【外伝】龍と宝石と毒9
ノアの放った矢は黒変した龍の眼窩へと吸い込まれ、平屋ほどもある頭蓋の中からくぐもった爆発音が響いてきた。
「ちょっと! 完全に壊したら《救済/サルヴェイション》が通じなくなるわ!! 甘く撃ちなさいよ!!」
「そういうの先にいってほしいっす!!」
弓を手放し右手で剣の柄を握り、逆手に抜いた鉈剣を、左手小指に嵌めた指輪に触れて念を込め呟く。
「――《魔力付与/エンチャントウエポン》」
ウォルスタ自警団のリーダー格に支給される魔法の品のひとつ。武器に弱い魔力を纏わせる力を持っている。
「姐さん。確認っすけど、倒しちゃマズいんすよね? 絶対倒せないっすけど!!」
「わたしが魔法を使う前に活動停止させなければ平気――準備に入るからあとは頼むわよ」
腰に吊るしたメイスを構えはするものの、アーティアは魔法の成功率を高めるために精神を集中させる。
まずは《救済/サルヴェイション》を成功させなくては先がない。
三日間、仮眠だけで歩き続けたアーティアの精神力は、予定している魔法をなんとか賄えるほどしか残っていない。その中でできる限りの力をこの一撃に掛けるつもりだ。
毒が満ちたこの周辺環境のせいで腐りはしないものの、龍の身体は黒ずみ、ぶよぶよした何かと化している。
それが一歩一歩池の中を進み、ノアたちに近づいてくる。
焦げて煙を上げている眼窩の反対。左目には目が残っているようだが、そこには意思のない濁った何かがノアたちに向いているだけだった。
「案外トロいっすね。これなら――」
ノアがふいに緊張を緩めた一瞬。
指人形のような身体から龍の右翼が持ち上がり、開いた翼がまるで頭上を覆い尽くす落盤のように落ちてきた。
(――避けられない)
緊張を解かなければ刹那の間で、広がった翼の範囲外に逃げることもできたかもしれない。
相手が朽ちたアンデッドであること。予想よりも歩みが遅かったこと。それを油断として龍が突いてきた。
意思がなくとも、滅していてもノアが退治しているのは古代龍だ。
頭上を覆い、太陽の光すら完全に遮る翼が落ちてくるのがひどく遅い。
朽ちているとはいえ、たっぷりと水を含んだ丈夫な龍の翼は、下手せずともノアを一撃で熟した果実のように潰してしまうだろう。
ノアが選んだのは剣を頭上に構えての受けの構え。
落ちてくる岩盤を受け止めることなどできはしないだろう。
だが、ノアの剣と剣術は失われたザンジバル国の、力強い剣技だった。
濡れた雑巾を叩きつけた音を、百倍にしたような音がした。
アーティアは翼の射程範囲外でその様子をしかと目にしていた。
ノアがただ翼を受けたのではなく、左手で切っ先近くをしっかりと押さえ、右手の鉈剣をここ以外ない、というタイミングと位置で切り付けたのを。
龍の翼を切り裂き、面の攻撃をすり抜けたノアは次こそ油断なく翼の追撃を受けない位置へと移動する。
軽口はない。アーティアのいる位置も把握し、まずは自分へと攻撃が向くように誘導を考えたうえでの位置取りができていた。
擦り傷や打ち身などはあるだろうが、骨折などの致命的な怪我を負っていないのをちらりと確認すると、アーティアはじりじりと間合いを外しながら集中を続ける。
この集中を続けている限り回復魔法を飛ばすこともできないし、会話すらままならない。
(完全に油断してたわね……でも、気負わずに修正してきている。いけそう――)
内心でそう思うのが精一杯だった。
ノアはというと、岸辺に上がろうとしている龍の前へと慎重に進んでいた。
今ので翼を使った面での打ち下ろし攻撃の対処がわかったのだ。
翼の骨が通っている部位を避け、被膜のところであれば自分の剣技で切り抜けられる。あれだけの重量の翼を支える骨に剣が当たってしまうと、そのまま押しつぶされるだろう。だが、水の中で朽ちた龍の皮は切って切れないことはない。
