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第八十八幕 ~ドレス下の攻防~

 月華の光が白亜のレティシア城を美しく照らし始める頃。

 大広間では戦勝の宴が催されていた。大勢の将校や有力貴族などで賑わう中、会場に足を踏み入れたオリビアの姿に、皆の視線が集中していく。

 目の覚めるような真紅のドレスに身を包み、束ねた銀髪をねじり巻くように結い上げている。後はリーフ模様の赤い髪飾りと、唇に紅を薄く引いたのみ。にもかかわらず、普段見慣れているはずのクラウディアをして息を呑むほどの美しさだった。


「──なんとも神々しい。まるで女神シトレシアのようだ」

「あれが帝国軍を震え上がらせているという噂の死神なのか? ……なにかの冗談だろう」

「我が息子の嫁に来てはくれないだろうか」


 そんな言葉が方々から漏れ聞こえてくる。近くにいる数人の男たちは見惚れるがあまり、手にしているグラスから酒をボタボタと床にこぼしていた。驚いたことに気位が高いと有名なハクスブルク家の令嬢までも「恐ろしいほど綺麗だわ」と、悔しそうな表情を浮かべていた。

 

 色々な意味で注目を浴びているオリビアはというと、大広間に鎮座する物体を見て口を大きく開けていた。


「ク、クラウディア! 大変だよ! 塔だよ! 塔のようなケーキだよ! こんなの絵本でも見たことないよ!」


 大興奮でクラウディアの肩を揺さぶってくるオリビア。今しがた到着した者たちも、そびえ立つケーキにギョッとした表情を浮かべている。話には聞いていたが、どうやらオリビアが願った以上の品をアルフォンスは用意したらしい。


(アルフォンス王自ら約束したことだ。中途半端なものは許されないことはわかるが……だからといって、これは少々やり過ぎではないのか?)


 余程王宮料理人が気合いを入れたのだろう。ここまで巨大なケーキはクラウディアも見たことがない。オリビアが興奮するのも無理からぬことだと思う。半ば呆れ混じりにケーキを眺めていると、ふいに後ろから声をかけられた。


「その様子を見る限り、オリビア少佐のお眼鏡に叶ったようだな」

「あ! コルネリアス閣下だ。今日もお髭がふさふさだね」

「少佐! 元帥閣下に対し、そのように気軽な口を聞いてはいけません!」


 慌ててオリビアを窘めている傍で、コルネリアスは豊かな白髭を撫でながら顔をほころばせている。


「なに構わんよ。今宵は宴の席、クラウディア中尉もそう畏まらずに楽しむのがよかろう」

「はっ! お気遣いありがとうございます!」


 思わず敬礼で返そうとし、慌てて裾を軽くつまみながら腰を落とす。ドレスを着ている以上、淑女としての対応をしなければならない。ちなみにクラウディアのドレスは深い紺色を基調としたもの。あでやかな花をあしらった刺繍が、腰元から裾にかけて大胆に施されている。

 久方振りに着た自慢のドレスは、ほんの少しだけ──クラウディアを締め付けていた。


(別に太ったわけではない。多少筋肉がついてしまっただけのことだ)


 そう心の中で言い訳をしていると、コルネリアスはケーキを見つめながらオリビアに語りかけた。


「このケーキはオリビア少佐のために用意されたもの。遠慮などせず、存分に堪能しなさい」

「エヘヘ。お腹いっぱい食べる」


 オリビアはにへらと笑ってお腹をポンと叩く。コルネリアスはそんなオリビアの頭を優しく撫でると、ゆっくりとした足取りで立ち去って行った。その先では貴族たちが顔に笑顔を張り付けて待っている。常勝将軍の健在ぶりを示したコルネリアスの知己を得ようとしているのだろう。


(元帥閣下も大変だな)


 今回の戦勝祝賀や舞踏会。または晩餐会などといった場で貴族の力関係が決まることも多い。それだけに、大なり小なり腹に一物を持つ者たちばかりだ。華やかな舞台の裏で様々な駆け引きが行われるのが貴族社会の常である。


「さあ、いっぱい食べるぞーっ!」


 そんな貴族たちの思惑などよそに、オリビアは嬉々としてケーキにフォークを突き刺す。そして、そのまま勢いよく食べ始めた。後ろに控えるメイドがオロオロとしながらその様子を見つめている。


(また少佐はあんな食べ方をして……周囲の目もあるというのにまるでお構い無しだな)


