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十七

 何時のことであったか。正確な日付は思い出せない。

 休日。清明の屋敷で昼間からぐだぐだやっている時のことだ。


『愛は良きものか悪しきものか』


 どう思う? 清明がいきなりそう切り出した。

 急にどうしたと思ったがこの友人が突拍子もないことを言い出すのは何時ものこと。

 視線で答えろと促されたので私は素直に自らの考えを告げた。


『良きものだろう。愛なくして人は立ち行かぬ』


 生憎と私に好い女子は居ないが死んでしまったものの家族は居たし友は現在進行形で存在する。

 その人らの愛に支えられているというのは度々、痛感していた。


『退魔師として修羅場を潜るようになってからは特に思うよ』


 私自身が死の恐怖に晒されたことはあまりない。

 それでも戦っていれば悲劇は付き纏う。

 怪異に食い荒らされた守るべき民草の無惨な骸。力及ばず戦死する同胞たち。

 悲劇に触れる度、心が軋みを上げる。もう嫌だと投げ出してしまいたくなったことは一度や二度ではない。

 それでも尚、私が刃を振るっているのはこの胸に刻まれた愛あればこそ。


『私を立ち直らせてくれるのは何時だって愛だ』


 使命感というものもあるがそれさえ愛によって導かれたもの。

 愛する人々が笑っていられるようにと願うがゆえに使命は裡よりいずるのだ。


『堂々と小っ恥ずかしいことを言うではないか』


 小馬鹿にしたような口調で、それでいて優しい眼差しだった。


『なるほど一理ある。確かにそういう面もある』

『ふむ? では清明はどう考えておるのだ』

『両方だ。愛は毒にも薬にも成り得る』

『……ちょっと待て』

『別にどちらかを選べなどとは言っておらぬだろう?』

『それは、そうだな』

『素直な奴め』


 コロコロと喉を鳴らしてひとしきり笑った後で清明は言った。


『その愛がどこからいずるのかよ』

『ふむ?』

『健全な心の裡より発露された愛はなるほど、与えられた者の心を救おう』

『なら不健全な心から生まれた愛は』

『毒となる。他者だけでなく己すら傷付ける猛毒にな』


 目の前に出現した人型の闇を見て私はこの時の語らいを思い出していた。

 下手人が不健全な心より湧き出た歪んだ愛情を縁殿に注いでいるのは清明の言からも把握はしていた。

 だがこれは、


(何と悲しい目をしているのか)


 私には怒りと憎しみを。縁殿には縋るような目を向けている。

 すとん、と腑に落ちてしまった。これは単なる性根が腐った男のストーカー事件ではないと。

 あの者は猛毒の愛を注がれた結果、壊れてしまったのだ。誰からかは分からない。

 しかし心身苛む愛情によりとことんまで追い詰められた結果ああなってしまったことは分かる。

 そして恐らく、


(……縁殿がお救いになったのだろう)


