前へ次へ
50/149

第四十五幕 ~どぶねずみは鬱陶しい~

「これは……想像以上に酷い」


 クラウディアが誰に言うともなく漏らした言葉は、カナリアの街の惨状を端的に表していた。街を囲う人の三倍高さのある木壁は、多くの箇所が崩れ去っている。丸太を抱えた男たちが粛々と修復作業を行っているようだが、遅遅として進んでいないようだ。


 やるせない思いを抱きながら街の中に入ると、さらに惨たらしい光景が目に飛び込んできた。多くの民家がどこかしら破壊されている状態だ。壁の至るところに点々と血の飛び散った跡が見受けられ、当時の状況を如実に表している。

 街の象徴とされてきた獅子の銅像も、跡形もなく破壊されていた。


「む、この臭いは……」 


 クラウディアは思わず顔を顰める。放置された死体でもどこかにあるのか、風に乗って微かに腐臭が漂ってくるのに気づいた。

 戦場で嗅ぎ慣れた臭いではあるが、だからと言って気分のいいものではない。アシュトンなどは眉を思い切りひそめながら、布きれで鼻を覆っていた。


 オリビアに視線を移すと、とくに気にしている様子は見られない。何やら興味深そうに街を見渡している。

 街の人々は腐臭に慣れきってしまったのだろう。とくに反応することもなく、一様に虚ろな表情を浮かべている。

 ただ黙って、独立騎兵連隊を遠巻きに眺めていた。


「どうやら報告以上に街の復旧が進んでいないようですね」


 アシュトンが周囲を見渡しながら固い声で呟く。


「ああ、そのようだな」


 かつては南部でも景観が美しい街として知られていたが、今やその面影は一切見られない。元の景観を取り戻すのに、いったいどれほどの時を費やせばよいのか。

 クラウディアには全く想像がつかなかった。



 

 街を警備する小隊長に挨拶するためアシュトンが馬を降りていると、オリビアの周りに子供たちが集まってきた。六~七歳くらいの男の子と女の子。そして、十歳くらいの男の子といった感じだ。

 どの子供たちも興味津々といった様子でオリビアを見つめている。どうやら子供の目から見ても、オリビアという少女は気になる存在らしい。


「お姉ちゃん。お人形さんみたいな顔して可愛いね」

「そうなの? ──あんまり自分の顔を気にしたことがないからなぁ」


 ボロボロの人形を抱いた女の子に声をかけられたオリビアは、頬を撫でながら答えた。その横で小さな男の子がしきりにオリビアの匂いを嗅いでいる。


「何か匂う?」

「うん。なんだかいい匂いがする」

「ああ、多分これのせいだね」


 そう言うと、オリビアは鞄の中から自慢げにクッキーを一枚取り出した。すると、子供たちの目が一斉に輝きだす。


「うわあ! お姉ちゃん。それ、お菓子っていう食べ物だろ?」

「うん、そうだよ。もしかして、食べたことないの?」


 その質問が余程意外だったのか。男の子は目を丸くしながら大きく首を横に振る。


「あるわけないよ。お菓子って、お金持ちの貴族が食べるもんだろ? 母ちゃんがそう教えてくれた」

「あはは、そんなことないよ。食べてみる?」


 オリビアがクッキーを差し出すと、男の子は目をぱちぱちとさせながら手を出したり引っ込めたりを繰り返している。子供なりに貰ってもいいものか、気にしているのだろう。


「い、いいの? おいら、お金なんて持っていないよ?」

「えー、そんなのいらないよ。ほっぺたが落ちるくらい美味しいって本には書いてあるけど、実際は落ちないみたいだから安心して食べていいよ」


 そう言いながら、オリビアは三人の子供たちに一枚づつクッキーを手渡していく。子供たちは満面の笑みを浮かべながらクッキーを頬張った。


「お姉ちゃん美味しい!」

「美味しい!」

「うわぁ! 何だこれ? 何だこれ?」


 子供たちは次々と感嘆の声を上げていく。その様子を満足そうに眺めているオリビアに、アシュトンは肩越しから声をかけた。


「ったく。何でクッキーなんてもっているんだよ──それで、まだクッキーは残っているのか?」

「うーんと……後、十枚くらいかな?」


 鞄を覗きこみながら答えるオリビア。それを訊いたアシュトンは、通り沿いに面した赤い屋根の建物──壁から顔をのぞかせている子供たちに視線を移す。


「ひい、ふう、みい……お、ちょうど人数とピッタリだな。それじゃあ、あの子たちにもクッキーをあげてやってくれないか?」

「ええっ!? ……私の……食べる分が……」


 オリビアは絶望したような表情を浮かべる。さらには鬼、悪魔などと、子供かと言わんばかりの罵倒を浴びせてきた。

 必死さここに極まるといった態度に、アシュトンは思わず吹き出してしまう。

 

