第九幕 ~少女は雨に微笑む~
──ガリア要塞 練兵広場
銀色の月は闇の衣を纏うかのごとく姿を隠し、激しい雨がまるで恨みをぶつけるがごとく地面を叩きつける中、練兵広場に忍び寄るひとりの男。闇と同化するような黒装束を身に纏い、顔も黒い仮面で覆われている。
帝国軍諜報部隊〝陽炎〟に所属するゼノン少尉だ。
彼は衛兵の目を巧みに潜り抜けながら、練兵広場の片隅に生えている一本の大樹へと近づいていく。すると、大樹の陰から黒いコートを着た男がゆっくりと姿を現した。
「ゼノン少尉。お久しぶりです」
声をかけてきたのは密偵としてガリア要塞に潜り込んでいる諜報員──モーリス曹長である。
「挨拶はいい。報告を」
「は、王国軍に動きはありません。あくまでも要塞を堅守することに固執している模様です」
「兵数はわかったか?」
「はい。およそ四万くらいかと」
ゼノンは満足げに頷く。
「上出来だ。他には?」
「ひとつ、気になることが」
「話せ」
「我が軍の兵士の首を多数持参した少女が志願してきました」
モーリスの意外な言葉に、ゼノンは一瞬驚いてしまった。まさか噂の少女が、ガリア要塞にいるとは思っていなかったからだ。同時にゼノンは己の浅慮に気づき舌打ちする。よくよく考えれば、ガリア要塞と王都は最短距離で結ばれている。
少女が王都に向かう途中に足を延ばしたとしても、何ら不思議はない。むしろ、まっさきに考慮し、モーリスに接触を図るべきだった。これは明らかに失態だ。
「……その女の髪は銀髪か?」
「ええ、おっしゃる通りです。既に少女のことをご存じで?」
完全に情報と一致している。ゼノンは内心で嘆息しながら首肯する。
「ああ、なにせザームエル大尉を殺ったほどの相手だからな。そのことで一時は大騒ぎになった」
「あの〝暴突〟を!? そんな馬鹿なッ!」
今度はモーリスが驚く番だった。ゼノンは素早く周囲を見渡す。
「雨音が大きいとはいえ、あまり声を立てるな。俺も最初は耳を疑ったが、厳然たる事実だ」
「すみません……ただ、これでいきなり准尉待遇だった謎が解けました。しかし、あの少女が殺ったとは──まさか!?」
モーリスはわなわなと唇を震わすと、何かを考え込むように黙ってしまった。ここが敵地である以上、悠長に口が開くのを待っている余裕はない。ゼノンは内心で舌打ちしながら話の続きを促す。
「どうした? 何か気づいたのなら早く話せ!」
「あ、はい。どうやらその少女は神殿に住んでいたらしく、魔法士の可能性もあるのではないかと」
「何!? 魔法士だと! ……もしその話が本当だとしたら非常に厄介だな」
そのままお互い沈黙する。すると激しい雨音に混じり、鈴の音のような声が二人に響いてきた。
「えー。私、魔法士じゃないよ」
「「──ッ!?」」
突然背後から声をかけられたゼノンたちは、地面を蹴り上げ左右に散る。剣を抜き放ちながら声のした方向に振り返ると、
「お前は」
そこには全身ずぶ濡れの少女がいつの間にか立っていた。
モーリスの口から驚きの呟きが洩れる。
「ねえ、こんな雨の日にこんなところで何してるの? 夜間訓練? 風邪引いちゃうんじゃないかな」
少女は全く雨を気にしていないのか、ぐっしょりと濡れた銀髪を弄りながら微笑みかけてきた。
「銀髪の少女……」
「例の少女です」
モーリスは短く答えた。
「やはりそうか」
ゼノンは懐から素早くナイフを取り出し、少女の顔面に向けて放つ。通常のナイフとは違い、投擲用に特化された棒状のナイフだ。しかも、闇に溶け込むよう黒く塗られている。
常人では見切れないスピードで飛ぶナイフを。
闇に溶け込み距離感を掴むことが困難なナイフを。
少女は僅かに体を捻るだけで易々とかわす。さらに胸、手、足と続けざまに放つも、一本たりとも体に届かない。まるで幻影に向けて放たれたかのように、漆黒の闇へと消えていった。
(ほう、あれを全てかわすか……さすがザームエル大尉を屠った相手ということか)
ゼノンは舌なめずりすると、素早い足さばきで少女との距離を詰めに行く。対して少女は、全く動く気配が感じられない。剣を抜く素振りも見せないどころか、ニコニコと笑みを浮かべているだけ。
ただ、漆黒の瞳が、ジッとゼノンを見つめてくる。
──自分を強者と信じるがゆえの驕り。そう思っていたゼノンの背筋に、突如ゾクリとした悪寒が走る。と同時に、未だかつて味わったことのない感覚が体中を駆け巡った。殺気とはまるで違う。もっと酷く恐ろしいもの。
あえて言葉を紡ぐなら、〝死〟そのものが覆いかぶさるかのような感覚。
(この感覚はかなりまずい! 一旦距離を置き、相手の出方を窺うべきか!?)