ノアは静かに呼吸を整えながらそう見切った。
前に出たのは水辺に足や尻尾が残っているほうが、動きを制限できるだろうと判断しての詰めだ。水際で戦うことで、水の抵抗を龍に与えながら相手どることができる。
龍を相手にその判断を思いつき、実行に移せるものも珍しいだろう。
この場にハムがいれば感嘆のため息すら漏らしたかもしれない。
ザンジバル流の剣技を見につけたノアは、以前にも増して自分の戦い方を理解するようになった。
強い敵にこそ前に出て、剣にすべての力を乗せて打つ。
結果的にそれが攻撃にも防御にもなるのだと。
先の翼の攻撃を文字通り切り抜けたことが確信に繋がった。
(面白いっすね。あそこで油断してなきゃもっと消極的に戦ったかも。そう考えるとあの油断が生きてくるっす)
前向きで折れないノアの心と剣技。
がっちりと噛み合わさった感覚だった。
龍の身体がぐらりと傾いだ。
一瞬おくれて龍の後方から丸太のような何かがノアを叩き潰そうと現れた。
それは龍の尻尾だった。
何が来るかはよくわかっていなかったが、ノアはものすごい速さで叩きつけられるものに突進し、身を沈めながらそれをかいくぐった。
今度の剣は叩きつけるのではなく、尾を滑らせるように。雪の上を滑るソリのように、受けの衝撃を逃がすように鉈剣を操った。
結果、龍の尾には切れ込みが入り、自らの遠心力で尾の先が切れて飛んでいき、大きな音をたてて崖下に落ちていった。
ノアは冷静に動けていた。
初手に遅れを取った龍の翼撃が幸いして、鉈剣の正しい使い方を発揮できるようになっていた。
ザンジバル流剣技の真髄は接近戦だ。相手の攻撃に対しても避けることなく飛び込んでいき、剣の峰に肘打ちを叩き込むようにして身体が生み出すことができる打撃力を浴びせかける。
もし、あの翼撃を避けてしまっていたら鉈剣のよさを発揮できずに蹂躙されていたかもしれない。
どだい人間の体格で、大木が落ちてくるような龍の一撃を受けきることは難しい。
できるだけ飛び込んでいき、相手の打撃力が最高の状態で発揮される前に切り抜ける。
(それができれば、生き残れるかもしれないっす)
龍にしては奇妙な、腐れ落ちて指人形のようになった巨体の突進に真正面から向かっていくと、すんでで横に跳び、鉈剣で龍の身体を突き刺すと背中に飛び乗った。あまりの負荷に、剣を握る手が痺れてきた。
(衝撃が打ち消せないっすね……ていうか)
滅茶苦茶に暴れられる気配を感じ、龍の背中に鉈剣を突き立てるとノアは叫んだ。
「ていうか! これで三回攻撃耐えたっすよ!? これ以上はマジで死んじゃうっすー!!」
「ゴガァァァァァァ!!」
背中に貼りいたノアを振り落とそうとして龍は暴れまわる。
死蝋化した肉体が飛び散り、鱗がはがれて鋭利な刃物となって周囲を切り裂き、破れ傘のようになった翼は風を切りながら恐ろしい音を立てて唸りを上げた。
「――ムリっす! マジでもうムリっす!! 死ぬ、死にます!!」
なかなか背中のノアが取れない龍は、ふたたび池に戻って背中を洗おうとしたのか。ぐるりと反転をしたところ。
池のほとりに、メテオより譲り受けた錫杖――『栄枯転変』を握ったアーティアが行く手を阻んでいた。
突進してくる龍に怯むことなく錫杖を振り上げると、アーティアも突進して龍の顔面にそれを叩き込んだ。
「《救済/サルヴェイション》!!」
『栄枯転変』のインパクトの瞬間。アーティアの魔法が発動した。
振り落とされないよう龍の背中にしがみついていたノアは、インパクトの瞬間を見ることができなかった。
だが、魔法を発動する声と同時に、大量の硬貨が高いところからこぼれ落ちるような、奇妙な音を耳にしたのだった。