 これもまた何となく想像がつく。出会いはきっと偶然だ。

 どこでどう出会ったのかは知らないが縁殿から接触したのではなかろうか。

 老人が重い荷物を抱えて難儀しているのを見かけた時のように。

 親と逸れた子供が途方に暮れて泣いているのを見かけた時のように。

 些細な善意の下、手を差し伸べたのだと思う。


 そこからどんなやり取りがあったのかは分からない。

 しかし縁殿からすれば当たり前の善意を注いだだけ。

 頭の片隅にも残っていないような極々あり触れた出来事なのだと思う。

 だが下手人にとっては地獄に垂れた蜘蛛の糸が如き救いになった。

 世界で唯一つの光と見なし、それ以外が何も見えなくなった。目を潰されてしまった。

 いや自分で閉ざしたのかもしれない。これ以外は要らぬと。


【よくもまあ、ここまで僕を愚弄してくれる!!】


 これでもかと憤怒が塗り込められた叫びが大気を震わせる。

 毒の愛しか持ち得ないから気付けない。縁殿が怯えていることに。

 いや怯えていることは分かっていてもすべきことに気付けないと言うべきか。

 普通、惚れた女の子が怖がっていたらまずはその恐怖を拭い去ろうとするだろうに。


【英明! 貴様は何なのだ!? 何故僕の邪魔をする!!】

「縁殿を御守りするため」

【要らん! 僕が居る! 僕だけで良い! 彼女の傍に在る男は僕だけなんだ!!】


 守りたいと言いながらその身を危うくさせているのはお前だろう。

 なんて当然の反論に意味はない。それだけこの男は狂っている。

 術を介しているからか或いは激情で制御が覚束ないのか。

 前世であったボイスチェンジャーを通した声のようで年齢は察せない。

 それでも何となく幼さを感じるので恐らくは十代前半なのだと思う。

 それぐらいの年齢でも普通なら分かるだろう。

 怪異を差し向けてマッチポンプでそれを祓ってなんてやり方はあまりにも馬鹿げていると。


(それにさえ気付けないほど追い詰められている)


 その齢でと思うとあまりにも憐れだ。

 今私が優先すべきは縁殿。これは決して揺るぎはしない。

 だが、と思ってしまう。


(出来ることなら彼を救ってやりたいが)


 とは言えどうにもならぬのであれば私は私の好む人を優先する。

 どれだけ憐れな事情があったとしても彼を斬ることに一切の躊躇はない。


(問題を解決する千載一遇の好機だ)


