第八十四幕 ~編入~
折れた矢。欠けた刃。沈みゆく太陽の光が、血で染められたフライベルク高原をさらに赤く染めていく。上空を見渡せば、我が物顔で旋回する灰鴉たちの群れ。薄暗い木立の間から、涎を垂らした獣も姿を見せ始めている。
今宵彼らの腹は十分に満たされることだろう。喰いきれないほどの躯が、大地を覆い隠さんばかりに埋め尽くしているのだから。
パトリック率いる天陽の騎士団を退けたオリビアたちは、程なくして第二軍と合流を果たした。先頭を歩く淡い金髪の美女を見た途端、リーゼが息を呑む。
「──久しぶりだな、リーゼ・プロイセ。士官学校の任官式以来か?」
「クラウディア・ユング! ──あなた、第一軍の所属ではなかったの?」
「まぁ、色々あってな。今はオリビア少佐の副官をしている」
「そうなんだ……それにしても相変わらず剣一筋の馬鹿って感じね」
「そちらこそ、頭でっかちなのは変わりなさそうだな」
お互いジッと見つめ合った後、クスリと笑って抱き合う。どうやら士官学校時代の同級生らしい。二人の微笑ましい光景を見て、ブラッドはふと冥府へと旅立ったリンツとラッツの姿を思い浮かべた。
「あなたたちのおかげで第二軍は窮地を脱することができた。本当に来てくれてありがとう」
深く頭を下げるリーゼに、クラウディアは憤慨だとばかりに声を上げる。
「頭を上げろ。友軍を助けるのは当然のことだろう」
「……ふふっ。真面目なところも変わっていないのね。なんだか安心した」
「ふん。たかが数年で性格がそうそう変わってたまるか」
クラウディアは居心地が悪そうに目を逸らす。顔を上げたリーゼは耳にかかった髪をかきあげると、からかうような笑みを向けていた。
「──二人とも懐かしの再会を邪魔して悪いが、そろそろ話を進めてもいいか?」
ブラッドの言葉に、クラウディアが慌てて敬礼をする。
「大変失礼いたしました! ご紹介が遅れましたがこちらがオリビア少佐です」
どこか誇らしげなクラウディアに促されて、漆黒の鎧に身を包んだ少女が姿を現す。黒旗と同様、肩当と胸に髑髏と二挺の大鎌が刻まれている。集まっている将校たちからどよめきにも似た声が上がった。
「お初にお目にかかります! オリビア・ヴァレッドストーム少佐であります!」
「ブラッド・エンフィールド中将だ。まずは貴官の援軍に心から感謝する」
「はっ! ありがとうございます!」
「それにしても……替え玉も中々の美人に見えたが、本物はそれ以上だな」
オリビアをまじまじと見つめていると、右腕がギュッとつねられる。思わず目を向けると、いつの間にかリーゼが隣に立っていた。
「オリビア少佐が物凄い美人でよかったですね。これからは変態閣下とお呼びすればよろしいでしょうか?」
そう言うと、リーゼは乾いた笑みを浮かべる。ブラッドの言い訳を待たずそっぽを向いてしまった。一方のオリビアはというと。
「そう? ──じゃなくて、そうでありますか」
美人と呼ばれることに慣れているのか。とくに否定も肯定もすることなく返事を返してくる。自分の容姿に頓着がないようにも見えるが、それよりも気になったのは──
「なんだ。オリビア少佐は敬語を話すのが苦手か?」
ブラッドが苦笑交じりに尋ねると、オリビアは心底苦手だと言わんばかりの表情を浮かべる。どうやら図星だったらしい。
「はっ……なんだかややこしいので」
「極論を言えば軍隊とは規律の世界だからな。俺とて閣下と呼ばれる身分になった今も息苦しさは常に感じている。まぁ、元々性に合っていないということもあるんだろうが」
「中将なのに? ──じゃなくて、中将でいらっしゃる……ん? 中将であられる……あれ? あれれ?」
何度も首を傾げるオリビア。必死に適切な言葉を探しているようだが、中々思い通りに出てこないようだ。
「ふっ。これから俺と話すときは普通の言葉で構わない。そのほうがオリビア少佐も楽だろう」
「え? いいの? オットー副官に上官と話すときは絶対に敬語を使えって言われているけど?」
オリビアは目を丸くして言う。普段から余程言い含められているのか「まるで呪いの言葉だよ」と付け加えてきた。その口振りからしても辟易していることがわかる。確かに軍隊である以上、上官に対して礼を失する言葉遣いは厳禁だ。
しかしながらリーゼの言った通り、オリビアの部隊に第二軍が救われたのは紛れもない事実。そのことを考慮すれば、上官への言葉遣いなど些末なことだ。
「オットー副官? ──ああ、パウルのじっさまのところにいる岩石頭か。確かに奴なら事あるごとに言いそうだ。なにせ軍紀が服を着て歩いているような人間だからな」
「そう! 私もずっとそう思ってた!」
我が意を得たとばかりに顔を寄せてくるオリビア。あまりの迫力に、ブラッドは思わずのけ反ってしまった。
