
『因果応報、ではあるけれどこれでは駄目』
だからこれは一種の賭け。
どうにもならねば私の手で始末するしかないが目論見が上手くいけば結果的に樹は救われる。
私は樹の悪縁を占った。良縁は探せないが悪縁ならお手のもの。
心が病んでいる樹なら尚更だ。この状態でなら悪縁の方が多い。
そうして色が絡む悪縁を見つけ出し、私は縁が交わる場所へ行くよう樹に指示を出した。
『道満先生! 僕は、僕は生まれて初めて愛を知りました!!』
目論見は叶った。
後は放置していても悪い形で求愛を始めるだろう。
私がすべきは如何にして“彼”を絡ませるかだ。だが必要なかった。
『東雲商会のご令嬢――であれば巡り巡って彼の下に辿り着くわね』
悪いた企てほど上手く行くのが私という女。
計画に際して身勝手な私欲を織り交ぜていたからだろう殆ど何もせず状況は整えられた。
賭けとは彼の存在だ。私と対極の存在である彼ならば或いは救えるかもしれない。
私という名の穢れも加わり更に破滅へと突き進む樹を。
そして歪んだ恋物語が始まった。
悪意を以って少女を手に入れようとする樹。
眩い善意で以って少女を守らんとする明くん。
ちなみに、だが織り交ぜた私欲というのは当然のことながら明くん絡みだ。
明くんの素敵な姿を見たいという私の欲望。
「樹は本当によくやってくれたわ」
少女に与えられる優しく頼もしく甘い言動の数々は余さず記録した。
これが私であったならという妄想だけで三年ぐらいは平気で潰せる気がする。
「できれば樹も上手くいって欲しいけれど」
私にできるのは私欲を以って場を整えるだけ。
後は彼を信じるしかない。無論、樹が救われずとも恨みも失望もしない。
元より終わっている人間なのだから。救えずともしょうがない。
「さて。そろそろかしら」
戦いの様子は私も遠隔で見ていた。
術を介してとは言え直接言葉を交わせる好機を戦士としての明くんは見逃さなかった。
そして私人としての明くんも樹の闇と傷を見逃さなかった。
最終章への道筋は立った。であればそろそろ、
「……ッ道満、先生」
ほら来た。
私の拠点に肩で息をしながら樹が転がり込んで来る。
「相手は最強の退魔師よ。それでも、戦うのね?」
「愛がため。惜しからざるやこの命」
「そう」
言葉だけを見れば美しいがその中身には醜と悪だけが詰め込まれている。
そう誘導したのは私だけれど、誘導しなければ別の形で無差別にその悪意を振り撒いていただろう。
「良いわ。戦いの備えを手伝ってあげる」
「あ、ありがとう……ありがとうございます先生! 道満先生!!」
跪き私の手を取り何度も何度も感謝を告げる樹。
全霊を以って助力する。手を抜くつもりは一切ない。
私が放つ全力の闇と明くんの極まった光がぶつかった先にこそ可能性は生まれると信じるがゆえだ。
「とは言え直接、戦力にはなれないわよ」
「当然です。これは僕の戦いですし、大恩ある先生にそこまでお頼みするわけには」
「違うわ。もう一人、敵が居るでしょう?」
「は?」
闇に蝕まれているがゆえに視野が狭くなっている。
「安倍晴明。都一の陰陽師。最強の退魔師が護衛に就いたのはあの女の仕業なのだし決戦ともなれば出張って来るに決まってる」
「! まさか」
「ええ。清明の相手は私がしてあげる」
「おぉ……おぉ……! そこまで、そこまで僕のために……先生、僕はあなたにどれだけのものをお返しすれば良いのか」
感涙に咽び泣いている明には悪いけれど、
「必要ないわ。だってこれ、私情だし」
「し、私情ですか?」
「私、あの女が大嫌いなの」
これは嘘じゃない。私の本音だ。
私は明くんが好き。愛している。でも一番になれなくても良い。側室でも何ら問題はない。
何ならそう、今樹が御執心の縁という少女。彼女が正室ならそれはそれで構わない。
でも清明は駄目。何もかもが気に入らない。殺す。私の全力の悪意を以って殺しに行く。
この機に乗じて排除して後々の憂いを取り去っておきたい。
「せ、先生ほどの御仁が嫌うとは……いえ僕もアレは糞女だと思っておりますが」
ああそう。評判悪いものね。
「別に私は聖者でも何でもないわよ」
樹はあの少女とは違う意味で私を神聖視している。
今日の幸福が全て私のお陰だと思っているからなのでしょうけど……。
「それにあちらも私を狙って来るでしょうしね」
そろそろあの女の目を盗むのも限界だろう。
決戦の日に合わせてこちらの首を獲りに来るだろう。どの道、殺し合う運命だったのだ。
「だから感謝とか余計なことは考えなくて良いわ」
「ですが……」
「もし、何かをしたいと言うのであれば」
考えるような仕草をして、
「勝ちなさいな。そして幸せを手に入れなさい。でなければ手を差し伸べた甲斐がないもの」
虚言を一つ。
「――――はい、はい! 必ずや! 必ずやあの憎き英めを誅殺して御覧に入れましょう!!」
「その意気よ」
自分で誘導しておいて何だけどこれ以上、明くんが罵られるのは聞いていたくない。
それに時間もあまりないのだ。実務的な話に移るべきだろう。
「さあそれじゃあ策を練りましょう」
「はい!!」
とは言ったもののだ。
真面目に明くんを攻略するとしてどうすれば良いのか。
この子も創意工夫を凝らして何とか穴を見つけようとしていたけれど、
(隙のない単純な強さなのよね)
硬くて速くて火力もあって自己回復もできる。
莫大な霊力に胡坐を掻いて技術が疎かかと言えばそんなこともない。
大抵の攻撃は問題なく受けられるのに技巧を凝らしなるべく当たらないよう立ち回っている。
大抵の守りは雑に突破できるのに優れた嗅覚で的確に弱い部分を狙って来る。
そうなるともう単純に地力で上回るしか……いえ駄目ね。弱気になるのは良くないわ。
(仮に私が直接、戦うとしましょう)
どうする? どうやって攻略する?
遠距離からの飽和攻撃? いや負傷覚悟で突っ切って来そうね。
呪詛の数々を飛ばしても弾かれるか仮に届いても浄化されてしまう。
(あれ? ちょっと待って。これ戦いが成立する?)
一方的にやられてしまわないかしら?
手を抜くつもりはないとか言ったけれど手を抜けるような余地はどこにもないんじゃ……。
「道満先生?」
「今、必死で考えてるの。あなたも考えなさい。どんな些細なことでも良いから」
「は、はい!!」
策が何とか形になったのは半日後のことだった。