第百二幕 ~撤退~
少しだけ長めです
──ストニア軍 本陣
「ローラント中佐討ち死にッ!」
「ラインバック大佐討ち死にッ!」
「エーベルハルト准将討ち死にッ!」
入れ替わり立ち代わり青ざめた伝令兵がやってきては、ストニア軍でも名だたる将校の討ち死にの報を知らせてくる。本陣はこれ以上ない動揺が広がっていた。
(ある程度予想はしていたが、やはりこうなってしまったか……)
フェリックスは内心で呟く。遠眼鏡越しに映るのは、無数の蔦に絡まれ身動きが取れなくなったストニア軍の兵士。別の方向に遠眼鏡を向けると、雨雲一つない空から降り注ぐ紅の雨によって、狂乱に満ちた光景が広がっている。
これは明らかに魔法が発動された証であり、少なくとも聖翔軍に二人の魔法士がいることがわかった。
(ひとりは束縛系の魔法。おそらくアメリア・ストラストの仕業で間違いないだろう。もうひとりは火炎系統。しかも、広範囲魔法か……魔法士の中でもかなりの手練れに違いない。神国メキアは予想以上に優秀な駒を揃えている。小国だが決して侮ることはできない。ストニア軍には気の毒だが、これは貴重な情報だな)
そんな感想を抱いているフェリックスのもとへ、オーギュストが鬼の形相で近づいてきた。
「フェリックス殿! あれはいったいどういうことですかッ!」
「あれとは?」
フェリックスが平然とした態度で答える。すると、オーギュストが殴りかからんばかりの勢いで掴み上げてきた。スラリと引き締まったフェリックスの体が僅かに浮く。その様子を見て、隣に控えていたテレーザ少尉が怒声を上げた。
「オーギュスト殿! その手をお離しください! フェリックス閣下に対し無礼ではないですか!」
「やかましいッ! 小娘風情は黙っていろッ!」
「こ、小娘風情……!?」
オーギュストの一喝に、テレーザはみるみる顔を紅潮させていく。フェリックスはそんな彼女の肩にそっと手を置いた。
「閣下……」
「オーギュスト殿は少々興奮されている。気にすることはありません」
「ですが閣下に対し──」
「私は大丈夫です」
言ってフェリックスは微笑んでみせた。
「オーギュスト閣下、少し落ち着きください。相手は仮にも帝国三将です」
後を追ってきたセシリアが、オーギュストに冷静になるよう求めた。オーギュストはというと、大きな深呼吸をひとつし、ばつが悪そうに手を引っ込める。二度三度と咳払いをした後、再び同様の言葉を重ねてきた。
「無礼は詫びよう。では、改めて聞きますがあれはいったいどういうことですか?」
「あれとは魔法のことをいっているのですか?」
「……そんなことは聞くまでもないだろう。聖翔軍に魔法士がいるなど寝耳に水だ……まさかとは思うがフェリックス殿は知っていたのではあるまいな?」
怒りを湛えていたオーギュストの目が一転、疑惑に満ちたものへと変化していく。彼ほどではないにしても、セシリアもまた同様の目を向けてきた。
「聖翔軍に魔法士がいることを?」
「そうだッ!」
再び声を荒らげ始めるオーギュストに対し、フェリックスは事もなげに答えた。
「ええ、もちろん知っていました」
「なっ……!? 知っていてなお伏せていたということか!?」
「その通りです」
「なぜだッ! 予め知っていたら──」
「知っていたらまともに戦うこともできなかったのではないですか?」
フェリックスはオーギュストの言葉を遮り断言した。
「魔法士とは人の領域を踏み越えし者。少なくとも帝国軍ではそう認知されています。おそらくストニア軍でも同じですよね?」
「ああ、魔法士は人であって人に
「だからこそです。ただでさえ兵の士気が低いうえに、魔法士の情報はストニア軍にとって致命的な猛毒となり得る。この判断に間違いがあったとは思えませんが」
帝国に限らずほとんどの国の民は魔法を単なるおとぎ話の産物だと思い込んでいる。軍人なら魔法士の存在を認識しているが、それでも実際魔法を目にした者はほとんどいないだろう。それだけ魔法士は希少の存在であり、またそれゆえに神格化され、畏怖の対象となっているのだ。
「……なるほど、確かにそうかもしれない。だが、誰のせいで兵の士気がこれほど低いと思っているんだ」
オーギュストは拳を震わせながら言った。