 本来なら行儀が悪いと即座に注意するところではある。しかしながら、この巨大なケーキはオリビアのために用意されたもの。宴の席ということもあり、あまり口やかましく言っても興ざめしてしまう。クラウディアはあえて目を瞑ることにした。


「とってもとーっても美味しいから、クラウディアも早く食べなよ!」


 早くも口の周りにクリームをつけたオリビアが幸せそうな顔で進めてくる。


「そうですね。では少し頂きます」


 言った途端にメイドがケーキを切り分け、サッと手渡してきた。これこそが自分の役目だと言わんばかりに。クラウディアは苦笑しつつ、ケーキを口にする。さすがに王宮料理人が用意したものだけあり、文句なしの美味さだった。


(甘いものは別腹だと相場は決まっているが、これはかなり危険な代物だ。あまり食べ過ぎないよう注意しなければ)


 お腹周りを気にしながらオリビアとしばし歓談していると、背後から華やいだ笑い声が聞こえてくる。何気なく振り返った先、令嬢たちに囲まれた黒髪の青年が目に映った。整った顔立ちをしており、愛想のよい笑顔を万遍なく振りまいていた。


(随分と人気があるようだが……見かけない顔だな。どこの家の者だ?)


 なんとなく青年の動向に注目していると、どうやらこちらの視線に気がついたらしい。引き留める令嬢たちに手を降りながら近づいてきた。


「これはこれは……煌めく美しさの中に凛々しさを併せ持つ稀有なお方だ。その高貴なるお手に口づけを捧げることをお許しいただけますか?」


 歯の浮くような世辞を並べ立て、恭しく片膝をつく青年。普通の女性なら頬を染めてしまうのだろうが、クラウディアは違う。明らかに女性慣れしている口調と態度に、正直あまり良い印象を持てない。それでも礼儀には適っているだけに、無下に扱うこともできなかった。


(仕方がないか……)


 クラウディアは右手をスッと差し伸べる。令嬢たちから軽い悲鳴が上がり、同時に射殺すような視線を向けられた。戦場で向けられる本物の殺意に比べれば、実に可愛らしいものだ。青年は意に介することなく手を取り、甲に軽い口づけをした。


「──今このとき、私以上の幸せを抱く者はいないでしょう」


 スッと立ち上がった青年は、白い歯を見せてくる。


「そ、それはどうも」


 背中に悪寒が走り、思わず引きつった顔で答えてしまった。淑女の振る舞いとしては落第点である。この場にリーゼ・プロイセがいたら、間違いなくからかってくるだろう。淑女としてではなく騎士としてならば、一発くらい殴っていたかも知れない。

 青年は何を勘違いしたのか、さも嘆かわしいとでも言いたげに首を横に振っている。


「あなたはご自身に備わっている魅力をしっかりと認識するべきだ。それがどれだけ多くの男を恋という名の迷宮に(いざな)うのかを」

「はぁ。そうですか」


 青年の余計な忠告に対し、クラウディアは適当に相槌を打った。どうやら先程見せた態度が、自分に対する自信のなさと受け取られたらしい。


(頭がお花畑だな。体つきを見る限りそれなりに鍛えてはいるようだが、正直軽薄な男は性に合わん。まだアシュトンのほうが幾分かマシだ)


 時折精悍な顔つきを見せるようになったアシュトンを思い浮かべる。今頃は灰鴉亭で夕食を食べている頃だろうか。そんなことを考えているクラウディアの背後を、青年が興味深げに眺めていた。


「後ろで食事をされている女性はお連れの方ですか?」

「えぇ。まぁ……」

「ご紹介いただいても?」


 そう言う青年の顔は微笑んでいる。が、僅かに警戒しているようなふしが垣間見え、クラウディアは内心で首を傾げた。


「別に構いませんが……オリビア少佐」


 クラウディアが遠慮がちに声をかける。オリビアはピタッとフォークを動かすのを止め、こちらに振り向いた。そこには頬袋にエサを貯め込むリスのようなオリビアの姿。そばに控えるメイドが肩を震わせながら下を向いている。


「──少佐、あなたはいつからリスになったのですか。ケーキは逃げなどしません。まずは頬に貯め込んでいるものを飲み込んでください」


 オリビアは高速で首を縦に降り、凄まじい速さで口を動かし始めた。まさにリスそのものだ。その様子を青年は驚愕に満ちた表情で見つめている。


「──お待たせ! その人間は?」


 オリビアの質問に、まだ名を聞いていなかったことを思い出す。これも淑女としては失格だ。もし母であるエリザベートがこのことを知ったら、間違いなく叱責が飛んでくるだろう。その後一時間は説教が続くところまで容易に想像つく。しかし、相手も名乗ってはいないのでお互い様だろう。

