018_四戦目
レイフェスの鋭い剣勢によってイルグリムが切り刻まれていくのを、マリアは観客席からは見えない花道の奥から凝視していた。
言いつけどおり、師の動きの一挙手一投足を脳内に焼き付けるためだ。
マリアにもこの戦いの趨勢は見通せていた。
レイフェスが与えたいくつかの傷は、致命傷とまではいかないものの、すでにイルグリムの動きの大部分を封じていた。
多くの目には、これは一方的な虐殺に見えていることだろう。地下闘技場の観客にはそうした展開を好むものもいたが、多くは賭けの勝敗を気にしているものだ。早く勝負を決めろと、やじがレイフェスに向けられていた。
しかしマリアは、観客のやじごときでレイフェスの戦い方は変わりはしないとわかっていた。あの男は対戦相手に容赦をしない。自分の勝利のためであれば、どんな戦術ですらも厭いはしないと。
レイフェス、は自分にかなわないと思ったものにはためらわず白旗を上げる。地下闘技場のナンバー2として君臨しているのは、ナンバー1になることができないとわかっているから、その座に満足しているからだ。
つまり、レイフェスは勝利を確信している。相手のできることの一手一手を端から潰し、勝利するそのときまで手を緩めるつもりはない。
「見てるわよ……見ててやるわよ……!」
マリアージュは混沌神の神官とはいえ、この場に割って入るほど異常ではない。いや、この状況においても微動だにせず、師と仰ぐ人物が切り刻まれているのを眺めている時点で、正気とは言い難いかもしれない。
観客席からひときわ大きな歓声が湧いた――
「まだ、参ったといいませんか?」
「……それはお前さんに譲ってやるよ」
イルグリムの忍耐はレイフェスの予想を超えていた。
全身を切り刻まれ、もはや血に濡れていないところは背中くらいなものだろう。左足と右腕はとくにひどくやられており、もはや動くのかすら怪しいという具合だ。なおかつ左目は額からとめどなく流れる血で塞がり、大きな死角を生み出している。
それでも尽きせぬイルグリムの闘気は、冷酷なレイフェスすらも感銘を受けるほどだった。
「……何故。なにゆえにそこまでして、あなたは戦われるのですか?」
レイフェスの問いかけに反応する様子はないものの、老人はかろうじて聞き取れる声で囁く。
「もう一度王者になりたいからじゃよ」
「素手であればあるいは可能やもしれません。しかし、わたしには剣があります。よしんばわたしを倒したところで、今の王者にはとても敵わない」
「忠告いたみいるのぅ」
「これ以上は本当に死にますよ。マリアの回復魔法も死にゆくものには通じぬはずです」
「――マリア」
マリア。
その単語にイルグリムは朦朧とした意識をかき寄せた。
「じゃろうなあ」
背筋を伸ばし、顔を上げたイルグリムの様子は、子供のような屈託のない。邪気のない無垢な笑顔であった。
油断のないレイフェスが思わずはっとするくらいに。
だが、この老人の足は抜け目なく動いていた。
初めてマリアと立ち会ったときに、一瞬で間合いを詰めたとき。先の短槍使いリキエルのバックステップを凌駕したイルグリムの歩法の要足だ。
その気配にレイフェスが気づいた。レイピアをイルグリムの前に突き出す中段の構えを取る。しかし、そのときイルグリムの右手はレイピアの切っ先に迫っていた。
その状況を見極めたレイフェス。あくまで中段の構えを崩さず、自分と老人の間には腕一本分の間合いを遠ざける刀身をぶらさない。
イルグリムが刀身に触れるやいなや、レイフェスの精妙な剣が老人の手首を切り落とす。
「かァァァァァァァァッ!!」
右手首を切り飛ばされてなお、老人の動きは止まらない。止まろうにも地面を踏み切ったイルグリムの跳躍は、もはや止められるまで止まることはない。
もちろんレイフェスもそれは承知の上だ。このまま心の臓を穿てば勝利だろう。だが、それこそ老人の思惑なのだろう。何がなんでも致命傷を避け、自分を一撃で屠る技があるはず。
イルグリムの右手首を跳ね飛ばしたレイピアは動きを止めず、右手首と肘を内側にえぐりこむよう折りたたむと、柄をみずからのおとがいに引き寄せ、片手持ちから両手持ちへと瞬時に切り替えた。
(このまま右腕を跳ね飛ばし、その力を利用して間合いを開ける。そうすればこの老人にはもう戦う力はない。わたしの勝ちだ!!)