「失礼ながらそれも含めてなんとかするのがストニア軍元帥たるオーギュスト殿の務めかと。経緯がどうであれ、最終的に戦うと決めたのはあなた方なのですから」
「ぐぬぅぅ…………」
「──フェリックス殿。お話を聞く限り、魔法士のことをそれなりに存じているようですが?」
押し黙ったオーギュストの代わりにセシリアが口を開く。その問いに対し、フェリックスは軽く頷いてみせた。
「ええ、セシリア殿の仰る通り、それなりの知識は持っているつもりです。縁あって少々変わり者の魔法士を知っていますので」
「そうですか……私は残念ながら魔法士について通り一遍のことしか知りません。もしよろしければ知識の一端をお授けいただくことは可能でしょうか?」
言ってセシリアは深々と頭を下げてきた。煌めく黄金色の髪が肩からはらりと零れ落ちる。オーギュストは怫然とした表情で口を開いた。
「セシリア総参謀長。そこまでへりくだる必要はないだろう」
「閣下、一旦は成功した我々の策は魔法の前に呆気なく崩れさりました。こうなった以上些末なことを気にしているときではありません。今や全軍崩壊の危機が迫っているのですから」
オーギュストに諫言したセシリアは、改めてフェリックスに教えを乞うてきた。
「セシリア殿、どうか頭をお上げください。もちろんお教えいたします。こうなった以上、情報を持っているのに越したことはありませんから」
フェリックスは説明を始めた。
魔法士が魔法を放つ際は必ず左手が起点となること。
魔法の威力によって発動までに時間の差があること。
そして、魔法の源である魔力は無限ではなく、使い過ぎれば即死に繋がるリスクがあるこということを。
セシリアは時折相槌を打つものの、とくに口を挟むこともなく、終始黙って話に聞き入っていた。
「──なるほど。神がかった力を行使するには、それなりの制約や代償があるということですか……」
フェリックスは大きく頷いた。
「その通りです。人の領域を踏み越えてはいますが、決して無敵の存在というわけでもありません。剣で斬りつければ当然血も出ますし、それが急所なら死に至るでしょう。やりようはいくらでもあります」
そう言い放つフェリックスに、セシリアは内心で苦笑した。なるほど確かにフェリックスの話には同意できる部分もある。が、帝国最強と謳われる男だからこその発言ともとれる。只の兵士が対処できるとは到底思えない。
魔法士を前にしても臆した様子を微塵も見せない男の姿に、
(彼はきっと……ううん。間違いなく魔法士と刃を交えた経験があるに違いない。そして、今もこうして生きている。おそらく魔法士に匹敵するなにかを持っている……)
それがなにかは皆目見当がつかないが、そうセシリアは結論付けた。
「閣下、ここは即座に撤退しましょう。フェリックス殿の話を聞く限り、時間があれば魔法士に対しいくつかの策を講じることも可能かと思われます。ですが今はその余裕がありません」
セシリアの言葉に、フェリックスは「ほう」と感心した様子を示す。一方オーギュストはわなわなと肩を震わせ、セシリアをねめつけてきた。
「……このまま、このままおめおめと引き下がれというのか?」
望んだ戦いではないにしても、武人としての矜持が許さない。オーギュストの憤怒に満ちた表情が如実にそのことを物語っている。セシリアは大きく頷いてみせた。
「遺憾ながら。最早兵士の士気は無きに等しいでしょう。二倍の兵力差など焼け石に水。何の意味もありません」
「……帝国がそれで納得するとも思えんが」
オーギュストは怨嗟の籠った目をフェリックスに向けた。
「納得してもらうのです。我々は今回の戦いにほぼ全ての戦力を投入しています。ここで全滅すればストニア公国に未来はありません。いずれデュベディリカ大陸の地図から姿を消すことになるでしょう。現時点で帝国がそれを望むとも思えませんので」
あくまでも噂ではあるが、ここにきてファーネスト王国軍が劣勢を覆し始めていると聞く。それが真実であれば帝国の〝盾〟としてストニア公国の利用価値はまだあるはず。そう判断したセシリアは、両腕を組みジッとたたずんで話を聞いているフェリックスに向き直った。
「フェリックス殿、それで構いませんね」
聞いたセシリアに、フェリックスはしなやかな指で頬をかき、僅かに口の端を上げる。
「お二人ともなにか勘違いをしているようですね」
