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 久方ぶりに吸う外の空気は未だ軋みを上げる身体を忘れてしまうほどに心地いい。

 澄み渡った青い空と翳り一つ見えず恵みを注ぐ太陽。

 そこにすれ違う洛中の人々の笑顔も加われば弾む気持ちは最早、止められない。


「橋の欄干にでも腰掛け気の済むまで人々を眺めていたいが」


 そうもいかぬ。やらねばらぬことがあるのだ。

 後ろ髪を引かれながらも私、はなぶさ あきらは歩を早める。

 目的地への距離が縮めば縮むほどに陰の気が色濃くなっていく。

 さもありなん。鬼門とはそういうものなのだから。

 ここに屋敷があるお陰で外で生まれた退魔師や陰陽師が総掛かりで対応しなければいけないような強い怪異の侵入が阻めているのだが……。


「毎度思うがよくもまあこんなところで暮らせるものだ」


 一番陰気が濃い場所に佇む華美な屋敷の前で立ち止まる。ここが目的地だ。

 懐から手鏡を取り出し身嗜みを整える。病み上がりゆえ些か顔色は悪いがその他は問題なし。

 一つ頷き家人に声をかけようとしたところで固く閉ざされていた門が勝手に開いた。


「お見通しか。さもありなん」


 特に気配を消しているわけでもなし。私の気などとっくのとうに察知していたのだろう。

 一言断りを入れて中に入る。


「む」


 廊下を歩いていると甘ったるい花の香りが鼻を擽った。

 職業柄、感覚は鋭敏でだからこそ気付いてしまう。


「……やれやれ」


 花の香りに混ざる性臭。

 この屋敷の主人は基本的には愉快な友人なのだが酒色に耽り過ぎるきらいがあった。

 まだ日も高い内から何人抱いたのか、抱かれたのか。

 浮世離れした美貌でどちらにも事欠かないのがまた性質が悪い。


「調子のほどは二割強、といったところかな?」


 門扉と同じように勝手に開かれた障子の向こう。

 白髪を首の半ばで切り揃えた女が挨拶も抜きにそう語り掛けてきた。金色の瞳はひどく愉快そうだ。

 この屋敷の主人にして同窓の友、安倍清明である。

 そして今の私にとっては“ちょっとした感動”を齎す存在でもある。


「分かるのか?」

「分かるとも。そなたは感情だけでなく体調も分かり易い男だからな」


 退魔師の端くれとして敵に弱みを悟らせないような技術も身に着けてある。

 そしてそれは考えずとも自然にやれてしまう程度には馴染んでいるつもりだったが流石の慧眼だ。


「おいおい、さも私が優れているかのような頷きは止めてくれ。言っただろ? そなたは分かり易いと」

「君からすればそれはそうだろう」

「いや私でなくともだ。少し付き合いがあれば分かるとも。例えばその眉」


 眉?


