第四十四幕 ~少女はすこぶる機嫌が悪い~
ガリア要塞を発した独立騎兵連隊は、最初の目的地。カナリアの街に向けて行軍していた。
「少佐、見てください。大分暖かくなってきたので、花が咲き始めています」
澄んだ青い空に広がるエスト山脈を背景に、色とりどりの花が草原に咲き始めている。心地よい風が微かな甘い香りを運んできた。
後一ヶ月もすれば、辺り一面に咲き乱れることだろう。
「少佐、私の話を訊いていますか?」
「…………」
再度声をかけるも、オリビアは返事をしない。花に全く見向きもせず、口を固く引き結んで黒馬を撫でていた。
「はぁ。少佐、いい加減機嫌を直してください。これでは兵の士気に関わります」
「じゃあ、今から王都経由でエムリードに行く?」
「先程も申しあげましたが、それはできません」
クラウディアが拒否すると、オリビアは頬を大きく膨らませてそっぽを向く。なぜか黒馬まで不機嫌そうな雰囲気を醸し出しているのは気のせいだろうか。
時折嘶きながら、濡れた漆黒の瞳をこちらに向けてくる。馬を並べるアシュトンが何とか機嫌を戻そうと話しかけているが、あまり効果はないようだ。
オリビアは城郭都市エムリードに向かう途中、王都に立ち寄ることができると喜んでいた。ヴァレッドストーム家がなぜ断絶したのか、早く調べたいのだろう。
しかし、クラウディアがあっさり王都を経由しない旨を伝えると一転、オリビアは隠すことなく不機嫌をあらわにした。
ガリア要塞から城郭都市エムリードに到達するルートは、大きく分けて二通りある。ひとつはエスト山脈を越えて王都フィスを経由し、西に進むルート。
もうひとつはカナリアの街を北上し、砂漠に沿って東に進むルートだ。独立騎兵連隊は、後者のルートを選択した。
これは単純にホスムント率いる騎兵連隊が、前者のルートを選択した結果に過ぎない。拙速を重んじた第一陣と違い、第二陣である独立騎兵連隊は、索敵と情報収集に重きを置いている。
より広範囲から帝国軍の動向を把握するため、同じルートを辿っても意味はないからだ。ましてや軍である以上、私事でルートを変更するなどできようはずもない。
クラウディアは内心で嘆息すると、話を続けた。
「少佐、仮に王都に立ち寄ったとしても、調べ物をしている時間などありません。そもそも、簡単に王立図書館には入れません」
「……どうして簡単に王立図書館に入れないの?」
眉根を寄せながら理由を尋ねるオリビア。
「入館手続きに通常二日はかかります。それに信頼できる方の口添えも必要です。なにせ王立図書館に納められている本や資料は貴重な物ばかりですから」
「僕もすごく興味があるけど、平民は入館させてくれないからなぁ」
横から羨ましそうにアシュトンが呟く。そんなアシュトンに見向きもせず、オリビアは食い入るように問いかけてきた。
「じゃあ、私は中に入れてくれないの?」
「断言はできませんが、おそらくは……」
軽く言葉を濁したが、オリビアは最近まで平民だった人間。貴族に名を連ねるようになったからと言って、はいどうぞと簡単に入館させるはずもない。
大事なのは積み重ねてきた信用だ。貴族になりたてのオリビアに、信用などあるわけがない。それを口に出すことは決してしないが。
但し、何事にも例外というものがある。アシュトンは知らないようだが、平民でも莫大な金貨を積めば入館することが可能だ。
ただ、そんなことができるのは、極々一部の大商人くらいだろう。
「クラウディアの口添えがあっても入れないの?」
「うーん。どうでしょう。ユング家はそれなりに歴史のある家です。おそらく問題ないと思いますが、絶対大丈夫だとも言えないですね」
ユング家は数多の騎士を輩出してきた武門の名家として知られている。それでも辺境に居を構える一貴族に過ぎず、王都に別邸を構える力もない。
絶対大丈夫だと言わなかった理由は、こんな事情によるところも大きかった。
「じゃあ、絶対に大丈夫と言える人間は?」
額がぶつかるくらい顔を近づけてくるオリビアに、クラウディアは若干身の危険を感じながら考えを巡らす。すぐに思い浮かんだのは、実績、人望、家柄ともに申し分ないパウルだ。
おそらくオリビアが頼めば、パウルは喜んで口添えしてくれるだろう。だが、仮にも相手は大将の地位にいる人物であり、第七軍の総司令官。安易に私的なお願いを口にするのはよくない。
結局クラウディアは、オリビアに教えるべきではないと判断した。
(そうなると、特に気を使うこともなく、尚且つ確実に口添えが効果を成す人物か……)
クラウディアの目に浮かんだのは、自分と同じ淡い金髪をしたひとりの男性。
「そうですね。ナインハルト兄──准将ならまず間違いないですね。かなり人脈も広いですし、手続きに時間を取られるということもなさそうです」
「──ナインハルト准将?」
小さく首を傾げるオリビアを見て、クラウディアは苦笑する。何度か会ったことはあるはずだが、どうも記憶にないらしい。
オリビアの記憶力は図抜けているとアシュトンは評していたが、どうやら興味のない対象には意味を成さないようだ。
「お忘れですか? ザームエルを屠った少佐に礼を言いに来た人物がいたと思いますが」
「ザームエル?」
増々わからないとばかりに何度も首を傾げるオリビア。クラウディアがさらに容姿などを細かく伝えると、オリビアはハッと目を見開いた。
「思い出した! お魚の真似が上手くない人間だ!」
全く予想していなかった言葉に、クラウディアは思わず吹き出してしまった。従妹の目から見ても眉目秀麗と言っていいナインハルトを『お魚の真似が上手くない人間』などと表現した女性は、オリビア以外にいないだろう。ナインハルトに好意を寄せる女性が訊いたら、卒倒する話である。そんな人間がいればの話だが。
(これは是非、ナインハルト兄さんに訊かせたい話だな)
クラウディアが内心で悪い笑みを浮かべていると、オリビアはグッと拳を握りしめながら何度も頷いている。ナインハルトは、オリビアに恩義を感じている。
問題なく口添えしてくれるだろう。そう思いながらも、目下の任務に集中させるべく口を開く。
「少佐、ナインハルト准将にお願いするにしても、しっかりと任務を果たさなければいけません。でなければ、頼みごとも訊いてくれないと思いますよ」
「うん、クラウディアの言う通りだね! よーし! 頑張るぞおおっ!!」
拳を高々と上げながら笑顔を浮かべるオリビア。どうやら機嫌を直してくれたようだ。やはりオリビアに、不機嫌な顔は似合わない。
周りの兵士たちもそう感じているのか、一様に笑顔を浮かべていた。
クラウディアがホッと息をついていると、アシュトンが苦笑しながら労いの言葉をかけてくる。そのことがなんだか少しだけ嬉しかった。
それから二日後。
独立騎兵連隊はカナリアの街に到着した。
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