「なにを勘違いしているのでしょうか?」
訝しむセシリアを見て、フェリックスは殊更に襟を正す。
「私はあくまでも軍事顧問。助言こそすれストニア軍の決定に異議を挟む立場ではありません」
「自らけしかけておいてどの口が言う」
オーギュストが吐き捨てるように言った。
「まぁ、否定はしません。それよりも撤退するなら急ぐべきです。このまま時を逸すれば撤退そのものが至難の技になるかと」
「閣下、フェリックス殿の言う通りです。今この時も聖翔軍の勢いは増しています。どうか撤退のご指示を」
再度懇願するセシリアに、先程から固く握りしめられていたオーギュストの拳が緩やかにほどかれ、大きな溜息がひとつ落とされた。
「──全軍に撤退の指示を」
「はっ! ただちに!」
──聖翔軍本陣
白銀に輝く重厚な六輪戦車から戦況を見守っていたラーラは、ゆっくりと腰を上げた。
「どうやらストニア軍は撤退を始めたようだな……」
「アメリア様とヨハン様の魔法が功を奏したようですねぇ」
ラーラの呟きとも取れる言葉に、戦車の脇に控えていた女が眠そうな声で反応を示す。
この者の名はヒストリア・スタンピード。寝癖のついた髪や気だるげな表情からは想像もつかないが、ラ・シャイム城において最後の門を守護する衛翔であり、またラーラにとっては部下であると同時に幼少の頃からの友である。
「ヒストリア。少しはシャキッとしろ。今は戦争中だぞ」
「そんなこと言われても無理です。生理的欲求には逆らえません」
ヒストリアは半分だけ開かれた銀眼をこすりながら何度も大きなあくびをする。
「全く……仮にも十二衛翔筆頭だろう。これでは衛士たちに示しがつかん」
「別になりたくてなったわけじゃありませんので」
ヒストリアがため息交じりに言う。その言葉にラーラの顔の一部がヒクヒクと痙攣し始めた。
「ほほう……聖天使様が決められたことになにか不満でもあるのか?」
「出た。出た出た。ラーラは本当に聖天使様が好きだよねー」
からかうようなヒストリアの発言に一転、ラーラは耳朶が急激に熱くなるのを感じた。
「ヒストリア、皆の目もある。公の前でため口は止めろ」
「はいはい。申し訳ありませんでした。 ──それで、これからどうします? 個人的には撤退するならどうぞお好きにって感じなんだけど」
相変わらずの眠たげな声でヒストリアが尋ねてくる。
「なにを馬鹿なことを。無論追撃戦を行う。神聖なるメキアの大地に土足で足を踏み入れたのだ。その報いはしかと受けてもらう」
「ま、ラーラならそう言うよね」
ヒストリアは派手な溜息を漏らす。
「だからため口は止めろと言っただろう」
ラーラが強く窘めると、ヒストリアは殊更に大きく肩を竦めてみせた。
「はいはい。わかりました」
「返事は一回でいい。
「……だからその本気で恥ずかしい異名止めてくれる?」
一瞬で眠気が吹き飛んだように鋭い視線を向けてくるヒストリアに対し、ラーラは軽い笑みをもって応える。スタンピード家は元々文に秀でた家柄だが、幼少の頃より剣を自身の手足のように扱う彼女の出現で、今や武の家柄と勘違いするものが後を絶たない。
純粋な剣での勝負ならラーラですら足下にも及ばないほどの逸材である。
「ふっ。そうはいうがアンジェリカなどは喜んでいるみたいだぞ?」
「あんな年中お花畑で能天気な女と一緒にしないでッ!」
「だったらちゃんとしろ」
「はぁ……わかったわよ」
ヒストリアは鐙に左足を掛け颯爽と白馬に跨ると、腰の長剣を抜き放ち高々と天に掲げた。そこに先程までの気怠い雰囲気は微塵もない。別人とばかりに美しくも気高い女性の姿が、衛士の視線を否応なく集めていく。
「聞け! 我が親愛なる衛士諸君! 皆の活躍により我が軍の勝利はほぼ確定した! だが、これで終わりではない! 愚かにも牙を剥いたストニア軍に対し、これより聖なる鉄槌を下す! これをもって聖天使様への忠誠の証とせよ!」
「「「応ッ!!!」」」
「──ラーラ聖翔、号令を」
振り返ったヒストリアに促され、ラーラは颯爽と左手を振るう。
「進撃を開始せよ」
ラーラの命令と共に三頭立ての馬が嘶き、戦車は戦場を疾駆する。ほぼ同時に一万三千の衛士は鬨の声を上げ、高らかな蹄の音を響かせながら進撃を開始する。
聖翔軍とストニア軍の戦いは僅か半日にして終幕へと向かっていった。