第七十幕 ~蒼の騎士~
グラーデン元帥より紅の騎士団を託されたフェリックスは、五十人の部下と共にアストラ砦を目指していた。
「たまには野宿もいいものですね」
大きく腕を伸ばしながら朝焼けの光を眺めていると、横からクスクスと笑う声が聞こえてきた。
「何かおかしなことでも言いましたか?」
「いいえ。ただ、執務室で仕事をしているときよりも、随分と生き生きとした顔をしていらっしゃるので」
そう言いながら、テレーザ少尉がホウセン茶を差し出してくる。礼を言って一口飲むと、じんわりとした温かさが全身に広がってきた。
「お味はどうですか?」
フェリックスを覗き込むようにテレーザが尋ねてくる。
「普段飲むホウセン茶より美味しいですね」
「それは良かったです。実は隠し味に蜜を数滴入れてみました」
肩にかかった髪を軽く払いながらテレーザは微笑んだ。その姿に何となく違和感を覚えたフェリックスは、すぐにその正体に気づいた。
「──そう言えば、今日は珍しく髪を結っていませんね?」
フェリックスがいつも目にしているのは、黄金の髪を結い上げたテレーザである。今のように髪を下ろした姿を目にするのは初めてかもしれない。改めて見ると髪の毛ひとつで随分と印象が変わるものだと感心した。
「ふふっ。珍しい。閣下がそんなことを言うなんて。今日は雨が降るかもしれませんね。それとも雪でしょうか?」
テレーザはわざとらしく空を見上げながら言う。
「そんなにおかしいことですかね?」
「さあ? どうでしょう?」
テレーザは意味深に微笑む。フェリックスが問いただそうとする前に「すぐに朝食のご用意をします」といって、さっさと立ち去ってしまった。
朝日が完全に昇り切った頃。
フェリックスたち一行はアストラ砦まで僅かの距離に迫っていた。テレーザが予言した雨も雪も降ることなく、頬を突き刺すような冷え込みも次第に和らいでいった。
「閣下、そろそろアストラ砦に到着します」
併走するテレーザが声をかけてくる。フェリックスが返事を返そうとしたとき、微かに何かが焼ける匂いを感じた。
「この匂い……」
「いかがいたしました?」
「停止の合図を」
フェリックスの命令にテレーザは即座に頷く。右腕を水平に伸ばすと、後ろを追走する部下たちに命令した。
「全隊、止まれッ!!」
テレーザの命令を受けて、部下たちは絶妙な手綱さばきで馬を止めていく。フェリックスは周囲を警戒するように促しつつ、手にした遠眼鏡を前方に向けた。
「何かあったのですか?」
親衛隊のひとりであるマシューが、柄に手を掛けながら馬を寄せてくる。
「……アストラ砦に何か異変が起こったかもしれません」
遠眼鏡越しに薄らと白煙が立ち昇る様子が映し出されている。フェリックスの隣でテレーザが慌てながら腰の遠眼鏡を取り出した。
「──! 確かに砦の方角から煙が上がっていますね……まさか第七軍が攻め入ったのでしょうか?!」
テレーザの言葉に、部下たちから一斉にどよめきの声が上がる。それと同時に死神オリビアという言葉が飛び交う中、フェリックスは大きく首を振った。
「いえ、おそらくその可能性は低いでしょう」
紅の騎士団に勝利したとはいえ、第七軍もまた半数近い兵を失っている。ここでさらなる攻勢に討って出るほどの予備兵力は存在しないはず。たとえオリビアが一騎当千の力を持っているとしても、ひとりで戦争はできないのだから。
そうフェリックスは説明した。
「ではあの煙は?」
「わかりません。特に問題がなければそれに越したことはないのですが……とにかく急ぎましょう」
言って鐙を踏み込むと、馬は力強く地面を蹴って駆けだした。
「閣下……」
テレーザが眉根を寄せながら周囲を油断なく見渡していく。
「ええ、わかっています」
城門前に続く道に踏み入ったときから、風に乗ってむせ返るような血臭が流れ込んでいた。フェリックスもよく知る匂い──戦場の匂いだ。
テレーザが部下たちに向けてハンドシグナルを送り、フェリックスを中心に陣形がひし形へと再編されていく。
