小春日のカナタ
「春を探してくる!」
幼稚園から帰るや否や、カナタは家を飛び出しました。
お母さんの返事なんて、聞いている余裕はありません。こうしている間にも、春は逃げて行ってしまうからです。
カナタは「春」が大好きでした。
上品な青い花や溌剌とした黄色い花、顔を上げれば、桜の花が空を桃色に染めています。花の香りに包まれながら、ぽかぽかとした春の日差しを浴びて、うつら、うつらと微睡むのがたまらなく好きでした。
友だちのよっちゃんからは「まるで、おじーちゃんみたいだ」なんて、からかわれますが、別に知ったことではありません。
その日も、心地よい小春日和。
カナタは幼稚園の園庭で、うつらうつらと微睡んでいました。
ところがです。
老獪な桜の古木に、緑が色づき始めていることに気づいてしまいました。まだ、柔らかい新芽が顔を出していたのです。薄緑色の新芽と引き換えに、空を覆い尽くしていたはずの淡い桜の花びらは姿を消し始めていました。
「わかば先生、もう桜の花は咲かないの?」
カナタは近くにいた先生に尋ねます。
わかば先生は桜の新芽を一瞥すると、優しい微笑を浮かべました。
「桜の花はね、さくらんぼにならないといけないんだよ。カナ君は、さくらんぼ好き?」
「花が、さくらんぼになっちゃうの? もう、春じゃなくなっちゃうの?」
「そうだね……でも、まだ春は残ってるよ。園庭で春を探してみようか?」
先生は一瞬、困ったように眉をしかめた後、いつもの明るい表情に戻ります。
カナタは、先生に言われた通り、園庭を駆けまわりました。花壇のヒヤシンスは咲いていますし、色彩豊かなチューリップだってあります。帰りのバスに揺られている間、だんだんと不安になってきました。
さくらんぼは、夏の食べ物です。
幼稚園を受験する時に、お母さんに教えてもらいました。桜が散り行く風景を見ていると、夏が間近に迫ってくるようで、春が遠くに行ってしまったような寂しい気持ちに襲われるのです。
「ずっと、春だったらいいのに」
そんなとき、ふと--とある寝物語を思い出しました。
お父さんの帰りが早かった頃、枕元で物語をたくさん話してくれたのです。その中の1つに、「季節をつかさどる魔女の話」がありました。春夏秋冬、それぞれをつかさどる魔女がいるというのです。
「そうだ、春の魔女に会いに行こう! それで、ずっと春にしてもらうんだ!」
カナタは家を飛び出しました。
家の外は、なんだかいつもと様子が違います。まるで、たったいま出来たばかりのように木々の葉、一枚一枚までもが輝いて見えました。
「ねぇ、猫さん。春の魔女を知らない?」
カナタはベンチの上で寝転んでいる野良猫に語り掛けました。
野良猫は薄く目を開けると、面倒くさそうに「にゃあ」っと鳴き声を上げました。
「春の魔女は、今朝早く、箒で駅の方へ向かったよ」
「駅? 困ったな、そこから遠くへ行っちゃったのかも。猫さん、ありがとう」
野良猫は黙って尻尾を振り上げました。
カナタは駅に向かいました。ですが、駅は忙しそうに人が行き交うばかり。何度も話しかけようとしましたが、誰も立ち止まってくれません。
カナタが途方に暮れていると、すぅっと透き通ったような風が吹きました。風は桜の木を揺らし、花びらを遠くへ運んでいきます。
「ねぇ、桜さん! 桜の木さん! 春の魔女を知らない?」
「春の魔女なら、今朝だったか、箒で西の河の向こうの山へ消えて行ったよ」
「あれ? それって、僕の家がある方だ。ありがとう、桜さん」
桜は何も答えず、ひらひらと花びらを舞い落ちさせました。
カナタは花びらをつかむと、そのまま川を越え、山へ向かいました。山には、秋の名残なのか落ち葉が敷き詰められていました。その隙間から、年若い緑や可愛らしい紫色の花が顔を覗かせています。
カナタは、さくっさくっと葉っぱを踏みしめながら山を登ります。
少し行きますと、大きな岩が眼に止まりました。カナタは身体を少し屈め、岩を覗き込みます。すると、暗い隙間から、にょきっと蛇が顔を出しました。
