第六十五幕 ~決戦は幕を下ろし…~
──帝国軍王国攻略本拠地 キール要塞
紅の騎士団敗北の報を受けたフェリックス大将は、グラーデン元帥が拠点とするキール要塞に赴いていた。
「すまなかったな。わざわざ足を運んでもらって」
「いえ、お気になさらずに」
勧められるままソファーに座ると、女性の従者が優雅な手つきでティーカップをテーブルに置く。ホウセン茶と呼ばれる帝国産の飲み物で、フェリックスも好んで口にしているものだ。高級品であり、また他国からも多くの需要があるため、重要な輸出品のひとつに数えられている。
礼を言ってカップを手に取ると、ふいに従者と目が合った。すると、彼女は頬を染めながら敬礼して、足早に隣の部屋へと去っていった。
不可解な従者の態度を訝しんでいると、グラーデンが呆れたように言葉を漏らす。
「フェリックスよ。お前、いくつになった?」
「二十一歳ですが……それがなにか?」
「二十一歳か……では結婚していてもおかしくない年齢だろう。聞けば大貴族の令嬢たちからひっきりなしに求婚されているというではないか。それなのに浮いた話ひとつない。それとも誰か心に決めた相手でも秘かにいるのか?」
「──は? いきなりどうしたのですか?」
突然の結婚話にフェリックスが軽く困惑していると、グラーデンは大きく首を横に振り、あからさまに大きな溜息を吐いた。
「まぁいい。今のは年寄りの戯言だと思って聞き流してくれ。それよりもローゼンマリーのことだ。かなりの深手を負ったと聞いているが、実際のところ容体はどうなのだ?」
「治療師の話によると、命に別状はないとのことです。ただ、復調するには大分時間がかかるらしいです」
両腕の骨折に始まり、内臓もかなりの損傷を受けていると治癒師は言っていた。これ以上深手を負っていたら間違いなく死んでいたであろうとも。
「そうか」
グラーデンは軽く息をつくと、僅かに安堵した表情を浮かべる。口にこそ出さないものの、グラーデンなりにローゼンマリーを心配していたのだろう。
「ですがこうなった以上、北方からの攻略は一時棚上げするしかないかと」
ローゼンマリーの軍は北の国境線まで大きく後退し、出城であるアストラ砦に拠点を移している。現在は副官のガイエルが、総司令官代理として軍をまとめていた。
「それも仕方なかろう。紅の騎士団の代わりなどいないのだから……しかし、これは本当に事実なのか? 途中からおとぎ話でも読んでいるかのような気分になったぞ」
そう言いながら、グラーデンはテーブルに置かれている書類の束に視線を落とした。ガイエルから提出されたカルナック会戦に関する報告書だ。敗戦に至る経緯と、死神オリビアに関する報告が事細かに綴られている。
「ガイエル大佐は優秀な男です。私も目を通しましたが事実を端的に伝えていると思います」
「じゃじゃ馬なローゼンマリーの副官を務めるくらいだ。優秀なのは俺とてわかるが……死神オリビアとはそれほどまでの強者なのか? 報告書によれば、まだ少女だというではないか」
報告書の内容を簡単にまとめるなら、終始オリビアとその部隊に翻弄されたということだ。とくにオリビアのくだりになると、まるで人間では太刀打ちできないような存在として書かれている。今やオリビアという一個人が、帝国兵士たちの心胆を寒からしめる。
それは見方を変えれば、かつて英雄、覇者と呼ばれた者と同じ気質。グラーデンがおとぎ話と評するのもわからなくはない。
だが、フェリックスはそれが紛れもない事実であることを確信していた。あの日、捕虜交換の調印式で初めてオリビアの姿を目にしたとき。あれから心の奥底でこのような事態になることを危惧していたからだ。
(ローゼンマリーをあそこまで痛めつけたオリビアという少女の武威は計り知れない脅威だ。さらに言うなら三万の兵を無力化した件や、ローゼンマリーの策を打ち破った手腕は驚嘆に値する。これも彼女の力の一端なのか、それとも別の誰かがいるのか……どちらにしても、帝国軍にとって厄介極まることに違いはない)
鮮烈に刻まれているオリビアの姿を思い浮かべながら、今だ半信半疑な様子のグラーデンに向けてフェリックスは告げる。
「グラーデン元帥閣下、結果が全てを物語っています。それを踏まえて話を進めていきましょう」