やがて城門が視界に入ると、鎧の上から黒いチェニックを着た兵士が姿を現した。兵士たちもこちらに気づいたらしく、慌てたように動き出す。
「閣下! あの兵装は王国軍のものではありません!」
「どうやらそのようですね。このまま一気に突入します──テレーザ少尉はなるべく私の傍から離れないように」
「はっ!」
フェリックスは集結しようと試みる敵兵士たちに向かって、弓による斉射を命じた。精強な兵士から放たれた矢は、吸い込まれるように敵の身体を貫いていく。そのまま強引に城門を突破すると、今まさに止めを刺そうとしている敵兵士の首筋を、すれ違いざまに一閃した。
「え?」
兵士の顔が驚きに満ちる。と同時にぐらりと体が傾くと、鮮血を吹き出しながら倒れ伏した。
「おのれッ!」
「俺が片付けてやるッ!」
馬から飛び降りたフェリックスに向かって、二人の兵士から同時に剣が振り下ろされる。
ひとりは脳天。
もうひとりは脇腹。
フェリックスは視線誘導と掌を使って相手の攻撃を瞬時に弾き、それぞれの剣がお互いの首を切り裂くよう軌道修正していく。
──そして。
「──あ゛?」
「──え゛?」
お互いの首を切り裂いた兵士は、意味がわからないといった表情で地面に崩れ落ちた。
「なんだ?! なんで味方同士で?!」
「蒼の鎧……ひょっとして蒼の騎士団じゃないのか?!」
「帝国最精鋭と謳われる蒼の騎士団……」
敵方の兵士たちがにわかにざわめき始める。フェリックスはポカンと口を開けて尻餅をついている兵士に手を伸ばす。
「大丈夫ですか?」
そう問いかけると、兵士は何度も頷きながら差し出した手を握りしめてきた。
「フ、フェリックス閣下……フェリックス閣下ッ!!」
感極まったかのようにフェリックスの名を呼ぶ兵士。その声に導かれたかのように、フェリックスに視線が集まっていく。
「フェリックス閣下だッ!」
「おお! フェリックス閣下が援軍に来てくれたぞッ!」
「うおおおおおおおっっ!!」
紅の兵士たちから歓声が沸き上がる中、フェリックスは現状の説明を求めた。
「──なるほど。内通者ですか……とりあえず現状は把握しました。それで、ガイエル大佐は今どこに?」
「ガイエル大佐は──」
「ガイエル大佐ならここにいます」
兵士の声を遮るかのように、乾いた女の声が耳に届く。視線を砦の入口に向けると、暗闇の中から薄青色の髪をした女が姿を現す。フェリックスは思わず柄を握りしめた。彼女の左手には──変わり果てたガイエルの首がぶら下がっていたから。
「──ッ」
テレーザは見ていられないとばかりに顔を背けた。
「感動の再会。と、言ったところでしょうか?」
そう言うと、女はガイエルの首を無造作に放り投げた。首は泥にまみれながらフェリックスの足下をゴロゴロと転がっていく。
「──テレーザ少尉、申し訳ありませんが前言を撤回します。少しの間、私から離れていてください」
「はい……」
返事はしたものの、テレーザの瞳は揺れている。そんな彼女に対し、フェリックスは僅かに微笑んでみせた。
「心配は無用です──マシュー大尉。彼女の護衛をお願いします」
「はっ! お任せください!」
マシューは胸をドンと叩く。今だ不安そうな表情を見せるテレーザを尻目に、フェリックスは女の元へと歩を進める。そして女もまた、無機質な表情を浮かべながら歩を進めてきた。
お互いの剣が届くかどうかの位置で二人の足は止まる。
「あなたが指揮官という認識で間違いないですか?」
「間違いありません。私からもひとつ質問してもいいですか?」
女は細い指を一本立てて尋ねてくる。
「答えられる範囲でなら」
「先程からフェリックスと呼ばれていますが、あなたは帝国三将のひとり。フェリックス・フォン・ズィーガ―大将でお間違えないですか?」
「……ええ、その通りです」
「お答えいただきありがとうございます」
「私も名前を聞いても?」
「──アメリア・ストラスト」
アメリアは無機質な表情から一転──凄惨な笑みを浮かべた。