「蛇さん、蛇さん。春の魔女を知らない?」
「春の魔女でしたら、昼前には、ひかり幼稚園へ箒で飛んでいきましたよ」
「ひかり幼稚園? それって、僕が通ってる幼稚園だよ。 もしかしたら、すれちがっていたのかな? ……蛇さん、ありがとう」
蛇はとぐろを巻いて眠りこけてしまいました。
カナタが山を下り、幼稚園に辿り着く頃には、お日様はすっかり西に傾いてしまっていました。幼稚園の門は堅く閉じていて入ることができません。頭を悩ませていますと、電線の上でウグイスが、今まさに飛び立とうとしていました。
「ちょっと待って、ウグイスさん。春の魔女を見なかった?」
「春の魔女だったら、さっき西の河原へ箒で上って行きましたけど」
「西の河原? うーん、さっき通ったと思ったけど……ありがとう、ウグイスさん」
もう、ウグイスの姿はありません。ただただ、電線が頼りなさ気に揺れていました。
カナタは川を目指して歩き続けます。川、といっても、大きな川ではありません。小さな石橋がかけられた痩せた川でした。
カナタは、そのまま川を上ります。ただでさえ痩せた川は段々と細くなり、黒々とした木々が、ちいさなカナタに覆いかぶさるように生い茂ってきました。
人はおろか、動物も見当たらず、木々に話しかけてみましたが、誰も答えてくれません。
「春の魔法使いさん、いませんか?」
その声すら、森の木々に吸い込まれてしまいます。カナタはだんだんと怖くなり、心なしか歩調まで速くなって、次第には小走りで森を進んでいました。そして、黒い森を抜けた途端、にわかにパッと明るい光がカナタを照らし、思わず目を瞑りました。
目が慣れてくると、そこには緑の草原が広がっていました。柔らかい緑色の草原の向こうに、桜より濃い桃色の木々が咲き誇っています。
桃園です。カナタは桃園に誘われるように歩き出していました。
見慣れた桜よりも背丈が低く、手を伸ばせば触れることができそうな距離で満開の花を咲かせています。カナタは桃の花に見惚れながら、ふらりふらりと歩いていますと、ふと、誰かの歌声が聞こえてきました。
それは、鈴の音のような愛らしい声でした。
歌に導かれるように歩き出します。すると、少し開けた場所に、誰かの影が視えました。
思い切って傍に近づいてみると、そこにいたのは白い顔をした女性でした。お雛様が纏うような鮮やかな着物を重ね着し、長い黒髪を緋毛氈の上に遊ばせています。どうやら、粛々と茶を嗜んでいるようです。桜の古木色の茶釜からは、白い湯気が立ち上っていました。
「すみません、春の魔女を知りませんか?」
おずおずと尋ねると、女性は動きを止めました。ゆっくり、その黒々とした瞳でカナタを見据えます。どれくらいの時が流れたでしょうか。長いこと、彼女は黙っていましたが、やっと口を開きました。
「そろそろ来るころだと思っていたわ」
薄桃色の唇から紡がれたのは、歓迎の言葉でした。
「さあさあ、こちらにお坐りなさい。私が春をつかさどる魔女です」
白魚のような指がカナタを招き入れます。
カナタは、おっかなびっくり緋毛氈の上に腰を下ろしました。柔らかく咲き誇る桃の花に囲まれ、まるで、雛人形の世界に迷い込んでしまったみたいだな、なんて考えていると、春の魔女に声をかけられました。
「どうぞ、召し上がりなさい」
魔女は盆を差し出してきました。
盆の上には4つ、小さな和三盆が置かれています。カナタは興味深げに和三盆を見下ろし、ちらりと視線を上にあげました。魔女は、柔らかい笑みを浮かべていました。同じ「柔らかい」ですが、幼稚園の先生とは少し違います。
幼稚園の先生には溌剌とした明るさがあります。しかし、魔女にはそれがありません。どことなく、包容力のあるイトコの姉さんを思い出しました。
「あの……春の魔女さん?」
「カナタ、あなたの話を聞かせていただけませんか?」
春の魔女は茶をたてながら、暖かな声で問いかけてきました。
