前へ次へ
40/149

第三十五幕 ~正式な任命~

 イリス平原の戦いは終焉を迎えていた。帝国軍左翼を指揮するヘイト少将は、総司令官であるオスヴァンヌ大将を始め、ゲオルグ、ミニッツといった各諸将を失い総崩れとなる中、ひとりでも多くの兵士を逃がすため頑強に抵抗を続けていた。

 ヘイト・ベルナ―少将、最後の意地であった。

 

 これに対しパウルは第一軍を掃討の任に当てると、自らはカスパー砦に向けて進軍を開始した。その途中、別働隊の伝令兵から衝撃の報告がもたらされる。


「馬鹿なッ! すでにカスパー砦を落としただとッ!」

「はっ、すでに我が別働隊の制圧下に置かれています」


 声を荒げるオットーに、伝令兵は笑みを浮かべながら同じ言葉を繰り返す。パウルが詳細を尋ねると、さらに驚愕の事実が伝令兵の口から語られた。

 カスパー砦攻略戦において、味方の死傷者は僅かに八名。ほとんどの帝国兵は抵抗することなく降伏したという耳を疑う話だった。


 過去の戦を紐解いてみても、砦を巡る戦いにおいて死傷者が一桁で済んだ話など訊いたことがない。パウルにしてみても、オリビアならたとえ寡兵であっても上手く敵の疲弊を誘うことができるのではないか。そんな思いから先鋒を任せた。

 それが僅か一日でカスパー砦を落とすなどと誰が思うだろう。これにはかつて鬼神と恐れられたパウルも、背筋が冷えるのを感じた。


「──話はよくわかった。オリビア少尉に警戒は常に怠るなと伝えておけ」

「はっ!」


 伝令兵は誇らしげに馬にまたがると、颯爽とカスパー砦方面に駆けていった。その様子を見送りながら、パウルはオットーに楽しげな口調で話しかけた。


「話を訊いた限り、オリビア少尉の活躍はまさに凄絶の一言に尽きるな。どうするオットー? 最早ケーキだけでは許してくれそうにないぞ」

「いい加減その戯言はお止めください……それよりも」

「臨時の軍師として作戦立案をしたアシュトンという新兵のことだろう? オットーはなにか知らないのか?」

「私も初耳……いえ、少々お待ちください」


 オットーは顎に手を当てながら記憶を探る。以前どこかでその名を訊いた覚えがあったからだ。


「──思い出しました。以前尋問室で少尉の口からその名を訊きました」


 忌々しい記憶だったのか、オットーの顔が急に険しくなる。尋問室と訊いてパウルは密偵騒ぎの件を思い出した。

 であるならば、パウルもあの場にいたので同じく話を訊いているはず。ガタがきている脳を必死に働かしていると、次第に記憶が蘇ってきた。


「──ああ、思い出したぞ。確かオリビア少尉が王都の美味しいパンを褒美に欲しいと言ったときにその名が出ていたな」

「その話は少尉の不愉快な発言を思い出すので、あまり口に出してほしくはありませんでした」


 そう言いながら増々険しくなるオットーの顔に、パウルは声を上げて笑うのだった。



 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 カスパー砦に到着してからのオットーは、目の回る忙しさだった。砦の奪取に成功したとはいえ、キール要塞の出方がわからない以上油断はできない。