ゼノンは己の感覚というものを重視する。それが時に生と死を分かつ重要な要素であるということを理解しているからだ。実際この感覚を頼りに、ゼノンは何度も死の腕から逃れてきた。
だが、すでに少女との距離は詰まっている。回避行動をとれば、逆撃を受ける可能性は非常に高い。しかも、先程のナイフを避けた技量を推し量れば、致命傷ともなりえるだろう。ゼノンは思考を加速させる。
──死を覚悟した攻撃か。
──死を覚悟した回避か。
究極の二者択一。
ゼノンは一瞬で覚悟を決めると、さらにスピードを上げる。剣の届く距離まで近づくと、右手に握っていた得物を少女に見せつけるよう地面に投げ捨てた。
「えっ!?」
少女は驚きの声を発すると、不思議そうに投げ捨てた剣を見つめている。全く意味がわからないといった感じだ。
(かかったッ!)
策が成功したことに、ゼノンは柄にもなく女神シトレシアに感謝した。今、自身の顔を鏡に映したら、さぞかし歪な笑みを浮かべているに違いない。そう思いながら、ゼノンは腰の紐を勢いよく右手でひっぱる。すると、カシュっと小気味よい音を発し、左の袖口から隠し剣が飛び出した。そのまま突き上げるように、少女の喉元に突き立てるゼノン。死角をついた必殺の一撃。まさに決まれば見事な策だったのだが。
「そ、そんな馬鹿……な……」
それを見たゼノンから、絶望の呟きが漏れた。少女は隠し剣を半身でかわすと、そのまま体を回転させ剣を一閃してきた。胴体に剣がめり込むとブチブチと筋肉が断裂し、骨の砕かれていく音が脳内に響き渡ってくる。
それをどこか別の世界の出来事のように感じながら、ゼノンの視界は漆黒に染まっていった────
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「ふーん。何だか面白いことを考えるね。そういえば、私もゼットに色々と教えてもらったなー。でもね、全体的に遅いよ。もう少し素早く動く訓練をするべきね」
オリビアは剣を鞘に納めると、上半身と下半身が分かれたゼノンに向かって話しかけている。無論、ゼノンが言葉を返すことは永遠にない。その異様な光景に、モーリスの体はガタガタと震えはじめる。決して雨のため体が冷えたとかではない。単純に純粋な恐怖からくる震えだ。
「──私ね。雨って好きなの」
オリビアは空を見上げながら、唐突に意味不明なことを言いだす。モーリスは震える足を無理矢理後退させながら、言葉の意味を尋ねる。
「な、何が言いたい?」
「だってさ。ほら見て。あんなに血飛沫が舞ったのに、綺麗に雨が洗い流してくれる。これって素敵なことだと思わない?」
まるで舞い踊るように華麗なステップを踏みながら、モーリスの正面に向き直るオリビア。血と雨にまみれた顔は、満面の笑みに溢れていた。
「──ッ」
モーリスは即座に踵を返すと、全速力で逃げ出した。諜報部隊の中でも屈指の実力者であるゼノンが、あっというまに殺られたのだ。モーリスも修羅場をくぐった経験は一度や二度ではない。腕にもそれなりに自信がある。
それを考慮しても戦ってどうにかなる相手ではない。そのことをわかりすぎるくらいわかっていた。
(万が一に備えて、脱出経路は確保している。今俺にできることは、現時点の情報を帝国に持ち帰ることのみ。化け物に殺されるなんてまっぴらごめんだ)
だが、走り出してすぐに何かにつまずき派手に転んでしまった。転んだ拍子に泥水が喉に入り、激しく咳き込む。それでも慌てて立ち上がろうとするが、足が全く動かない。無理やり体を起こし足下に視線を移すと、──膝から下が綺麗に切断されていた。地面におびただしい鮮血が流れ出ている。
「があ“あ“あ“あ“あ“あ“っっ!!」
「ごめんね。いきなり逃げ出すから、思わず切っちゃった。一応、これ返すね」
小走りで近づいてきたオリビアが、モーリスの両足をそっと眼前に置く。
「実はふたりの話を訊いていたから、最初から密偵って知っていたの。こういうときは何て言うんだっけ? ……ええと……思い出した! 『貴様を捕虜として拘束する』ね、どう? 軍人っぽいでしょう」
オリビアは敬礼しながら、無邪気に笑っている。その姿はまるで悪魔か死神か。モーリスは痛みと恐怖から逃れるため、進んで意識を手放した。
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