フェリックスがそう言うと、グラーデンは顔を引き締め首肯する。
「そうしよう。結果を無視した話など愚の極みだからな。ちなみにダルメス宰相は、今回の件に関してなんと言っている?」
「北部に関しては現状維持に努めよとのことです。それと、私とグラーデン元帥閣下に今後の対応を一任するそうです」
「ほう、宰相殿は静観すると? これは槍でも降らねばよいが」
グラーデンは唇を歪ませ、皮肉交じりに言う。ダルメスは皇帝に次ぐ権力を持ってはいるが、元々は分析班に所属していた生粋の文官。一軍どころか一兵卒すら率いた経験がない。帝国三将筆頭であり武官の頂点に立つグラーデンにとって、たとえ宰相であっても軍事に関することに口を出されるのは鬱陶しいのだろう。
「但し、蒼の騎士団は動かすなと指示を受けました。無論、皇帝陛下の許可なく動かそうとは思いませんが」
断言するフェリックスに、グラーデンは苦笑する。
「まぁ、それは当然だろう。蒼の騎士団は帝都防衛の要だからな。そうなると俺が主体で動くよりほかないか……」
「申し訳ありません」
フェリックスが頭を下げると、グラーデンが顎を撫でながら深くソファーにもたれかかった。
「別にフェリックスを責めているわけではない。そうだな……フェリックスはローゼンマリーが回復するまで、紅の騎士団の面倒を見てやってくれ。第七軍とやらが帝国領に侵攻してくるとは思えんが、念のためにな」
「それはもちろん構いませんが……それでよろしいのですか? 通常の部隊であれば問題なく動かせますが?」
「その必要はない。こちらもそろそろ本腰を入れる良い機会だ。帝国軍の優位は変わらないとはいえ、これ以上王国軍を図に乗らせるわけにも行かないからな。すでに紅の騎士団敗北の報は各国にも伝わっているだろう」
「この機に乗じて属国化した国々が妙な気を起こさないとも限らない。そう元帥閣下はお考えですか?」
フェリックスが己の推察を述べると、グラーデンは僅かに微笑む。
「その通りだ。釘を刺す意味でも今後は我が〝天陽〟の騎士団をもって事にあたるとしよう」
そう言うと、グラーデンは紅茶を一気に飲み干した。
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紅の騎士団との戦いに勝利した第七軍。独立騎兵連隊を主軸にした総勢八千の部隊に残敵掃討を託すと、パウルは領民に歓呼の嵐で迎えられながらウィンザム城に入城した。
それから三日あまりが経った頃。
豪奢な衣装を纏ったひとりの男が、パウルの前にひざまついていた。
「此度のことについてなにか言い訳があるなら聞こう」
パウルの冷たい声色が、静謐な謁見室に響き渡る。男はビクリと体を震わすと、おそるおそる顔を上げた。ザルツ地方の領主でありウィンザム城の元所有者──コンラート男爵である。
「おそれながらパウル公爵閣下。全ては領民を守る領主の責務として、止むを得ず帝国に従ったに過ぎません」
「では決して本意ではなかったと? そう男爵は言いたいのか?」
「おっしゃる通りです。率先して城を帝国に譲り渡したのも、ひとえに領民たちに害を及ぼさないためです」
それからのコンラートは饒舌だった。帝国の圧政に苦しめられながらも、領民たちを守るためいかに心を砕いてきたかを切々と語りだす。壁際に控える兵士たちの侮蔑に満ちた視線にも気づかずに。
一通り話を訊いたパウルは、隣に控えるオットーに目くばせする。オットーは心得たとばかりに軽く頷くと、盆の上に置かれた書状をコンラートの前に置いた。
「こ、これは?」
眼前に置かれた書状に、コンラートは当惑したような表情を覗かせた。
「わし宛に領民の代表なる者が持参してきたものだ。内容は男爵自らの目で確かめてみるがいい」
コンラートの反応は劇的だった。慌てふためきながら書状を乱暴に広げると、貪るように読み始める。次第に顔から血の気が引いていくのがありありと見て取れた。
「パウル公爵閣下──」
すかさず言い訳を始めようとするコンラートに対し、パウルは言葉を遮る。