「溌剌としている時は色濃くしゃっきりしているが今は薄くしんなりしている」


 言われて思わず手を当てるがよくよく考えれば普段から自分の眉など気にしたことはないことに気付く。

 他愛もない嘘かもしれないし本当なのかもしれない。まあどちらでも構わない。

 今後検証して真実であれば改善をしていく。これはそれだけの話だ。

 今はそれよりも優先すべきことがある。


「私の治療のために骨を折ってもらったと聞く。礼が遅れてしまった。改めて感謝をば」


 ありがとうと床に手をつき頭を下げると清明はコロコロと笑った。


「私が手を加えずともそなたの陽の気であれば意識が戻れば自力で治癒が叶っておったろうよ」


 意識がないのを良いことに恩を押し売ったのだと清明は言う。


「だとしてもだ。君は私のために腰を上げてくれた。その事実にこそ喜びを覚えたから私は感謝の念を抱いたのだよ」

「それは自己満足ではないかね?」

「そうでもある」

「相も変わらず素直が過ぎるな。明が小悪党に騙され金を巻き上げられぬか友として私は心配でならんよ」


 礼は受け取った。ということだろう。

 私が持参した市中で流行りの菓子が清明の手元に飛んでいった。


「しかしそなたほどの男がああもやられるとは……神仏の類かね?」


 怪異ならば私を見逃す理由はない。

 私は生きている。しかし瀕死ではあった。異変に気付いた部下たちが駆けつけてくれねば死んでいただろう。

 その点から清明は神仏の仕業であると予想したのだ。

 何らかのルールに抵触しかけた結果、神罰を受けたのだろうと。

 私もそう思うが……。


「恐らくは、だが」


 断言はできない。


「恐らくは?」

「姿形もその気質も覚えておらんのだ」


 よくあることだ。死にかければ記憶の一つや二つは飛ぼうというもの。


「記憶にあるのは二つだけ」


 一つはその存在感。圧倒的……だったように思う。

 もう一つは言葉。


「言葉?」

「『此れよりさき、進む可からず』」


 男か女か。人外のものなので性別があるかも分からないが厳かにそう告げられた。


「境界か」

「境界だ」


 恐らく何かしら線が引かれていたのだと思う。

 それを越えかけたが寸でのところで越えなかった。だから私は生きているのだろう。

 境界を気にするのは人も怪異も同じだが我々はどちらかと言えば境界を侵す者という側面の方が強い。

 線を引きそこを厳かに守ろうとする顔が強いのは神仏の類だ。

 実際はどうだか分からないが先にも述べたように私は生きているからな。神仏の類である可能性が濃厚だ。


「まあそなたが死なず私もホッとしたよ。お喋りをする相手がいなくなるのはつまらんからなあ」

「おおそうだ。お喋りで思い出した。土産はもう一つあるんだ清明」

「ほう?」


 少しばかり声が弾んでいるように思う。どうやら私の様子に興味をそそられたようだ。


「魂は巡るもの。これに相違はないな?」


 私は陽の気しか扱えない。だから魔の討伐を専門とする退魔師にしかなれなかった。

 だが陰陽兼ね備え戦う以外の術にも長けている清明は違う。知識実力共に私とは比べものにならない。

 そんな彼女だから並大抵のことでは驚かないが……ふふ、今回はどうだろうな。


「そうだな。その自覚はないが皆、どこかで生きてどこかで死にまた生まれておる」


 記憶は持ち越せない。生まれ変わりとはそういうもの。

 だが陰陽の真髄に至れば或いは。

 清明は自分が死んだら記憶を持ち越せないか試してみると言っていた。


「では生まれ変わるのは必ずしも未来なのだろうか?」

「ふむ?」


 すっ、と清明が目を細めた。

 生い立ちゆえか。目を細めると本当に狐っぽくなるな。愛嬌がある。


「つまりはこういうことか。そなたはいつかの未来で死に過去に生まれ変わったと」


 頭の良さゆえ私が言いたいこともあっさり察してしまう。

 人によっては言葉を遮られたようで不快になるやもしれないが私は清明のこういうところが好きだ。

 そしてこんな話を与太であると切り捨てずにいてくれるところも。


「ああ。生死の境を彷徨う中で千年以上先の未来で平凡な生を歩んでいた己の記憶を思い出したのだ」


 ただ死にかけたから、ではないだろう。

 神仏の手でというのが多分、大きなポイントだったのだと思う。