 要所要所に兵を配置し、常時監視の目を光らせた。さらには制圧された近隣の街や村の奪回に、四千人の捕虜の処遇など問題は山積みだった。


 とくに捕虜の問題には頭を悩ませた。なにせ一度にこれほどの捕虜を抱えたことがなかったからだ。

 日々の食料だけでも馬鹿にならない。砦内倉庫にはかなりの量の食糧を備蓄してあったが、なるべく自軍の兵のために使いたかった。


 かといって降伏した者を処刑するわけにもいかず、労役を課そうにも砦周辺に良質な鉱石を採取できる鉱山もない。

 正直原因を作り出したオリビアに恨み言のひとつもこぼしたくなるオットーだが、さすがに筋違いなことはわかっていた。


 そうこうしている内に、二週間余りが経過した頃。オリビア、クラウディア、そしてアシュトンの三名は司令官室の前に立っていた。


「なあオリビア、なんでさっきから懐中時計とにらめっこしているんだ?」

「アシュトン知らないの? オットー副官は時間に厳しいんだよ。ちょっと遅れただけで鬼のような顔をするからね」

「いや、そんな話は初耳なんだけど。それに軍隊なんだから時間厳守は当たり前じゃないのか?」

「オリビア少尉も、アシュトンもお静かに。司令官室の前ですよ」


 クラウディアが窘めると、アシュトンは慌てて口を引き締める。オリビアは全く気にする様子もなく、気軽に扉をノックした。


「オリビア少尉、クラウディア准尉、アシュトン……ねえ、アシュトンって階級なに?」

「二等兵だよ。二等兵」


 アシュトンが小声で囁くと、オリビアは「二等兵なんだ」と大声で言いながら、再び扉をノックする。


「オリビア少尉、クラウディア准尉、アシュトン二等兵。時間通りに──」

「もういい。わかったからさっさと入ってこい」


 オットーの呆れたような声に従い、オリビアは扉を開ける。そこには執務机に座りながら笑っているパウルと、隣で頭を振っているオットーの姿。

 オリビアたちが敬礼すると、パウルは目を細めながら敬礼を返す。アシュトンは間近で見る総司令官の姿に、身が固くなるのを感じていた。


「よく来たな。わざわざ足を運んでもらったのは他でもない。今日は──」

「もしかしてケーキですか?」


 オリビアが食い入るように言葉をかぶせると、オットーがひくっと頬を引き攣らせながら口を開く。


「少尉はケーキにしか興味がないのかね?」


 そう言いながら、底冷えのする視線をオリビアに向けるオットー。オリビアはとくに気にする風もなく、実にあっけらかんとした口調で答える。


「そんなことありません。本を読むのも好きですね」

「ほう、知識を蓄えるのは結構なことだが、貴様の好みを聞くためにわざわざ司令官室に呼んだわけではないぞ」


 クラウディアがオットーにひたすら頭を下げる中、パウルは豪快に笑う。


「オリビア少尉は相変わらずだな。すまないがケーキはガリア要塞に帰ってからの楽しみにしておいてくれ。今日は別の件で呼び出したのだ」

「……は、了解しました……」


 あからさまに意気消沈するオリビア。その様子にパウルは困ったような笑みを浮かべると、アシュトンに視線を向ける。


「アシュトン・ゼーネフィルダ―二等兵」

「ひゃ、ひゃい!」


 突然声をかけられたアシュトンは、緊張のあまり声が裏返ってしまった。そんなアシュトンに対し、パウルは頬を緩ませながら口を開く。


「そんなに緊張しなくてもよい。クラウディア准尉より詳しい報告は訊いている。カスパー砦においての軍略、誠に見事な手並みだった」

「は、は、はい! あ、ありがとうございます! ですがオリビア少尉がいなければそもそもこの作戦は成り立たなかったわけで僕──じゃなくて自分といたしましては──」


 アシュトンは一気に言葉をまくし立てる。パウルはそんなアシュトンに苦笑すると、軽く手を挙げ制す。


「ふふ。確かにオリビア少尉がいなければ、こうも易々とカスパー砦を落とすことはできなかっただろう。だがそれも、アシュトン二等兵の作戦があったればこそと訊いている──そうだろう。オリビア少尉?」


 パウルの問いに、オリビアは当然とばかりに大きく頷く。


「間違いありません。アシュトンのおかげで簡単に砦を落とすことができました」

「お、おい! オリビア少尉!」

「え? だって本当のことじゃない。あ、後ね、オットー副官の前では私にも敬語を使った方がいいよ。怒られるから」

「ちょっ!? おまっ! 今それを言うのかッ?」

「二人とも、いい加減にしないか。パウル閣下のお話は終わっていないぞ」


 オットーの叱責が飛ぶ。


「それとアシュトン二等兵。少尉の言う通り、上官には敬語を使いたまえ」

「はっ、申し訳ありませんでした!」

「よいよい。それよりもだ。臨時ながらもオリビア少尉の軍師に命じられたそうだが、どうだろう? 正式に軍師としてオリビア少尉の下で働く気はないか?」


 思いがけないパウルの言葉に、頭の中が一瞬真っ白になる。オリビアの半ば強引な命令で、一時的に軍師という役割を担ったに過ぎない。

 まさか正式に軍師の話が出るなどと思ってもみなかった。


(冗談……を言っているような顔じゃないな)


