第九十七幕 ~第八軍誕生~
レティシア城にて軍議が開かれてから数日が過ぎていた。その頃のオリビアはというと、毎日のように子供たちと遊んでいた。これは決して軍務を放棄しているわけではない。ヴァレッドストーム家の断絶理由が判明したので第七軍に帰ろうとしたところ、コルネリアスからしばらく王都に留まるよう命令を受けたためである。
民衆たちのお祭り騒ぎも大方収まり、柔らかな陽射しが降り注ぐ春のひと時──
「もういいかーい!」
オリビアの元気な声が広場に響き渡る。
「もういいよー! ってうわっ! ──もう、またしゅんそくじゅつを使ったでしょう。それはズルだって言っているじゃない!」
茶色の髪につけた大きな赤いリボンを揺らし、オリビアのお腹をポカポカと叩く女の子の名はキャリー。灰鴉亭を切り盛りする女将、アンネの一人娘だ。
「あはは、ごめんね。なんだかつい使っちゃうんだよねー」
頬をポリポリと掻くオリビアに、キャリーはジト目を向けてくる。
「むーっ。もしかしてオリビアお姉ちゃんって負けず嫌いなの?」
「んーそんなこともないよ」
オリビアは一瞬考えた後、そう答えた。
「あのね。だったらこういうときは子供に勝ちを譲るものなんだよ。それが大人でいい女ってやつの条件なんだから」
指を一本立て、訳知り顔でいい女の何たるかを教授してくるキャリー。そう言われてもオリビアにはなんのことだかさっぱり理解できない。たははと笑って誤魔化していると、キャリーの幼友達であるマルコが草陰からひょっこり顔を出した。
「あ、マルコみーつけた」
「みーつけたって、自分から出てきたんだよ。探す様子が全然ないから──で、オリビアお姉ちゃんはまたしゅんそくじゅつを使ったの?」
「そうなんだよー。マルコもビシッと言ってやって」
キャリーに促されてオリビアの前に立つマルコ。オリビアがジッと見つめると、マルコは顔をみるみる赤くさせてボソリと言った。
「つ、次からは気をつけてね」
「うん、わかった!」
「ちょっとマルコー? なんでいっつもいっつも、いーっつも! オリビアお姉ちゃんを前にすると顔を赤くするのよッ!」
キャリーがズカズカと足を踏み鳴らしながらマルコに詰め寄る。マルコはというと、首を横に向けて赤くなっていないとしらを切っている。オリビアの目から見ても顔を赤くしているのは明らかだ。どういうわけかオリビアが見つめると、ゆでだこのように顔を赤くする癖がマルコにはある。
最初は風土病のひとつ、赤膵疾患を疑った。だが、よくよく思い返してみると、アシュトンもたまに顔を赤くすることがある。他の男たちも同様だ。きっと男とはそういう生き物なのだろうとオリビアは結論付けていた。
ちなみに女であるエリスも頻繁に顔を赤くするが、エヴァンシンが治療師でも治せないびょーきだと言っているので除外する。
「むーっ。マルコは将来キャリーのお婿さんになって灰鴉亭の後を継ぐんだからね! ぜったいぜーったいに浮気は許さないんだから!」
「わ、わかっているよー」
ほとんど聞こえないような返事でオリビアをチラリとのぞき見るマルコ。笑いかけるとさらに顔を真っ赤にするマルコを見て、キャリーは噛みつかんばかりに文句を言い始めた。その姿は旦那と喧嘩をするアンネとうり二つ。まるでプチアンネだ。
「少佐、こちらにいらしたのですか」
広場の角から姿を見せたクラウディアはホッとしたような表情を浮かべ、少し癖のある黄金色の髪を鬱陶しそうにかきあげた。
「あ、クラウディア。一緒にかくれんぼする?」
クラウディアを誘っていると、キャリーから素早く離れたマルコが遠慮がちに袖を引っ張ってきた。
「どうしたの?」
「あの綺麗なお姉ちゃんはオリビアお姉ちゃんの知り合い?」
「そっか。マルコは会うの初めてだったね。私の仲間で友達のクラウディアっていうんだよ」
そう紹介すると、マルコはクラウディアの前にトコトコと歩み寄る。
「は、はじめまして。マルコって言います。五歳です」
マルコは小さな指を大きく広げて挨拶をした。
「小さいのにしっかり挨拶ができて偉いな。私はクラウディア・ユングだ」
「エ、エヘヘ。クラウディアお姉ちゃんもかくれんぼする?」
マルコがもじもじしながらクラウディアを誘う。顔の赤みは全く引く様子がない。クラウディアはその場にしゃがみ込み、マルコの頭を優しく撫でながら言った。
「すまないな。これからお仕事で少佐──オリビアお姉ちゃんとお城に行かないといけないんだ。また今度誘ってくれるか?」
「う、うん。絶対に誘う」
まるで振り子人形のように首を振るマルコ。キャリーは五歳児とは思えない恐ろしい形相を浮かべながら、マルコを引きずるように広場の隅へと連れていく。その姿を見て、オリビアは絵本に出てくる小鬼を思い出した。
大鍋にマルコを放り込んでグツグツ煮ないか心配だ。
「お城から使いの人間がきたの?」
オリビアはレティシア城の方角に目を向けた。
「はい。コルネリアス元帥閣下直々にお話があるとのことです」
「ふーん。結構待たされたけど理由は聞いている?」
「いえ、とくには。おそらく昇進のことだと思いますが」
クラウディアは満面の笑みを見せた。その様子から察するに、どうやら昇進もクラウディアの
──レティシア城 コルネリアスの執務室
「長らく引き留めて悪かったな」
「いえ、滅相もございません」