この試合で初となる、レイフェスの両手持ちによるレイピアの斬撃。地下闘技場では滅多に見せることのない、奥の手のひとつだった。
「ァァァァァァァァァッ!!」
「――な」
イルグリムは手首のない右手の先。骨で、レイフェスの両手によるレイピアの斬撃を殴りつけたのだった。
聞こえたのは、金属のへし折れる音。
もともと刺突が売りの、力任せの斬撃には向かないレイピアが、老人の右腕の骨を断ち割りきれずに破断した音だった。
「ヒィィィィッ!?」
鬼気迫るイルグリムの様子に気圧されたレイフェスは、レイピアの柄を手放した。もはや腕とは呼べない血に染まった何かに、折れた刀身が生えているかのようだった。
比較的無事な老人の左腕が、レイフェスの頬に優しく触れる。
「ヒッ、ひゃああ……イャああァァァァァッ!!」
血濡れたイルグリムの手にぬらりと頬を撫でられたレイフェスは、身も世もない絶叫をほとばしらせた。
レイフェスの叫びは地下闘技場に驚くほどよく響き渡った。
日々、肉が潰れ骨が折れ、血がバシャバシャと流れる音を聞き慣れた、惨劇の審美眼に越えた観客たちが、あまりのことに沈黙していたのだ。
「た、たすけ……まい、まいっ……」
腰を抜かして闘技場にへたり込み、どもる命乞いをするレイフェス。
そのレイフェスに覆いかぶさるようにイルグリム。
「ぎゃぁぁぁァァァァァッ!!」
ビシャッ。
ひび割れたバケツから水が漏れるように、イルグリムの身体からおびただしい血が流れていた。
「……あ。あああ! ああっはっはっは!?」
力の抜けきった老人の身体を振り払うと、レイフェスは狂ったように笑い声を響かせた。
「死んだのか! けっきょく死んだのか!? ジジイめ!! 脅かしやがって!!」
「し、勝者! レイフェス!!」
明らかな致命傷とわかるほどの怪我とおびただしい出血。いち早くこの惨劇から我に返った山高帽は、高らかにレイフェスの勝利を宣言した。
しかし、その声は歓声に迎えられることはなく、観客の目がレイフェスに注がれることはなかった。
「――イルグリム・グライストン。世に満ちる矛盾を受け入れ全うせし気高き魂よ。汝の魂は地上にありし時よりもいと高く、混沌の高みにまで届き主に抱かれるであろう」
朗々とした声が闘技場にいるすべての者の耳に染み入った。この節を聞いたものは少なく、意味を知るものはさらに少ないだろう。混沌神の司祭が認めた者に捧げる祈祷文。神は来世も混沌の祝福を与えたもうという、意味のものだ。
その声の主はもちろんマリアージュだった。
この闘技場では見せたことがない、そのまま夜会でも出られるような艶姿のマリアであった。
「混沌神に仕えるマリアージュ・ロスタンの名において」
すでに事切れた老人のそばに座ると、亡骸を抱え上げ血に染まった額に唇を触れ、混沌神の印を切った。
「師匠。最後まで見ていたわよ」
イルグリムの血に純白のブラウスを染めながらも、マリアは聖母のようにほほえむ。そして見開かれたイルグリムの目元に手のひらを落とすと、まぶたをそっと閉じた。
「マ、マリア――なのか?」
その様子に気圧されていたレイフェスだったが、その姿が着飾ったマリアだと知ると、妙に上がったテンションで話しかけた。
「見てたか!? マリア!! そのじじいの技にはびっくりしたが、けっきょくは無傷で圧勝したぞ! ハハハハハ!! 少しばかり珍しい技を使うから転んでしまったけどね!! アハハハハハハハハハ……は? どこへいくんだ。俺を祝福にきたんじゃないのか!?」
すんでのところで命を拾った。ということがレイフェスもどこかで感じとっていたのだろう。生還したことによる幸運が、彼のテンションをおかしくしていた。
それでもマリアは聖母のごとき笑みを崩さず、ブラウスを脱いで上半身が胸晒しのみの姿になると、イルグリムの遺体を包み、闘技場のフェンスに師の身体をもたせ掛けて座らせた。
「……次は、師匠が見ていてね」
そう囁くとマリアは護身用として持っていた小刀で長いドレススカートを切り裂いた。ヒールの高いブーツも脱いで裸足になると、靴紐で長いブロンドをきつく止めた。
小刀を捨て、つかつかとレイフェスと山高帽のいる中央へと向かう。その顔にはすでに笑みはなく、闘技場で戦うときのマリアージュの険しい表情があった。
「ウェザリア地下闘技場“断頭台”マリア。ランク五位。いまこの場で王座挑戦を申し込むわ!!」
よく通る声は地下闘技場の隅々に届いた。
「――マリア?」
「上位ランカーのマリアか!?」
「まさかギロチン・マリアまで王座戦かよ!!」
観客のさざなみのような会話は、すぐに大きな歓声へと変わっていった。
ウェザリア闘技場にいる全員が気がついたのだ。
今日というこの日が、特別なことを。
何かすごいものが見られるのだと。
「――――――――!!」
もはや言葉は聞き取れなかった。
多くの人々が上げる声は熱狂そのもので、これから始まる戦いに期待すべく唸りを上げた。
この日。ウェザリアの町では地震が起こったとされている。
しかしそれは、地下闘技場の観客が上げる歓声だった。
先週はなんかせわしなくて、日曜ぶんの更新をすっかり忘れていました…
「今日は水曜だからワールドトークRPGの更新更新…ってォーーーイ!!!」
みたいにひとりノリツッコミしちゃいましたよ。
ウウッ…地下闘技場編が終わるまでノンストップと思っていたのに…
すみません_(;3」∠)_