すると、カナタの緊張していた口元が緩み、流れるように自分のことを話し始めていたのです。
お母さんは優しいけど怒ると怖いこと、お父さんはくたくたになって帰ってくるから一緒に遊べないこと、親友のよっちゃんのこと、幼稚園のわかば先生のこと、そして、春が大好きだということ……。
カナタの他愛もない話に、春の魔女は楽しそうに耳を傾けていました。
話が終わると、今後はカルタ遊びをしたり、手毬をついたり、一緒に唄を歌ったり、心地よい時を過ごします。
明るく静かな桃園に、2人の楽しそうな声が木霊して幾時が過ぎた頃――
「そうだ。あのね、春の魔女さんにお願いがあるんだ」
カナタは、ほろ苦い抹茶を飲みながら、いよいよ本題に入ることにしました。
この森に入った時、すでに空が橙色に染まり始めていたことを思い出したのです。そろそろ帰らないと、お母さんが心配するはずです。
「僕、ずっと春のままがいいなって。春の魔女さん、どうしたら、ずっと春のままにしてくれる?」
「夏が嫌いなの?」
「……あんまり、好きじゃないんだ。だって、夏は暑いし、派手な感じがして落ち着かないし」
かき氷のしゃりっとした舌触りだけは好きでしたが、そのあとにくるツーンと眉間を攻撃してくる頭痛は嫌いでした。とにかく、カナタは夏が嫌いだったのです。それを聞くと、春の魔女は少し困ったように顔を歪め、そして微笑みました。
「ごめんなさいね、カナタ君」
暖かな手のひらでカナタの頭を撫でながら、寂しげに話し始めます。
「私、カナタ君と一緒に遊べて楽しかったわ。ずっと一緒に遊んでいたいけど、私は春しか知らないの。夏が来る前に、次の春へ行かなくっちゃ」
「でも……」
「小春日の時間はここまで。そろそろ、貴方の時に戻りなさい」
どういう意味なのか尋ねようとした矢先、一陣の風が吹きました。
突風が桃の花、そして春の魔女の髪を揺らします。その風に強さに、カナタは腕で顔を庇いました。桃の花びらが散り、辺り一面を淡い桃色で染め上げます。
「春の魔女さん?」
ようやく風が収まり、腕をどけてみれば、あたりはすっかり真っ暗になっていました。
春の魔女の姿も、一面の桃園も見当たりません。小春日のぬくもりも、遠い彼方へと消えてしまっていました。
カナタは暗闇の世界に、ぽつんっと1人取り残されてしまっていたのです。
「春の魔女さん? どこに行ったの?」
代わりに返ってきたのは、轟という風の唸る音だけでした。
なにかが嘲笑うような薄気味悪い声も聞こえてきます。
生暖かい風が頬を撫でた時、カナタは思わず来た道を奔りだしてしまいました。
轟々と唸りを上げる風に捕まえられないよう、矢のように走ります。あの風につかまったが最後、深い闇に飲み込まれ、もう家には帰れないような気がしたのです。
カナタは必死で走りました。幼稚園の徒競走よりも、よっちゃんとトンボを追いかけた時よりも、力を振り絞って走りました。呼吸が続かず、あえぎながら、何度も転びかけながらも必死で足を動かし続けます。
走って、走って、走って、もう駄目だと思った頃--
気がついたとき、西の河のほとりに佇んでいました。
もうすっかり日が暮れ、空には幾つもの星が瞬いています。まるで、ぼんぼりのように赤や白のツツジが浮き上がって見えました。
そう、カナタは帰ってこれたのです。そのことを自覚した瞬間、カナタは泣いてしまいました。みっともないくらい大声で、おいおいと泣き喚き、次第には泣き疲れて眠り込んでしまいました。
どれくらい、眠っていたのでしょうか。
「おーい、おーい」
しばらくすると、遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきます。
夜の闇の向こうに、白い大きな影が視えました。
それは、白いシャツを着た男でした。おーい、おーいと手を振りながら駆け寄ってきます。
「お父さん!」
カナタは、顔をくしゃくしゃに綻ばせながら走り出しました。