 罰は反省を促すもの。省みるとは己の行い――つまりは過去を振り返ること。

 神罰を受けることで強制的に己を顧みた結果、行き過ぎて前世まで振りかえっっちゃったのではなかろうか。


「ほーう? にしては私の見る限りそなたの人格に変遷は見えぬが」

「どうやら私はどこで生きていても私だったらしい」


 生活水準の差による趣味趣向は多少、異なっている。時代に合わせた倫理などもな。

 だが根っこの部分では今の私も何時かの私も同じであるという確信がある。

 だからこそ惑うことなく自然に転生を受け入れられたのだろう。


「さもありなん。そなたは筋金入りの頑固者だものなあ」


 鈴を鳴らしたように耳に故心地いい笑い声が響く。


「時の流れは川のそれに例えられる……が、あくまでそれは人の主観。

世を支配する根源的な理を人の尺度で測ろうというのがそもそも烏滸がましい。

であれば――ふむ。そういうこともあり得るのかもな。いやはや、死後の楽しみが増えたな」


 記憶を保持したまま過去に生まれ変わり世を揺るがす大事に介入すればどうなるのか。

 未来が変わるのか。枝分かれするのか。実に興味深いと清明は言う。


「私は枝分かれするのではないかと思う」

「何故かね?」

「安倍晴明の名は千年先の世でも大陰陽師として語り継がれていてな」

「ロクでなしとして語られておらぬようでほっとしたが……で?」

「その清明はな。男なんだ」


 性別が正しく伝わっていなかった可能性もなくはない。

 時代ゆえ女の身では、とかでな。

 しかしこの清明は己を偽ってはいないし堂々たる女傑は他にもそれなりに居る。


「他にも言語、技術、大小問わず未来の知識で考えると首を傾げることも多い」


 例えば慣用句。定番という言葉は誰でも一度ぐらいは使ったことがあると思う。

 これは、流行や情勢関係なく一定の売上を見込める商品の品番が一定なことに由来する慣用句だ。

 なので当然、この時代にはないはずだが普通に使われていたりする。

 例えば技術。陰陽術や気などというものがこの世界では明確に存在する。

 例えば歴史。大きな事件があったりなかったり。

 だからここは私が生きていた未来と直接繋がる過去ではないのだろう。

 だが完全に無関係というわけでもないと思う。

 我々は過去現在未来を一方通行と考えているが実はそうではないかもしれない。

 今こうして喋っている間にも遠い昔で新たな分岐が生まれていたりするのではなかろうか。


「まあ、何となくそう思う程度で根拠はないのだが」

「構わんさ。ただの雑談で学者のように筋道立てて語る必要はないのだから」


 それより、と清明は愉快そうに喉を鳴らす。


「そなたの知る安倍晴明について聞かせてくれ」

「そうだな。先ほども申したが大陰陽師として語られていてな」


 それは目の前に居る清明もそうだが……何と説明したものか。


「私がかつて生きていた時代は怪異などは空想の存在だったのだ」


 実際はどうだか知らないが少なくとも常識はそうだった。


「ゆえにそのようなものが登場する物語が人気でな。

その中で日ノ本を舞台にそこに住まう怪異を題材にした話を伝奇ものと言う。

伝奇ものにおいて安倍晴明と言えば敵でも味方でも大概は良い役どころだった。

飄々と浮世離れした美男子で摩訶不思議な術を操り大胆不敵に立ち回るというのが多い印象だな」


 つらつらとお約束の清明像を挙げていくと目に見えて我が友清明の機嫌が良くなっていった。


「私に夢を見ていたわけか。こんな風で在ったならばと」

「ああ。伝わっている逸話などから安倍晴明という偶像を膨らませた結果そうなったのだろう」

「そなたもか?」

「まあそうだな。安倍晴明が主役を張る物語の一つを好んでいた記憶はある」


 だから少しばかり目の前の清明に感動を覚えてもいる。

 私がそう告げると、


「そうかそうか。幻滅させずに済んで何よりだ。何せ私は真昼間から酒色に耽るような愚か者ゆえな」

「うん、そこは素直にどうかとは思っているとも」

「む」

「だがそれ以上に私はこの癖の強い友の美点を知っているからな」


 捻くれ者で性格も決して良いとは言えない。

 だが情理を解さないわけでもない。胸打たれればどれだけ不利益を被ろうとも誰かの力になることだってある。


「フフフ。そこで高い能力などではなく内面を評価するのはそなたらし」

