第七十六幕 ~第一軍旗を掲げよ~
──神国メキア ラ・シャイム城 謁見の間
メキア様式の窓から見える外の景色は、一面綿毛のような雪に覆われている。陽光に照らされた雪は燦然と輝き、謁見の間をより壮麗な空間へと変貌させていた。
「アメリアさん。此度の〝陣中見舞い〟ご苦労様でした」
ひざまずくアメリアへ、ソフィティーアは労いの言葉をかけた。
「勿体ないお言葉。ですがこのアメリア、不覚をとりました」
その発言に、隣に控えるラーラが身動ぐ。
「不覚? それは変ですねぇ。事は上首尾に終わったとお聞きしていましたが?」
梟からの報告によれば、見事な奇襲作戦で紅の騎士団に大打撃を与えたという話だ。無論こちらの損害もあるが、軽微と言っていいだろう。アメリアが不覚と口にする理由にはならない。
「私も今回の作戦は上々だったと聞いている。アメリア千人翔、聖天使様の御前でいい加減な発言は許さぬぞッ!」
ラーラは射殺すような視線をアメリアに飛ばす。
「いい加減な発言ではございません。帝国三将のひとり、フェリックス・フォン・ズィーガ―と遭遇したにもかかわらず、討ち取ること叶いませんでした」
顔を上げたアメリアは悔恨の色を覗かせていた。
「ああ、そのことでしたら全く気にすることはありません。相手は蒼の騎士団を率いるズィーガ―卿です。簡単に殺せるなどと、わたくしも思っておりません。むしろ、よく生きて無事に帰ってきたと褒めたいところです。アメリアさんのことですから、それなりに情報収集は行ったのでしょう?」
帝国三将の中でもフェリックス・フォン・ズィーガーは謎が多い。あまり戦場に姿を見せないことも相まって、梟も情報を掴みかねていた。千人翔であるアメリアが、千載一遇の好機に情報収集を怠るわけがない。
そして案の定、アメリアは即座に頷いた。
「はい。それはもちろん」
ソフィティーアはアメリアに微笑んで見せた。
「では、なにも気に止む必要はありません。アメリアさんの戦功はとても素晴らしいものです。追って褒美をとらせましょう。今はゆっくりとお休みください」
「聖天使様のお心遣い、深く感謝いたします」
アメリアはスッと立ち上がり一礼すると、謁見の間を後にした。
「──ふふっ。ラーラさん、私の言った通りアメリアさんは見事に大役を果たしたでしょう?」
「はっ、聖天使様のご慧眼には感服するばかりです」
ラーラは深々と頭を下げてきた。絹糸のような白銀の髪がサラサラと肩から零れ落ちている。
「そんなにおだてても何も出ませんよ。ところで天陽の騎士団が動き出したと聞きましたが?」
「聖天使様のおっしゃる通り、第二軍と交戦状態に入ったとの報告を受けております」
「そうですか……ちなみにラーラさんから見て、どちらに軍配が上がると思いますか?」
謁見の間は一瞬の静寂に包まれる。
「──第二軍の指揮官は優秀だと聞こえていますが、それでも十中八九天陽の騎士団だと思われます。そもそも、全体の兵力に差があり過ぎます」
ラーラは力強く言った。その点に関してはソフィティーアも同意見である。僅か一軍で中央戦線を支えてきた胆力は称賛に値する。ラーラの言う通り、優秀な指揮官なのだろう。叶うのなら三顧の礼をもって聖翔軍に迎え入れたいほどだ。
しかし、通常の軍ならいざ知らず、天陽の騎士団相手ではいささか分が悪すぎる。
「いよいよ帝国軍も本腰を入れ始めたと言うことでしょうか?」
「ここ最近帝国軍は敗北が続いておりました。それでも圧倒的優位な状況に変わりはありませんが、思うところもあるのでしょう。おそらくタイミングから見ても間違いはないかと」
ソフィティーアは右手を頬に添えると、僅かに溜息をついた。
「それは困りましたねぇ。さすがにこれ以上介入すると、我々の存在に気づく者が出てくるかもしれません」
帝国軍も愚かではない。陽炎という諜報部隊も存在する。いずれアストラ砦を奇襲した敵が神国メキアだと突き止めるだろう。かといって、今正体が公になるのは得策ではない。帝国軍と正面切って事を構えるには、それなりの時間と準備が必要だ。
しかし、第二軍が敗れればそのまま王都に進軍する可能性もある。そうなったら帝国の大陸統一が俄然現実味を帯びてくる。ソフィティーアとしても判断に窮するところだ。
「聖翔軍はいつでも出撃可能です。いかがいたしますか?」
ラーラの言葉に、壁際に立ち並ぶ近衛兵たちが一斉にひざまずいた。
「──今回は静観します。いかにアルフォンス王が愚かとはいえ、さすがにこの状況では第一軍を動かさざるを得ないでしょう。なんともおかしな話ですが、王国軍の勝利を女神シトレシアに祈りましょう」
「聖天使様の御心のままに」
ラーラは白銀に輝く左手を胸に当て一礼した。
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──王都フィス レティシア城 謁見の間