「読み終えたか? 男爵が言う心を砕いた領民とやらは随分と恨みに凝り固まっているな。わしの目がおかしくなければ男爵の命令によって多くの命が失われたと書かれているように見える。男爵と領民の話には天と地ほどの開きがあるな」
「そ、それは違います! これは帝国の指示を受けて仕方なく」
「仕方なく守るべき領民たちを次々と殺していったと?」
パウルが静かに問う。兵士たちのいる方向から鎧のこすれる音がした。コンラートは小さな悲鳴を上げると、身を震わせながらたどたどしく答える。
「そ、そうです。私の意思ではありません……仕方なく……」
先程の饒舌さが一転、次第に声が小さくなり、ついには黙り込むコンラート。パウルが嘆息しながらおもむろに手を挙げると、兵士たちが一斉にコンラートを抑え込んだ。
「パウル公爵閣下!? な、なにをッ!?」
「茶番もいい加減にいたせ。これ以上お主にかける時間も慈悲もない。後は磔でも断頭台でも好きな方を選ぶといい」
「そ、それではあんまりではございませんかッ! 先程も申した通り、私だって好きで帝国に寝返ったわけではありません! それともパウル公は帝国に逆らってむざむざ殺されればよかったと。そうおっしゃるのかッ!」
コンラートが顔を真っ赤にし、唾をまき散らしながら抗議する。
「そうだ。お主は領民の盾となり死ぬべきだった。それが領主としての矜持だ。己の身かわいさに帝国に尻尾を振り、あまつさえ無辜な領民に手をかける。野の獣にこれ以上の言葉は無意味だろう──地下牢に放り込んでおけ」
「ふ、ふざけるなッ! たかが平民のためになぜ貴族である私が犠牲にならなければならない! 私は由緒ある名家、アーレスマイヤー家の当主だぞッ! それに、ほかの領主たちも帝国に寝返ったではないかッ!」
自分ひとりだけが罰せられるのはおかしい。そう吠えたてるコンラートに向かって、オットーは眉根ひとつ動かさず、淡々と述べる。
「そこはご安心ください。すでに捕縛命令は出しております。すぐにコンラート男爵の後を追わせましょう」
その後もコンラートは必死に抵抗を試みるが、所詮は無駄な足掻き。兵士たちに散々打ちのめされると、最後はボロ雑巾のような姿で連行されていった。その後ろ姿を眺めながら、パウルは誰に言うともなく呟く。
「──実に嘆かわしい。かつては平民の模範となるべき存在が貴族だったというのに……今では貴族こそが絶対支配者だと勘違いしている馬鹿者どもが多すぎる」
「平民の糧によって我々貴族は生かされている。そんな簡単な理屈がコンラート男爵にはわからないのでしょう」
「度し難いとはこのことだな」
パウルは吐き捨てるように言った後、大きな溜息を吐いた。
コンラートの極刑が正式に発布されてから二日後。
大勢の領民たちがウィンザム城の大広場に詰めかける中、大々的に公開処刑が行われた。無論パウルは見世物のように処刑を公開する趣味はない。今回はあくまでも憤懣やるせない領民たちの思いを、その気持ちを汲んだにすぎない。
断頭台に乗せられたコンラートに対し、領民はあらん限りの罵詈雑言と石をぶつけている。コンラートは今だ諦めていないのか、石で額を割られながらも必死に許しを乞うてきた。
「パウル公、どうかお慈悲をお慈悲をお慈悲をお慈悲をお慈悲をお慈悲を──」
繰り返されるどこか狂気じみた慈悲を求める言葉。目を異様にぎらつかせながら左右上下へと激しく動かしていた。そんなコンラートを一顧だにせず、オットーはパウルに向かって告げる。
「閣下、準備が整いました」
「──刑を執行せよ」
パウルの合図と共に、執行役である巨躯の兵士がミシミシと音を立てながら壇上に上がる。そして、断頭台の前に立つとスラリと長剣を抜いた。よく磨かれた刀身は太陽の光を浴びて煌々と輝きを放つ。すると、あれだけ騒がしかった領民たちの声がピタリと止んだ。最早なにを言っているのかわからないコンラートの叫びだけが響く中、固唾を呑んで見守る領民たち。
兵士はゆっくりと剣を上段に構えると一拍の間を置き、一気に振りぬいた。首はゴトリと音を立てて首桶に転がり──同時に地鳴りのような歓声が沸き起こる。
「オットー、後は任せる」
パウルは恐怖に満ちたコンラートの顔を一瞥した後、足早にその場を立ち去った。領民たちの歓声は止むことなく、いつまでもいつまでも続いていた。