第九十八幕 ~調子に乗る少女~
コルネリアスの執務室を辞去した後、中庭へと続く廊下を渡ったところでクラウディアの足がピタリと止まった。オリビアは振り返ってクラウディアを見る。
「どうしたの?」
「
「え? もうお昼だよ。食堂に行って一緒にご飯を食べようよ」
オリビアは懐から銀色の懐中時計を取り出し、蓋を押し開いてクラウディアに見せてあげる。針は丁度お昼の時刻を指していた。
「申し訳ありません
オリビアは小首を傾げた。第八軍新設の準備がお昼を食べることより大事なこととは思えない。腹が減っては戦はできないと本にも書かれていたし、なによりオリビア自身そう思う。そんな感想を抱いていると、襟元に付けられた真新しい階級章とオリビアを交互に見つめては、クフフと悦にいったように笑うクラウディア。
──怖い。
オリビアは素直にそう思った。
「そ、そう。なら私はひとりで食堂に行くね」
クラウディアは一転、キリッとした表情で敬礼した。心なしかいつも以上に背筋がピンと伸びている。
「はっ! ごゆっくりとお食事をなさってください。また後程お伺いいたします。
「う、うん。それじゃあ、また後で」
オリビアが手を振る中、「さあ、忙しくなるぞぉ」と呟き、まるで雲の上を歩いているかのような軽やかさでクラウディアは去っていく。淡い金色の髪もどこか楽しげに揺れていた。
その姿を畏怖を込めた目で見送ったオリビアは、前言通り高級士官専用の食堂に向かって歩き出す。何回か城には足を運んでいるので、道に迷うことはなかった。
(うーん。それにしても閣下をやたら強調していたなぁ。クラウディアはいつも私のことを階級で呼ぶからそこまで違和感はないけど……閣下ねぇ。やっぱり少しは偉そうにしたほうがいいのかな? パウル大将やコルネリアス閣下はあんまり偉そうにしないけど、他の人間は大体偉そうだし……)
オリビアはふと窓に映る自分の姿に気づき、ためしに両腕を組んで仁王立ちしてみた。服装に頓着がないオリビアだが、濃紺を基調とした軍服はそれなりに似合っていると思っている。銀髪との相性も悪くはない。けれど、残念なことに偉そうには見えない。難しそうな顔をしてみたり、色々とポーズを替えてみたりもしたが、どうにもしっくりこなかった。
(やっぱり私には似合わないみたい。そもそも偉いってことがどういうことなのかよくわからないし。でも一度くらいは挑戦してみたいなぁ。せっかく少将になったんだから)
そんなことを考えながら再び廊下を歩いていると、向かい側から測ったかのような正確な歩幅で歩いてくる人間──しかめっ面をしたオットーの姿を捉える。またの名を〝歩く軍紀〟〝規律大好き人間〟とも言う。名付けたのは当然オリビア。
オリビアはコルネリアスと雑談の折、パウルたちも登城していると聞かされていたのを思い出した。
(あはっ、早速少将の位が役に立つときがきた。しかも、オットー副官だよ。これはもう女神シトレシアの思し召しってやつだね!)
オリビアはピンと小気味よく階級章を弾くと、目立つように何度も咳払いしながら歩いていく。できるだけ偉そうな雰囲気を醸し出すため、あえて両手を後ろに組みながら。オットーはそんなオリビアに気づくと、素早く壁際に寄り敬礼した。
(わっ! オットー副官が私より先に敬礼した! これはもう事件だよ!)