 青年はすぐさま歩み出て答えた。


「私はヨシュア・リヒャルトと申します。それにしてもお美しい。まるでこの世の美を全て内包したようなお方だ。きっとあなたの前では、どんな輝く宝石でさえもくすんで見えてしまうことでしょう」

「私はオリビア・ヴァレッドストーム。何だかよくわからないけど、お話がそれだけならもういいかな? ケーキ以外にも食べたいものがいっぱいあるから」


 オリビアは奥のテーブルに並べられた料理を見渡しながら言う。それとほぼ同時に、一段高い場所を陣取る楽団から《ペテクリカ》が流れ始める。王国でも代表的な舞曲だ。コルネリアスが貴婦人の手を取り、大広間の中央へと(いざな)っている。

 この場にいる最も地位の高い者が最初に踊る決まりだ。それに続くよう他の者たちも優雅に踊り始めた。


「オリビア様、よろしければこの私と踊ってはいただけませんか?」


 ヨシュアは左手を胸に当てると、優美な所作で右手を差し出してくる。それに対し、オリビアは──


「えー。踊っている暇なんかないよ。私の話聞いてた? 食べるものがいっぱいあるの」


 プイッとそっぽを向くオリビアに、右手を差し出したまま困惑した表情を見せるヨシュア。さすがに気の毒に思い、素早くオリビアに耳打ちする。


「少佐、特別な理由がない限り、踊りの誘いを断るのはマナー違反です。相手の顔に泥を塗ることになりますから」

「特別な理由なら今言ったじゃない」

「それは理由になりません。美味しいものはこれからいくらでも運ばれてきます。皆も注目していますからお早く」


 いつの間にか人々の注目がオリビアとヨシュアに注がれていた。傍から見れば最高のカップルに見えるのだろう。女たちは揃って(ほぞ)を噛み、男たちはガックリと肩を落としている。


「えー。踊り終わったらまた食べてもいいんだよね?」

「もちろんです。好きなだけお食べください」

「ならさっさと踊っちゃおう」


 オリビアは差し出されている手を握る。ヨシュアは苦笑しながらオリビアの手を引き、踊りの場へと向かって行った。





(これは……)


 初めは他の者たちと同様、優雅に踊っていたオリビアとヨシュアだったが、今では二人以外踊っている者はいない。皆が皆、オリビアとヨシュアの踊りを固唾を呑んで見守っている。それもそのはず。これは踊りと言うよりもむしろ──


(そう、むしろ実戦に近い組手をしているような動き。にもかかわらず、あの美しさはなんだ?)


 互いが相手の動きを探りつつ、次の動作を決めている。足さばきは鋭く、且つ流れるように上下左右へと動いている。オリビアが優雅に回転するごとに、ドレスがフアリと舞う。

 気づいたときには舞曲も激しいものへと変化していた。奏でられるのは《魔王狂想》奏者に視線を向けると、それぞれが額に汗を滲ませ、必死な形相で楽器を奏でている。まるで二人の踊りに飲み込まれてたまるかとばかりに。


 最後はヨシュアがオリビアを抱きかかえるタイミングで演奏が終了した。一瞬の静寂後、割れんばかりの拍手喝采が二人に向けて送られる。奏者たちはぐったりとした様子で、椅子にもたれかかっていた。


「──オリビア様、実に素晴らしい時間を堪能させていただきました。このヨシュア・リヒャルト、改めてお礼を申し上げます」


 ヨシュアは深々と頭を下げてきた。


「私も結構楽しかったよ」

「それは良かったです。いずれまたお会いすることもあるでしょう。今晩はこれにて失礼させていただきます」

「せっかくのご馳走を食べていかないの?」

「ええ。すでにご馳走以上のものをいただきましたから」


 そう笑顔で言うと、ヨシュアは令嬢たちに黄色い声援を送られながら会場を後にした。クラウディアはその様子を眺めつつ、オリビアの横に並ぶ。


「いったい何者でしょう? 最初はただの軽薄な男だと思っていたのですが……」


 あの踊りに隠された薄く研ぎ澄まされた刃のような気配をクラウディアは見逃さなかった。オリビアも当然その気配には気づいているはず。他に気づいている者は──しきりに髭を撫でているコルネリアスくらいだろう。


「なんだろうね。どぶねずみとも違うみたいだけど」

「どぶねずみ……まさか?!」


 オリビアは薄い笑みを浮かべると、料理が並ぶテーブルへと向かって行った。


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