「鬼でも悪魔でもいいけど。この子たちにあげて、あの子たちにあげないのは可哀想だろ?」

「じゃあ、クッキーを全部盗られる私は可哀想じゃないの?」


 頬を膨らませるオリビアの肩を、アシュトンはポンと軽く叩く。


「オリビアには今度ケーキをご馳走するから。実は王都に知る人ぞ知る美味しいケーキ屋があるんだ」

「ほんと!? 絶対に絶対だよッ!」


 オリビアが猛然と詰め寄る中、了承と受け取ったアシュトンは、子供たちに向けて手招きをする。戦争の余波でケーキ店が潰れていないことを祈りながら。

 子供たちはお互い顔を見合わせると、おそるおそるといった様子で集まってきた。


「えー今からこのお姉ちゃんが、美味しい美味しいお菓子をくれます。わかったらお姉ちゃんの前に一列に並んで──」


 アシュトンが最後まで言い終えないうちに、まるでよく訓練された兵士のように素早く並ぶ子供たち。その姿に思わず苦笑した後、オリビアに視線で合図を送る。オリビアは引きつった笑みを浮かべながら、子供たちにクッキーを手渡していった。

 最後の一枚を渡すとき、手が震えているように見えたのはきっと気のせいだろう。そう思うことにした。


「随分と優しいな」


 オリビアと子供たちの様子を見ていたアシュトンに、背後から柔らかい声が聞こえてきた。振り返ると、優しげな眼差しを浮かべながら、クラウディアが立っている。それがオリビアに向けての言葉なのか、それとも自分に向けての言葉なのか。

 アシュトンは一瞬迷ったが、おそらく二人に向けた言葉だろうと判断し、頬を掻きながら口を開く。


「まぁ、これくらいはいいでしょう。後は一日でも早くカナリアの街が復旧するのを祈るばかりです」

「──そうだな」


 クラウディアは言葉少なく答える。二人の視線の先には、子供たちに囲まれたオリビアが無邪気に笑っていた。



 ──翌日。


 休息と補給を終えた独立騎兵連隊は、子供たちに手を振られながらカナリアの街を後にした。オリビアは終始笑顔で手を振り返していたが、街の入口を出た途端、突然黒馬の手綱を引くと森の方向に視線を移す。


「少佐、どうかされましたか?」


 眉根を寄せるオリビアに、クラウディアは周囲を警戒しながら尋ねる。だが、返ってきた言葉は、取るに足らないものだった。


「またどぶねずみがちょろちょろしているなと思って」

「……はぁ。どぶねずみですか」


 クラウディアは軽く息をつき、肩の力を抜く。急に馬を止めて見るほど珍しいものだろうか。

 そう思いながら、森の方向に目を向けた。


 しかし、オリビアの言うどぶねずみなど全く見当たらない。そもそも、どぶねずみが平原のど真ん中を動き回るのも奇妙な話だ。


「私には何も見えませんが?」


 そう正直に伝えると、オリビアは興味を失くしたように森から視線を外す。黒馬の首筋に手を伸ばし、優しく撫で始めた。


「別に気にしなくていいよ。近づいてきたら踏み潰すから。さあ、行こう」


 黒馬は主人の意思に沿うように、悠々と歩き始めた。嬉しそうに艶のある黒毛の尻尾を高く振りながら。





 独立騎兵連隊の姿が見えなくなった頃。

 二人の男が森の中から姿を現す。帝国軍諜報部隊〝陽炎〟に所属するゾエ少尉とゼリー曹長だ。


「あの少女、この距離で我々のことに感づいたのか? ……まさかあれが噂の化け物……!?」

「いくらなんでもそれはないかと。遠眼鏡も持っていなかったようですし、単なる偶然でしょう」


 ゼリーは遠眼鏡を腰に戻しながら、さらに言葉を続ける。


「それよりも、奴らの軍旗を見ましたか?」

「──ああ、獅子に七つの星印。間違いなく第七軍だ」


 ようやく第七軍の尻尾を掴んだことに、ゾエはホッと息をつく。ローゼンマリーから矢のような催促が飛んでいたからだ。


「俺は奴らの後を追う。ゼリー曹長は、至急ローゼンマリー閣下に連絡を」

「はっ!」

「──それと、例の化け物かもしれないと合わせて伝えておけ」

「本気で言っているのですか?」


 ゼリーの呆れたような表情に、ゾエは目を細める。


「二度同じことを言わすな。いいから伝えておけ」

「は、はっ!」


 ゼリーは慌てながら木に繋いである馬の紐をほどいていく。その様子を横目で見ながら、ゾエは失踪した男の姿を思い浮かべていた。


(ゼノンはガリア要塞に潜入するとの連絡を最後に消息を絶った。化け物との関連性は不明だが、用心に越したことはないだろう)



お読みいただきありがとうございました。

前へ次へ目次