「とは言えだ。先にも述べたが酒色に溺れ過ぎるのはどうかと思うぞ」


 そういう欲は否定しない。私にだってある。

 記憶を取り戻す前からそういう文化にイマイチ乗り切れず夜這いなどはしていないが一人で処理はしているからな。


「まあまあそう仰らずに」


 私の小言を遮るように障子が開かれた。

 狐耳の十二、三歳ほどの少女。清明の式神である(あかり)だ。


「確かに清明様は女狐です。それもただの女狐じゃありませんよぅ。ドエライ女狐。略してド狐様です。倫理の緩さでもう一丁! ってな具合ですとも」


 ド狐て。


「が、清明様とて多少は改善しておられるのです」

「改善?」

「ええはい。ご存じないでしょうが清明様はもう随分と女性しか抱いておられないのですよぅ?」

「そうなのか?」


 清明はぷい、と顔を反らした。


「より正確に言うとどっちであっても清明様は抱くが……あ、お茶どうぞ」

「ありがとう。改善したと言うが何か心境の変化があったのか?」

「明様のお陰ですよぅ」

「私の?」

「はい。明様が清明様になされた愛のあるお説教のお陰ですかねぇ」

「なるほど」


 どれだ?

 時々、苦言は呈していたが特別心を打つようなことは……。

 いや私なりに清明のためを思って言ってはいたが私は弁が立つ方ではないしな。

 清明の態度も特に変化はなかったし。


「護国院時代に――――」

「灯」


 べちゃ! っと灯が床に叩き付けられた。

 重力を操る術だろう。相も変わらず見事なものだ。

 この手の術は広範囲まとめてというのが常識で特定個人にというのは尋常ではない技量を要求される。

 都の陰陽師でこのようなことできるのは片手の指で数えるほどだろう。


「はいはい。んもう、私なりに清明様のことを想ってのことですのにぃ」


 変な方向に身体がねじ曲がっているが灯はけろっとしている。

 清明が手ずから作り上げた式神だからな。その性能は段違いだ。

 余人には恐ろしいこの光景も灯からすれば子供が親に尻を叩かれているのと変わらないのだろう。


「つまり何が言いたいかというとですね。良いですか明様?

まったく懲りない悪びれないように見えて清明様は清明様で考えておられるのですよ。

聞き流している風を装っていますが明様の誠実なお言葉の数々を決して無碍にしているわけではないのです」


 ああなるほど。


「君は本当に主思いの式だな」


 本人なりに反省しているのにしつこくガミガミ言われていれば一言物申したくもなる。

 表に出さない清明にもまあ、非はあるだろう。

 だが友と言いながらそれを察しようともしない私の方が印象は悪かろう。


「清明、すまなかった」

「……頭を下げるな。そなたにそのようなことは望んでおらん」

「悪いことをすれば謝る。それは当たり前のことだろう」

「ああもう分かった分かった。謝罪は受け取ったからさっさと頭を上げろ。居心地が悪い」


 そんな私たちのやり取りを見て灯は満足げに頷いていた。

 しかし一つ疑問があるのだが、


「時に灯。私が説教をしたというのは護国院時代のことらしいがまだ君は生まれていなかっただろう?」


 何故知っている。


「明様は仏像の蒐集を趣味にしておられますよね?」

「ああ」


 多分これは前世の影響だと思う。ジャンル問わずフィギュア集めが好きだったからな。

 だから無意識のうちにこの時代のフィギュア的存在である仏像集めにハマってしまったのだ。

 給金の関係で有名な仏師のものは買えず無名のものばかりだがこれが中々。

 歴史に名が残らずとも胸打つ作品というのは確かに存在しているのだ。


「であれば分かるでしょう? 喜びや悲しみ。心血注いで作られた物には作り手の心が宿る」

「うむ。しかしそれが?」

「だから私を作りながらニマニマしてた清明様の幸福なきお――――」


 瞬間、衝撃が私の身体を叩き外へと放り出された。

 痛みはない。ただ吹き飛ばすだけのもの。

 突然のことに目を白黒させつつ中空でくるりと体勢を整え庭に着地する。


「おぉう」


 彼の有名なポーズのまま頭から池に突っ込んだ灯を見て思わず仰け反ってしまう。

 一体何が清明の癪に障ったのか……。


「つくづく難しい女だなあ」


 まあしかしそういうところも愛嬌よな。

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