【外伝】龍と宝石と毒12
「……姐さん。起きてくださいよぉ」
「んん……」
暗闇の中、困ったようなノアの声がして、自分をゆり起こそうとしているのがわかった。
生憎、アーティアはもうしばらく眠っていたかった。数日ぶりの睡眠によって、枯渇した心の力がじわじわと泉湧くかのように体の奥底から回復していくのが心地よいのだ。
「マジ……マジでこのままだと俺、ヤバいっす。助けてほしいっす……」
「うるさいわねえ……」
主人にかまってほしい犬のような声がした。
眠気を少しだけ追いやって薄目を開けると、何か大きなものに下半身を飲み込まれている姿が飛び込んできた。
「ちょっとノア! 大丈夫!?」
さすがに慌てて飛び起きる。すると、流氷が浮かぶ海に生息するというペンギンのような生物がノアにかぶりついているところが見えた。ただしその大きさはアーティアが伝え聞いたペンギンとは桁違いだ。
「目が覚めたらもうこんな状況だったっす…… 噛まれたり溶かされたりはしてないんすけど、ずっと体中をしゃぶり続けられて気持ち悪さ限界っす……」
その生物はもぐもぐと口を動かしてはいるが、ノアを食べようとしているわけではなさそうだ。そもそもノアは毒の鎧を身に着けている。そんなノアを丸呑みにしようとする生物などいるはずもない。
「あなた――どれくらいそうされているの?」
「目が覚めてから半刻くらいは余裕っす。ものすごい力で抜け出せないし、なんかこいつの目がかわいいから殴ったりするのも可哀想なんすよね……」
「毒の鎧ごと食べられてよかったわね」
「よくないっす……マジよくないっす……ゴフッ!!」
唐突にノアがぺっと吐き出された。
巨大なペンギンは身悶えして地面に肌をこすりつけると、ざわざわと肌から虹色の鱗とたてがみが伸びだしてきた。その姿はまさしく――
「――龍の幼体だったの」
寸胴で短い嘴を持ち、ヒレのような手足の生き物はまだ翼もなく、龍というよりはまだペンギンに近い姿だった。
だが、その大きさと煌めく鱗はまさしく龍のそれだ。
光を浴びて輝く鱗はまさしく宝石のようだった。
「龍にしては変わった見た目だけど、宝石龍で間違いなさそうね」
アーティアは呟いて自分の手首のバングルを確認した。
毒を吸い取るごとに色が黒ずむこのバングルは、磨きたての鏡のように銀色だった。
この一帯から毒が消えた証といっていい。
「やっぱり宝石龍が周囲の毒を浄化していたのね――ノア。その鎧、そんな色だったかしら?」
ねとねとの唾液を拭いながら立ち上がったノア。身につけた毒の鎧は本来の紫色ではなく、灰色に近い白になっていた。
「えっ。し、白い! 白くなってるっすよ!?」
「なるほどね。《復活/リザレクション》で肉体を復活させて《輪廻転生/リーインカーネイション》で無理矢理魂を定着させたのは成功したけど、《輪廻転生/リーインカーネイション》は本来生まれ変わりの奇蹟」
納得がいったという顔でアーティアが頷いた。
「幼生体にまで戻った宝石龍が本能で毒の鎧の毒を吸収して、一気に成長したのね」
「冷静に解説しないでください!! この鎧、ハム師匠から借りたものっすよ!? このままもとに戻らなかったら――」
「――コレクションをどうにかされたハムは怖いわよ」
「弁護! いっしょに事情を話して弁護してくれなきゃイヤですよ!!」
毒が抜けきった毒の鎧に騒ぐノアを尻目に、浄化されゆく水源と宝石龍を満足気に眺めた。
「これでリストールの街も毒の影響が消えて、また栄え始めるわ。依頼も果たして銀龍カトラと国王レオンにたっぷり恩も売れた。栄枯転変を使ったのは痛い出費だったけど、コランティーヌのサファイアがあるからトントンってところね」
「毒の鎧弁償ってなったら一生働いても返せる自信ないっすけど……」
ノアがため息をつくと、傍らでのっぺりと身体を干していた宝石龍がぶるっと身を震わせた。