 パウルの顔は至って真剣そのもの。それだけにアシュトンとしては返答に悩む。今回は古代戦史に関する本を読んでいたおかげで作戦を思いついたに過ぎない。

 いつでも状況に見合った作戦案が提示できると思うほど自惚れてはいない。そう思いながらオリビアに目を向けると、にっこりと微笑んでくる。


(ああ、そういう笑顔は反則だよなぁ)


 アシュトンは顔が熱くなるのを感じながら、パウルに目を向けた。


「どこまでやれるかはわかりませんが、お受けしたいと思います」

「よくぞ申した──では、早速だが軍師として少し知恵を貸してもらいたい」

「は、はい! どういった内容でしょうか?」


 内心でいきなりかと叫びながらも、努めて冷静に質問する。だが、そう思っているのは本人だけらしい。

 パウルとオットーが苦笑する様子から見ても、それは明らかだ。


「まあ、そう身構えんでくれ。説明はオットーが行う」


 オットーはオリビアたちの前に歩み出ると、四千人に及ぶ捕虜の食糧問題。さらには労役の問題など事細かに説明していく。

 途中で話に飽きたらしいオリビアが大きな欠伸をするたびに、オットーは右拳を震わせクラウディアはひたすら頭を下げていた。


「──どうだねアシュトン二等兵。なにか良い解決案があれば遠慮なく述べてくれ」


 どう見ても遠慮なく意見を言えるような顔つきではなかったが、アシュトンはしばらく頭の中を回転させると、ひとつの答えを導き出す。


「て、帝国軍と交渉してお互い捕虜を交換するというのはどうでしょうか? これには二つのメリットがあります」

「ほう……詳しく聞かせてもらおうか」


 オットーから鋭い視線を向けられて、思わず尻込みしてしまう。どうも軍人特有の威圧的な雰囲気は未だに慣れない。


「は、はい。交渉が成立すれば、今抱えている問題が一気に解決できることがひとつ。もうひとつは、兵士が戻ってくることにより戦力の増強が図れます」

「……言いたいことはわかるが、それは帝国も同じではないのかね?」


 オットーは完全に否定しないものの、あまり意味がないと思っているようだ。当然その点を問われるが、アシュトンとしては十分意味があると思っている。


「もちろんそうですが、今の状況からすると王国軍によりメリットがあると思います。なにせ僕のような満足に武器を扱ったことのない人間が前線に出るくらいですから」


 痛いところをつくとばかりにパウルとオットーが顔を顰める中、アシュトンは話を続ける。


「さらに言えば人道的な見地から見ても、帝国軍も交渉のテーブルに着かざるを得ないと思います。断れば民衆からどんな非難を受けるかわかりませんので」


 賢帝ラムザの名は大陸中に轟いている。その名を自ら貶めることはしないだろうとアシュトンは追加で述べた。


「なるほど……通常捕虜交換は高位の人間。たとえば王家に連なるものが捕まった場合などに考える手だ。一般兵士を対象とした例は過去一度もない。だが、十分考慮に値する意見だな」


 オットーはひとしきり顎を撫でると、パウルに視線を向ける。


「うむ。至急会議を行う必要があるだろう。実に有意義な意見だった。アシュトン二等兵、これからも頼むぞ」

「は、はっ!」


 ぎこちない敬礼をするアシュトンに、堂のいった敬礼を返すパウル。三人を退出させると、ポケットから葉巻を取り出し、火をつけた。


「……どうやらカスパー砦で披露した軍略は、たまたまというわけでもなさそうですね。少なくとも捕虜交換の件は、私にはできなかった発想です」


 三人の遠ざかる足音を聞きつつ、オットーはパウルに話しかける。


「あのような歴史に残る偉業をたまたまやられては、わしらの立つ瀬がない。それこそ相手からすれば、たまったものではないがな」

「まあ、それは言えるでしょうね──では、早速草案の作成に入りたいと思います」

「ああ、頼んだぞ」


 オットーの退出を見届けながら、パウルは葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。 


お読みいただきありがとうございました。

前へ次へ目次