 思考を切り替える。

 これまで姿を現さなかった下手人が術を介してと言えどこちらに接触して来たのだ。

 利用できる。一気に問題解決の道筋をつけられる好機だ。



「笑止」

【……何?】

「なっておらぬ。実になっておらぬ。女子の扱いが下手にもほどがあろうや」


 頭の中に清明を思い描く。

 この場面ではあ奴の真似が一番、効くと思うから。


「こんな拙い口説き方で縁殿の心が手に入ると? ちゃんちゃらおかしいわ。

これだから女子の肌の温かさも知らぬ青臭い小僧は困る」


 少し屈んで更に縁殿を抱き寄せその頭に自らの頬を擦りつける。


【な、な、な】


 わなわなと震える下手人をよそに私は縁殿に囁く。

 上手いこと私に合わせてくだされ、と。聡明な彼女のことだから分かってくれると思う。


「貴様はさも私が縁殿を奪ったかのようにほざいたがそれは大いなる勘違いよ。

むしろ貴様が私と縁殿を近付けたのだ。それ、日々寝食を共にする内にここまで心の距離が近くなったわ」


 姿勢を変え背中から包み込むように抱き締める。

 すると意図を酌んでくれた縁殿がすりすりと甘えるように私の胸板に頬を擦りつけた。

 そしてつい、と指でその顎を持ち上げ顔を近づけ口づけ。


【――――】


 するように見せかける。まだ誰も知らぬ乙女の唇を簡単に奪うのは流石にな。

 とは言え角度的には私と縁殿が接吻しているように見えるだろう。


「――――踏み台になってくれて感謝するぞ名も知らぬ間男よ」

【~~~~ッッ】


 震えていた体がぴたりと止まる。

 そして、


【あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!!!】


 絶叫。陰気の風が吹き荒ぶ。


「温い! 温いな! 貴様の愛はその程度か? これでは縁殿の心が手に入らぬも道理よ!!」


 陽気を放ち押し返す。

 渦巻く陰陽の嵐の中、私は挑発を続ける。


「何を怒る」

【貴様ァ! 我が愛を嘲弄するか!?】

「ハッ! 至極当然のことを言っているだけであろうに。だがそこまで否定するというのであれば」


 良いことを思いついたと笑う。


「決闘だ。三日後の晩。縁殿をかけて尋常な果し合いをしようではないか」


 心底小馬鹿に仕切った風を装い鼻を鳴らす。


「私としても貴様のようなみっともない男が私の女に付き纏っているのは鬱陶しいのでな」


 さっさと片付けたいのだ。


「ああ、逃げるならそれでも構わぬぞ。所詮は“その程度”と此方も忘れることにしよう」


 半日もあれば、いやさ一刻もあれば忘却に沈められる。

 そして気兼ねなく縁殿と愛を語らうとしよう。


【殺す殺す殺す殺す! 八つ裂きにしてその骸を三条の河原に打ち棄ててくれるわ!!】

「ほう、情けない男かと思えば存外、気骨はあるらしい。結構結構。であれば真正面から斬り捨てるとしよう」


 場所はそちらが決めて良い。後日、文を寄越すよう伝える。

 あとは清明なら何て言うかな。


「安心せい。貴様の骸は私がしっかり弔ってやるゆえな」


 墓碑にはこう刻むとしよう。


「――――惨めな間男ここに眠る、とな」


 返答はなく、極大の殺意と共に下手人は去って行った。

 それを見届け私も縁殿を連れて屋敷に戻る。


「御助力感謝致す。そして怖がらせてしまい申し訳ありませぬ」

「あ、はい」


 あれ? そんな怖がってるように見えない?


「……ちょっと役得でしたし」

「縁殿?」

「いえ何でも。それでその、あの色々と似合わないご発言の数々についてですが」


 に、似合わない。

 いやまあ自分でもそうは思っているがこうも直球で言われるとちょっと……。


「下手人と直接対峙し事を終結させるため、ということでよろしいのですよね?」

「ええ」


 やはり聡いな。

 あれだけ怖がっていたのにこちらに合わせてくれたこともそうだがその意図まで読んでいる。


「何故、三日後なのでしょう?」

「三日後の晩は新月だからですねぇ」


 茶を運んで来た灯が私の代わりに答えてくれた。

 そう、三日後に指定したのはその日が新月だからだ。


「新月だと何かあるのですか?」

「満月は人を狂わせ新月は怪異を狂わせると申しましてねぇ。前者は陽気が、後者は陰気が強くなる日なのですよぅ」


 陰気の塊である怪異にとって新月の日は何時も以上の力が出せるのだ。

 そして得手とする術の数々が陰に寄ったものであろうことから下手人にとっても都合が良い。


「これでもかと怒ったものの床に就けば何やら冷静になった経験が縁殿にもありませぬか?」

「……そういうことですか。挑発で茹だった心が冷静になった後のことを考えて」


 その通り。当然、こちらの意図――決着をつけたいというのも理解するだろう。

 そこでケツを捲られたら面倒だ。それゆえ有利な材料を敢えて差し出したのだ。


「ま、あちらさんとしても明様がどんどん力を取り戻しているのは分かっているでしょうしぃ」


 必要があったかどうかは分かりませんがねと灯。

 そこもある。まだ五割にも満たないがそれでも力は徐々に戻り始めている。

 下手人に正面切っての勝ち目があるとすれば今の内しかないだろう。


「明様、どうなんですぅ?」

「十中八九乗るだろう。理性よりも男としての矜持が上回るはずだ」


 そもあそこまで狂っている時点で理性にあまり期待できない。

 それでも念には念を入れて男としての尊厳を攻撃してやった。

 惚れた女の前で恥をかかされたという事実。奴は決して私を許しはしないだろう。


「ともあれこれで決着への道筋はついたわけですが」

「縁様、あの下手人に心当たりはおありですかぁ?」


 一応、そこは聞いておかねばな。

 私と灯の視線を受けた縁殿はうーんうーんと必死に頭を悩ませ始めた。


「申し訳ありません。皆目見当が」

「いえ御気になさらず。予想はついていたことですしね」

「モテねえ男がちょっと優しくされて自分を好きだと勘違いしたような感じでしたしねぇあの人」


 おま……いやまあ、実際その通りなんだけど手心というものをだな。


「ところで明様。主導権を渡した以上、あちらも存分に備えて来るでしょうけど大丈夫なんですぅ?」

「問題ない」


 新月の晩、相手の指定した場所で。

 罠を張らない方がおかしいだろう。当然、それぐらいは私も分かっているさ。

 私を討つために張り巡らされた十重二十重の策、


「――――すべて真正面から斬り伏せてみせよう」

「明様……」


 両手を胸に当て私を見上げる縁殿はどこかぽやーっとしていた。

 おっとと、カッコイイところを見せてしまったかな? フフフ。


「縁様縁様。冷静になってお考えください。ここしばらくずっと明様の戦いを見ていたでしょう?」

「灯様?」

「真正面から斬り伏せよう、ではなくそれしかできないんですよこの御方」


 お前、折角キメたのに余計なこと言うなや……。

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