宝石龍額が盛り上がり、ひび割れていく。
太陽の光が当たり、ひび割れた皮の下から拳大の輝く何かがせり上がる。
傷ひとつない紫色の結晶がぽろりとこぼれ落ち、ノアは反射的にそれを落とすまいと手で受けた。
紫水晶とは明らかに違う力強い輝きにアーティアは目を丸くする。
「この色……毒の鎧と同じ色っすね」
「何よそれ……!? 宝石川のサファイアと似ているけどもっと輝きが強いわ」
宝石を見ようとしたとき宝石龍は 二足歩行で器用に池のふちまで歩いていくと、鬣 と鱗を煌めかせ、とぷんと池に飛び込んで消えていった。
「宝石龍は毒を吸収するだけじゃなくて、それを結晶化させるのね……」
ノアの手のひらで輝く結晶に手を伸ばすと、サッと後ろ手に隠された。
「……何のつもりよ」
「この宝石、自分が幼龍に飲まれながらもキャッチしたんすよ?」
「………………」
「………………」
満面の笑みを浮かべたノアに、アーティアは大きく息を吐き出した。
「わかったわよ。毒の鎧のことはわたしからハムに話してあげるから」
「約束っすよ! 大司祭がウソついたらダメっすからね!?」
「商業神とわたしの名にかけて誓うわ! だからその石を見せて!!」
当人に知るよしもないことだが、アーティアに自身の名と神の名にかけて誓わせたのは、後にも先にもノアだけであった。
ノアが差し出した紫色の宝石を愛おしく手で包むと、それを太陽の光にすかして恍惚の表情で眺める。
「……ああ。なんて純粋な結晶。原石のままだっていうのに罅 のひとつ、内包物のひとつもない完全なフローレス。磨いたらいったいどれだけの値がつくかわからない。コランティーヌのサファイアよりも大きくて、しかも滅多に見ない紫色の石。十年かけてでも最高のカットを施さなきゃ」
「それ、高いんすか?」
「イエスでありノーよ」
値段の付けようのないものはいくらでもある。金では決して手に入れることができないものがどうしても欲しくなったとき。暴力や権力が貨幣と同義になる。商業の神を奉じるアーティアにとってそれは耐え難いことだ。
「宝石龍が大きくなるまで、わたしが面倒を見ろってことなのかしらね」
この旅の前に銀龍カトラにいわれたことを思い出した。
(古代龍はつるむのが嫌いなのである。財宝の管理問題とか考えただけでも面倒だし、わたしの宝に手を出したら誰であろうとチリも残さず焼き尽くしてやるのである)
「カトラ様もいってたっすね。財宝問題めんどいって」
「目の前に大好物が転がり込んできたら、我慢できないって感じね」
龍の財宝蒐集は病膏肓だ。カトラは宝石龍の特性を知っていたに違いない。見れば抑えが利かなくなり、最悪宝石龍そのものを魔法や呪いで縛り付けかねないと自覚していたのだろうと推察した。
「その点、姐さんはお宝にもある程度理性的だから、龍に一目置かれてたんだと思うっすよ。一方的な取引はしないから龍も安心みたいな?」
「あなたもね」
「あざっす。自分、足りてるなーって思ったものはそれ以上興味なくなるんすよね」
得難い資質だ。だが冒険者には向いていないかもしれない。
アーティアはそんな所感を抱いたが、冒険者として育てたいと思ってしまった自分に苦笑した。
「そこ、笑うところじゃないっす」
「そうね――やることは山詰みだから早く帰りましょう。王様にかけあって宝石川上流一体の保全をしてもらわなきゃだし、宝石龍もまだ子供だから強力な冒険者にちょっかいを出されないようにしなきゃだし、毒ガスの解決をうまく商人たちに流してリストールの経済も……」
(せっかく仕事がほどよく手を離れたと思ったのに。でも、面白くなってきたわ)
失われたザンジバル王の剣を見出したのはハムだが、その場を目撃したのはこの若者だ。 そして今回の宝石龍の件もノアが大きく関わっている。