初めてコルネリアスの執務室に入ったクラウディアは、内心で感嘆の吐息を漏らした。元帥の称号を持つ者に相応しく、部屋に置かれている調度品はどれも一級品のものばかり。よく磨かれた盾や鎧といった武具も飾られている。
中でも目を引くのは壁にかけられた一振りの剣。通常の長剣よりもやや短めな刃渡りで、青白く冷たい光を放っている。黄金で作られているであろう柄には、レムリア皇国の紋章である双頭の蛇が刻まれていた。
(これがこの世に二つとないと言われている宝剣レムリアか……さすがに見事な作りだな)
しばしレムリアに見惚れるクラウディアに、コルネリアスが遠慮がちに言葉をかけてきた。
「そろそろこちらにきて座ってはくれないかね」
見ると、コルネリアスとオリビアはソファーに腰かけている。
「た、大変失礼いたしました!」
クラウディアは慌ててオリビアの隣に腰かけた。襟を正しながらよくよくオリビアを見れば、テーブルに置かれているお菓子に手を付けている。
「少佐! 何勝手にお菓子を食べているんですか!」
「え? 勝手にじゃないよ。コルネリアス閣下が食べなさいって」
そう言っている間もオリビアの手が止まることはない。次々と口の中に放り込んでいる。
「元帥閣下、重ね重ね申し訳ございません!」
クラウディアはテーブルに額をこすりつけんばかりの勢いで頭を下げた。いくら勧められたからといって、元帥の執務室で呑気にお菓子を食べていいはずがない。オットーにこの件が知れたら、ただでは済まないことだけはわかる。
「クラウディア中尉、頭を上げなさい」
「はっ」
「オリビア少佐、そのお菓子は美味しいかね?」
「うん、とっても美味しい──じゃなくて、美味しいです」
クラウディアが冷や汗をかいていることも知らず、オリビアは上機嫌な面持ちで両足をパタパタとさせている。その様子をコルネリアスはどこまでも優しげな瞳で見つめていた。
「そうだろう。うちのばあさんはお菓子作りの名人でな。オリビア少佐のことを話したら、朝早くからはりきって作りおった。クラウディア中尉も遠慮せず食べなさい」
コルネリアスは顔を綻ばせながら勧めてくる。改めて純銀製の皿に盛られた焼菓子を眺めながら、クラウディアはゴクリと唾を飲み込んだ。
(まさかあのお方がお作りになったものだったとは……)
コルネリアス公爵夫人といえば長らく社交界に君臨し、陰で女帝と呼ばれたほどの女傑だ。すでに身を引いて久しいが、影響力は今もなお残っている。そんな人物の作ったお菓子。一口も食べなかったと母であるエリザベートが知ったら、間違いなく卒倒してしまうだろう。
(仕方がない。これも軍務の一環だと思えばよいのだ)
クラウディアはそう心の中で言い聞かせ、恐縮しつつもそっと口の中に入れた。
(……美味いは美味いのだろうが、正直味が全くわからない)
なんとか喉の奥に流し込むと、ある意味拷問に近いこの状態を脱するため、背筋を正して自ら本題を切りだした。
「元帥閣下、本日の出頭命令ですが……」
「ん? ──おお、そうだったな。わしとしたことが肝心なことを忘れておった。歳をとるとどうもいかんな」
などと言いながら、懐から取り出した三つ折りの紙をオリビアに差し出す。彼女は無造作に広げて目を走らせると、すぐに興味を失くした様子で手渡してきた。二人に断りを入れて内容を確認すると、新たに第八軍を新設すること。そして、初代総司令官にオリビアが着任すること。さらには総司令官着任に伴い、少将に昇進する旨が記載されていた。
(これは……これは私が予想したはるか上をいっている。まさかここまでとは)
クラウディアの記憶が正しければ、十代で少将に任じられた者などいないはず。まして一軍を率いることなど到底あり得ない。オリビアはまたひとつ英雄に相応しい偉業を成し遂げたといえよう。
クラウディアが興奮して口を開くよりも早く、コルネリアスが話を始めた。
「詳細は追って連絡するが、内容は見ての通りだ。この決定に異議はあるかね?」
その問いに対し、視線を宙に漂わせていたオリビアだったが、すぐに漆黒の瞳を輝かせ始めた。
「少将は上級大佐よりも偉いですよね?」
「ん? 質問の意図はわからんがその通りだ」
オリビアは二カッと笑い、了承の意をコルネリアスに伝えた。
「うむ。では現時刻を以ってオリビア・ヴァレッドストームを少将に昇進。合わせて第八軍初代総司令官に任ずる」
「はっ! オリビア少将。現時刻を以って第八軍初代総司令官に着任します!」
素早くソファーから立ち上がり、堂々とした敬礼を披露するオリビア。が、軍服についたお菓子の欠片がポロポロとこぼれ落ちているので、正直あまり様になっていない。コルネリアスは満足そうに二度三度頷き、クラウディアに視線を向けてきた。
「それとクラウディア
「はっ! ……自分が中佐でありますか?」
聞き間違いかと思い、思わずクラウディアは問うてしまった。オリビアほどではないにしても、三階級特進は十分異例な昇進だ。
コルネリアスは苦笑した後、口を開く。
「不服かね?」
「い、いえ! 今後もオリビア少将の副官として誠心誠意尽力いたします!」
クラウディアは背中がつりそうな勢いで最敬礼した。
「そうか。では頼んだぞ」
それからしばらく雑談を交わした後、二人を退出させたコルネリアスは執務机に腰を下ろした。右上段の引き出しを開けると、そこには上質な紙に包まれた一通の書状。
(さて、次はこの件をどうするかだが……)
デュベディリカ大陸の西に位置する小国。
神国メキアからの書状に意識を傾けた。