オリビアは驚きと同時に漏れ出そうになる笑いを必死に耐える。どうやらアピールするまでもなく、少将昇進の件はオットーに伝わっているらしい。
「オットー副官、随分と久しぶりだな」
調子という大波に乗ったオリビアは、あえて偉そうな言葉遣いで話しかけてみた。オットーは顔色一つ変えることなく、すぐさま返事を返してくる。
「はっ、お久しぶりでございます」
しかも、
「ぷぷっ!」
「……なにか可笑しいことでも言いましたか?」
堪えきれずに笑ってしまうと、オットーが訝しげな視線を向けてくる。最近は多少慣れてはきたものの、本当なら聞くのも嫌な敬語。にもかかわらず、なぜか小鳥のさえずりのように心地良く耳に響いてきた。
「いや、気にするな。それにしても本当に久しいな。元気にしていたかね」
さらに調子に乗ったオリビアは、オットーの肩を気安く叩いてみた。普通こんな真似をしようものなら、間違いなく鬼の形相で怒鳴られたはず。それこそ机があったらバンバン叩くに違いない。なにしろ机を叩くのが好きな人間だから。
オットーは手の置かれた肩にチラリと視線を向けたが、とくに指摘することもなくオリビアに向き直る。
「はっ、おかげさまで。お気遣い感謝いたします。少将閣下もお元気そうでなによりです」
それにしてもとオリビアは思う。部下だった人間が上官に変わった場合、元上官はあまりいい気はしないと聞く。オリビアは自分がどの立場に立とうがこれっぽちも気にしない。要は少しでも敬語を使う機会が減ればそれでいいのだ。
オットーの本心はわからないが、少なくとも態度には不快さを出してはいない。まるで昔からオリビアが上官であったかのように振る舞っている。伊達に〝鉄仮面〟の異名をもっていないとオリビアは感心した。
「うん、私はいつでも元気だよ──じゃなくて、私はいつでも元気だ。ところで奥方とお子は息災か? 確か王都住まいだったな」
「……は、おっしゃる通りです。おかげさまで元気にしております」
そう言うオットーの眉が僅かに寄る。オリビアも尋ねてはみたものの、オットーの奥さんと子供に興味があるわけではない。というか顔も名前も知らない人間に興味の持ちようがない。偉い人間がそういう会話をしているのを何度かみかけたことがあるから真似をしてみた。ただ、それだけの話だ。
「それは結構。オットー副官も久しぶりに家族と再会できて嬉しかったのではないか?」
「……まぁ、そうですな」
「そうだろうそうだろう。私も一日も早くゼットに再会したいものだ。では、今後も軍務に励みたまえ」
ガハハと笑ってオットーの脇を通り抜けようとしたところ「少将閣下、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」と、底冷えのする声で呼び止められた。オリビアは錆び付いた歯車のように首をギギギと横に向ける。
「な、なにかな?」
少将は上級大佐よりも上。少将は上級大佐よりも上と、心のなかで唱え続ける。
「……階級章が傾いています。それと、軍服も少しよれていますな。服装の乱れは心の乱れにつながります。将たるもの兵士たちの良き手本にならなければいけません。ましてや一軍の将ともなればなおさらです。そのことをゆめゆめお忘れなきよう」
そう言いながらオリビアの襟元に手を伸ばすと、階級章の傾きを手早く直した。
「ありがとうございます」
オリビアは思わず敬語で礼を言ってしまった。慌てて両手で口を塞ぐも時すでに遅し。オットーはというと、ジロリとオリビアをねめつけてきた。
「……いけませんなぁ。上官が部下に対して敬語を使っては」
「ご、ごめんなさい」
また敬語を使ってしまった。しかも、ご丁寧に頭まで下げてしまっている。いつもはいやいや使っている敬語が、今に限ってするすると口からこぼれ落ちてくる。これが頭に刷り込まれた呪いかと内心で呻いていると、オットーの眉が跳ね上がる。
「おや? 舌の根も乾かぬうちにまたですか。これは実に困りましたなぁ。少将閣下にはもっと毅然とした態度をとっていただかないと。でなければ部下に対し、示しというものがつきません」
その後もやれ己を律することが大事だとか、これまで以上に部下に目を配れなど延々と説教じみた話が続いていく。これでは今までと大差がない。挙句の果てには部屋が汚いとまで言われる始末。さすがにそれは関係がないと声を大にして言いたかったが、きっと酷い反撃をくらって終わりだ。
(うぅぅ。この話いつまで続くんだろう……)
オットーの口は閉じることを忘れてしまったかの如くだ。時折そばを通る士官たちに目で助けを求めるが、彼らは敬礼をするだけで足早に立ち去ってしまう。憐みと同情が混在した顔を向けながら。
(うぅぅ。誰も助けてくれない。こんなときクラウディアがいたら絶対に助けてくれるのに……)
否が応でも食堂に誘えばよかったと今さらながらに後悔する。ついさっきまでの楽しい気分は一瞬にして吹き飛んでしまった。皮肉を利かせたオットーの諫言に、オリビアの背中が次第に汗ばんでくる。まさかこんな手痛いしっぺ返しをくらうとは夢にも思わなかった。
とんだ
「ですから──」
突然バサッと物音がし、オットーの視線がオリビアから外れる。音を出した張本人は廊下に散らばった書類の束を慌てて拾い上げていた。
(誰だか知らないけどありがとう! 今がチャンスだ!)
「話はよくわかった。オットー副官の諫言は肝に銘じておこう」
オットーの口が一瞬動きを止めた隙に、オリビアはすかさず言葉を挟んだ。これ以上聞いていたら頭がどうにかなりそうだったから。
「……お聞き入れ下さりありがとうございます。遅ればせながら少将の昇進、それと第八軍総司令官の就任おめでとうございます」
「う、うむ。で、ではまたな」
しどろもどろのオリビアに対し、オットーは苦笑した後、再度敬礼でもって応える。一刻も早くこの場から立ち去りたいオリビアは、返礼もそこそこに早足で歩き出す。すると、背後から「廊下はゆっくりと歩いてください!」との鋭い声が飛び、オリビアは全速力で逃げ出した。