(ただのお供というだけではない、何か運命的なものを感じるわ。商業神の、いえ。神々の託宣を受けた騎士の――それは美化しすぎだけど、歴史的に見ても大きな出来事を前にしてこれだけ考え、動けているのは見逃せないわ)
かつて自分が所属した流れ星という冒険者パーティ。そして今はその弟子たちといっていい若者たちが、北極星という名で各地を渡り歩いている。
それらは控えめにいっても国の命運を左右する物事に関わってきた。ここ数年はようやく落ち着いてきたと思っていたが、時代がまた動こうとしているのかもしれない。であるならば、わたしはどう動くべきか――
「姐さん、どうしたんすか? 急に考え込んじゃって」
「――ああ。ええ、何でもないわ」
「帰り道は毒の心配ないっすけど、長いんですから早く動きましょ」
大きな流れが来ればそれを出来うる限り御して、多くの人々の助けになるよう動くまで。その起点。起こりを見逃さないようにするのが自分の役割だ。
「大丈夫。帰りは一瞬よ」
「どういうことっすか?」
「最高位の神官だけが使える魔法は、《復活/リザレクション》だけじゃないってこと」
宗派にもよるが、神官が使える最高位の魔法は五つ。
死者を復活させる《復活/リザレクション》。
死者となった亡者の魂を回復する《救済/サルヴェイション》。
魂を他の肉体に転生させる《輪廻転生/リーインカーネイション》。
その身に神を降ろして一時的に万能の力を得る《神依代/コールゴッド》。
どれも魔法というより奇跡という言葉がふさわしい魔法だ。
「最後の最後はこの魔法を使う余裕も絞り切ったから、本当にギリギリだったわ」
冒険者時代はこの魔法にパーティ全員の命が救われたこともある。
だが、追い詰められたときにこの魔法を使うことは、冒険の失敗を意味した。
「奥の手ってやつっすね。自分、後ろを向いていたほうがいいとかあります?」
「いいのよ。滅多に見られない、というかたいていこの魔法を使うときって冒険者の仕事は大失敗のときだから、よく見ておきなさい。珍しいんだから」
空を仰いでアーティアはウォルスタにある商業神殿の自室を思い浮かべた。
ウォルスタという街を作り、神殿を立ててからは毎日を過ごしたわが家。
部屋はそれほど広くはないが、中庭に面した大きな窓があり、午後のお茶の時間を外の木を眺めながら過ごすのが好きだ。
実は外から中庭に通じる抜け穴があり――といっても猫一匹が通れるほどのもので、夏は街の猫たちがその木の下で涼んでいたりする。冬は図々しくアーティアの部屋の窓を叩き、中に入れろといわんばかりのふてぶてしい猫もいる。小さな暖炉の前に猫たちが座る用のラグはいつも抜け毛だらけで、掃除のたびに悩ましい。
質実剛健なだけのベッドに清潔だけが自慢の白い寝具。かつてこのベッドの上で一度死んだことがある。そのときは仲間のメテオが不思議な力で生き返らせてくれた。このまま年老いて神の身元に旅立つときまで、このベッドには頑張ってもらおうと思っている。
自分が帰る場所はウォルスタの神殿にあるここだ。
慣れ親しんだわが家の風景に自分と。短い間ではあったが信頼を寄せ、背中を預けるに足るノアの姿を思い浮かべた。
「暖かい光っすね……実家の窓から入ってくる朝日みたいに眩しくて暖かっす」
アーティアの魔力が生み出した光がふたりを包む。
「ノア」
「はい」
「今回の旅はよくがんばってくれた。ハムも部下に恵まれたわね」
「へへ、そういっていただけると嬉しいっね」
過剰に遠慮せず、他人からの称賛を素直に受けるのも得難い人柄だ。
アーティアは普段、あまり人に見せない微笑みをノアに向けて呼びかけた。
「家に帰りましょう」
最高位神官が使える奇跡の魔法、《帰還/リターン》。
光が消えると、そこはさきほど思い描いたままのアーティアの自室だった。