太陽が天頂に差し掛かった頃。
謁見の間は物々しい雰囲気に包まれていた。
「陛下、これほど申し上げてもまだおわかりになりませぬか?」
コルネリアスが悲痛の表情を浮かべながら一歩前に出る。
「くどいぞ爺、何度も同じことを言わせるな。第一軍の出撃はまかりならん。それに周辺の警備兵を集めて援軍に向かわせたではないか」
アルフォンスとしては警備兵を動員するのにも反対だった。警備兵が少なくなれば、おのずと治安も乱れていく。そして、治安の乱れは経済活動に影を落とす。それでも第一軍を動かすよりはましだと考えて許可を出したのだ。ここで第一軍が援軍に出向いたら本末転倒である。
「そうは申しても、たかだか六千ほどです。早馬の知らせでは、天陽の騎士団は四万。後詰を合わせれば総勢七万の大軍勢と聞き及んでいます。対して第二軍はおよそ二万。たとえ援軍が加わったとしても数の差は歴然です」
七万と二万六千。
確かにコルネリアスの言う通り、数の差は歴然としている。が──
「そこを戦略や戦術を駆使してなんとかするのが軍人の責務ではないか。そもそも、常に五分の状態で戦えると思うのがおかしいのだ」
「陛下、ものには限度があります。多少の戦力差であればそれも可能でしょう。ですが此度はその限度を超えています。まして相手は帝国三将筆頭が率いる天陽の騎士団。多少の戦略や戦術など通じるとは思えません」
コルネリアスの血走った目がアルフォンスを捉えた。七十を越えた老人とは思えぬ迫力に、じんわりと汗が滲んでくる。
「……だが、第七軍は圧倒的な兵力差を覆して、紅の騎士団に勝利せしめたではないか。これをどう説明する?」
「あのようなことは例外とお考えください。誰しもが成し得ることではございませんし、私に同じことをやれと申されても到底真似できるものではございません」
アルフォンスはコルネリアスをねめつけた。
「爺、それは王国軍の頂点に立つ者の発言ではないな。ではパウルに元帥号を授与し、爺を上級大将に降格するがそれでも良いか?」
この場にいる近衛兵たちからどよめきが起こった。同時に彼らの視線がコルネリアスに集中していく。
「──それで第一軍の出撃をお認めくださるのなら私は一向に構いません」
コルネリアスはその場にひざまずくと、深く頭を下げてきた。まさか同意すると思っていなかったアルフォンスは慌てて口を開く。
「許せ。今のはただの戯言だ」
「──陛下、この際はっきりと申し上げます。第二軍が敗北すればそう遠くない未来、ファーネスト王国は滅びるでしょう。約六百年続いた王国の歴史もアルフォンス王の代で終わりを告げます」
顔を上げたコルネリアスは臆面もなく言い放った。それはつまり自分のせいで王国は滅びると言っているのに等しい。アルフォンスの頭に一気に血が昇った。
「おのれぇ。たとえ爺とて今の発言は万死に値するぞッ!」
アルフォンスは傍らに控える近衛兵から強引に剣を奪い、コルネリアスの喉元に切っ先を突きつけた。この様子に近衛兵たちは右往左往している。動じていないのは涼やかな顔をしたコルネリアスただひとり。
「もとより死は覚悟の上です。私は王国が滅びる様も、陛下が──アルフォンス坊ちゃまが断頭台に立たされる姿も見たくはありません。どうぞこの場でお手打ちにしてください」
そう言うと、コルネリアスは腰の剣を床に置き、ゆっくりと目を閉じる。ジッと睨みつけていたアルフォンスは、突きつけていた剣を力なく下ろした。
「──わかった。余の負けじゃ。もう口出しはせぬ。後は爺の好きにするといい。その結果、たとえ王国が滅ぶとしても決して恨みはせぬ」
今だ目を閉じるコルネリアスの肩を優しく叩く。眼前に広がる光景をアルフォンスは生涯忘れることはないだろう。
かつて常勝将軍と呼ばれた男の頬に、一筋の涙が零れ落ちるところを。
謁見の間の大扉が開かれると、ゆっくりとした足取りでコルネリアスが出てきた。その姿を確認したナインハルトは、足早に近づきながら声をかけた。
「元帥閣下、首尾は……謁見の間で何かあったのですか?」
コルネリアスの目が妙に赤みを帯びていることに、ナインハルトは気がついた。
「──ん? ナインハルトか……お主が気にすることはなにもない」
コルネリアスは長い白髭をしごきながら、問題ないとばかりに右手を振った。
「そうですか……ところで首尾はいかがでございましたか?」
「第一軍はこれより出撃準備に入る。そう皆に伝えてくれ」
「では?」
「陛下は今後の采配を全てわしに託されたよ」
コルネリアスは多少疲れた顔を見せながらもニッコリと微笑んだ。
「それはようございました!」
アルフォンスの説得は難しいだろうと思っていただけに、これは嬉しい誤算だ。
「此度はわしが陣頭指揮を執る。兵の動員数は四万。残りの七千は王都防衛としてランベルト大将に託す。王都に第一軍旗を掲げよ」
「はっ!!」