「ま、まぁ、そういうことだ。こっちも面倒だから嬢ちゃんと呼ばせてもらうぞ」
「うん、別にいいよ」
オリビアが白い歯を見せて頷くと、眉根を寄せたリーゼがまっさきに異を唱えてくる。そんな彼女に対し、ブラッドはニヤリと笑いかけた。
「ほう、つい数時間前に軍規を捻じ曲げようとしたのはどこのどなただったかな? 確か副官は上官の命令を拒否する権利があるとかなんとか」
「無茶苦茶ですね。そんな突拍子もないことを言う人間がいるのですか?」
リーゼはキョトンとした表情を浮かべて小首を傾げる。ここまでしらを切り通されるといっそ清々しい。事情を知らないクラウディアが呆れたように溜息を吐いているということは、こういったことが過去にもあったのだろう。
「まぁいい。それで今後のことだが、嬢ちゃんの部隊は暫定的に第二軍へ編入してもらう。悪いがこちらも手ひどくやられているからな」
残存兵力一万二千。
負傷者多数。
戦いに勝ったとはいえ、決して楽観できる状況ではない。オリビアに確認こそとってはいるが、ブラッドの中では既に決定事項となっていた。
「私は別に構わないよ」
オリビアは問題ないとばかりに頷いた。それを見てブラッドも頷き返す。
「そう言ってくれると助かる──それと、アダム少将には二千の兵を預ける。負傷兵を連れて王都に帰還してくれ」
「はっ! お任せを!」
一歩前に出たアダムが堂の入った敬礼で答える。御年五十。派手な活躍こそしないが、冷静に状況を捉えることができる古強者だ。第二軍が辛うじて踏みとどまれたのも、彼の手腕によるところが大きい。
万が一潰走した敵兵が反撃してきたとしても十分対処が可能だろう。
「残った我々は軍を再編後、ただちに第一軍の援護に向かう。では各自準備を始めてくれ」
解散を告げると各々が一斉に動き出す。ブラッドは立ち去ろうとするオリビアに声をかけた。
「嬢ちゃん」
オリビアが振り返る。その刹那、ブラッドは前のめりに右足を踏み込むと、オリビアの首筋に向けて剣を抜き放った。必殺の間合いであり、飛燕ですら切り落とすことが可能な一閃。場が一瞬で凍りつく中、剣を向けられたオリビアだけが平然と口を開く。
「──なに?」
「……いや、別になんでもない。いきなり剣を向けて悪かったな」
「?」
オリビアは首を傾げると、そのまま歩き出す。あまりにも普通なオリビアの態度に、固まっていた者たちは一転、困惑した表情を浮かべ始めた。
「閣下、一体今の行為は……」
リーゼもまた、困惑した表情で尋ねてくる。第二軍を窮地から救ってくれた人間に向けていきなり刃を突きつけたのだ。至極当然の反応だろう。
「驚かせて悪かった。ただ、どうしても確かめたくてな」
「──もしかして、オリビア少佐の実力を計ったのですか?」
リーゼの非難するような口調に対し、ブラッドは剣を鞘に納めると肩を竦めて言った。
「ああ。だが、おかげで納得がいった。どうりで帝国軍がひとりの少女にあれだけ警戒するわけだ」
「実際戦いの様子を見ていないので私はなんとも言えませんが……それほどなのですか?」
「リーゼもその目で見ただろう。俺の放った剣に対し、嬢ちゃんが微動だにしなかったところを」
「それはもちろん見ていましたが……オリビア少佐も突然のことで動けなかっただけなのでは?」
リーゼの言葉は真理をついている。人間は予想外の出来事に遭遇した場合、とっさに反応するのは難しい。心に一瞬の空白が生じ、次の行動を移すのに時間を要するためだ。ブラッドの放った一閃は本気であり、大抵の者は問答無用で冥府へと旅立つ。中には空白を生じさせることなく、即座に反撃してくる強者もいるだろう。が、オリビアはそのいずれにも該当しない。
「違う。動けなかったのではない。動く必要がないとあの刹那で判断したんだ。現に嬢ちゃんの目はしっかりと剣の動きを見定めていた。当然のように寸前で止まるのがわかっていたんだろう──この腕を見て見ろ」
ブラッドは袖をまくると、リーゼに向けて左腕を見せる。
「鳥肌がこんなに……」
「俺の本能ってやつが、あの嬢ちゃんを恐れているんだ。あんなのを敵に回したら命がいくつあっても足りやしない。死神とはよく言ったものだ」
「閣下でも勝てないのですか?」
リーゼが神妙な顔で見つめてくる。
「戦争というものが国家間同士のぶつかり合いである以上、いささかずれた質問だと思わなくもないが……一対一という条件下ならまず間違いなく勝てない。そもそも、次元が違い過ぎる」
「いくらなんでもそこまでは」
「俺を買いかぶってくれるのはありがたいが、これは純然たる事実だ。あの若さで一体どんな修羅場をくぐってきたのやら」
煙草に火をつけたブラッドはため息交じりに煙を吐く。立ち去って行くオリビアの後ろ姿がやけに大きく感じた。