この空を見るためだけの人生だったとしても

作者: 津籠睦月

 夢も目標も無く生きていては駄目ダメですか?

 何かを達成たっせいしなければ、生きていく意味がありませんか?

 誰かから称賛しょうさんや評価をされなければ、価値の無い人生なのですか?

 

 ――そんなふうに、問いかけたくなることがある。

 だって、もしそうなのだとしたら、私のこの人生は、無駄むだで無意味なものでしかないということになる。

 

 だけど、私はまだ生きていたいんだ。

 何もできなくても、未来に何の希望も無いとしても、一分でも、一秒でも長く、この世界に留まっていたい。

 ……そんな風に思っていては、駄目ダメですか?

 

 今日は調子がいから、窓辺に立って外の景色を見下ろしてみた。

 地方都市の総合病院は、周りに高い建物も無く、どこまでも見通せそうなほどながめが良い。

 

 一見、いつ見ても変わりえのしない景色。

 だけど、よく見ていれば分かる。

 

 世界の色は、毎日変わっていくんだ。

 木々や花の色だけじゃない。

 空の色だって、町を包む光の色だって、季節により、日により、時間により変わっていく。

 そのうつろいをながめているのが、楽しい。

 この世界も私たちと同じ“生き物”で、日々変わっていくものなんだって、そう思えるから。

 

 夜の景色も、嫌いじゃない。

 町の灯りは、都会に比べたら、たぶんずっと少ないんだろうけど……そのひとつひとつが、どこかの家の灯りで、そのひとつひとつの灯りの下で、知らない誰かの人生の一場面が、今日も展開されているんだろうな、なんて、想像してみる。

 きっと私と出逢であうことなく終わるだろう人たちの、私の知らない物語。

 それを想いながら夜の町を見下ろしているのが好き。

 その瞬間だけ、世界の全部が私のものになったような、そんな感覚にひたれるから。

 

 他人に言っても、全部は理解してもらえないかも知れないな。

 だけど、私がこの病室へやの中で手に入れられるものは、本当にごくわずかで、そのどれもが私にとっては大切で、たまらなくいとしいものなんだ。

 

 ここにはテレビも他の娯楽ごらくもあるけど、それよりも私は、ただ世界をながめているのが好き。

 テレビやゲームや本の中のことは、私の世界とあまりにもかけ離れていて、遠過ぎて、時々無性(むしょう)かなしくなる。

 

 私の毎日は、単調だ。

 毎日、決められたタイムスケジュール通りに看護師さんや医者の先生が回って来て、身体をき、体温をはかり、血圧を測り、食事をし、お茶をもらい、点滴てんてきにつながれる。

 入院生活は退屈たいくつだ、なんて言うけど、結構頻繁(ひんぱん)に人の出入りがあって、意外と落ちかない。

 そんな生活にも、もうだいぶれてしまったけど……。

 

 私の体調には波があって、調子の良い時には病気のことも意識の外に追いやって、ほんの一時(いっとき)忘れてしまえる。

 自分の身体の中で病魔が進行しているなんて、夢か幻のように思えることさえある。

 だけど、そんな幸せな忘却ぼうきゃくや幻を打ち消すように、不調はふいにおそって来るのだ。

 

 一度ソレに襲われると、起き上がることも難しくなる。

 布団の中にもれていても、世界がぐらぐら回っているような気持ち悪さで目眩めまいがする。

 物語では、病弱な少女が美しくはかなげに描かれたりするものだけど、私の現実は美しくなんてない。儚いなんて生やさしい言葉も似合わない。

 パジャマや布団ふとん湿しめるほどの汗にまみれながら、もうこれで終わってしまうんじゃないかと、何度思ったか知れない。

 だけど、私の感じる苦痛と身体からだの受けるダメージとは、必ずしも比例してはいないらしく、何とか今もこうして、この世界に留まることができている。

 

 希望をてているわけではないけど、私は自分の未来をあまり想像できない。かと言って、死についても想像がつかない。

 ただ曖昧あいまいであやふやな恐怖に、時々ふいに襲われる。

 特に理由も何も無く、泣きたくてたまらなくなることがある。

 

 だけど、人前では泣けない。

 困らせたり悲しませたりしたくないし、涙の理由をかれても、自分でも上手うまく答えられない。

 だから、夜中に布団の中で、声を殺して一人泣く。

 

 自分を可哀想かわいそうがっているわけではないと思うけど、本当に自分でも、理由が分からないんだ。

 もしかしたら、泣くという行為(こうい)自体を、味わっているのかも知れない。

 それは、生きているってことだから。

 

 思考する余裕すら失うほどの苦痛が引いて、ベッドの上から窓をながめた時、空があまりにも綺麗きれい黄金色きんいろまっていて、泣きたくなったことがある。

 病室の中まで、ほのかな黄金きんの光に包まれていて、あぁ、生きてるんだな、って思えた。

 光にも色がついてるってことを――空気さえお日様の色にまって見えるんだってことを、私はこの時、初めて知った。

 

 私は、この世界が好きだ。

 の世界はもう、窓から見下ろすばかりで、出歩くこともれることも難しくなってしまったけれど。

 未来なんて全く想像ができなくて、一日一日、ただ必死に命をつないでいるような毎日だけど。

 日の光をびて、そのぬくもりを感じたり、窓から吹き込む風にはだでられてうっとりしたり、毎日少しずつ変わっていく景色を眺めているだけでも、幸せを感じるんだ。

 

 人間ひとは人生に、大層な意味や意義を求めたりするものだけど――ただ単に、日の光を味わって、風の心地よさを味わって、綺麗な景色を味わって……この世界(・・・・)を味わうためだけに生きていたら、いけませんか?

 花や、虫や、野生のけものたちのように、ただ生きることを精一杯(まっと)うするだけでは、駄目ダメですか?

 

 きっとこのまま生きていっても、何をせるわけでも、何かになれるわけでもない。

 だけど、この生を手放てばなす気にはなれない。

 両親や、いろいろな人に苦労をさせていることを知りながらも、私は生を望んでしまう。

 

 どんなものでも、くすとなるとしくなったりするものだけど、私の生への執着しゅうちゃくも、それと同じなのかな。

 もし病気になったりせずに、普通に学校生活を送れていたら、他の子たちと同じように、友達や、進路や、いろんなことでなやんだりして、「死にたい」なんて思ったりもするのかな。

 

 人生や生命いのちとうとさを知ることができたから、病気になって良かった、という人がいる。

 私はまだその境地きょうちには辿たどけていないけど、何となく分かる気がしないでもない。

 きっとこういうことにならなければ、この世界をこんなに美しいとは思えなかった。

 

 何の変哲へんてつもない四角いビルも、アスファルトの道路も、愛しいと思って見つめれば、極上の景色に見えてくる。

 心の目ひとつで、世界は変わる。

 私は今、美しくて、愛しくて、極上で、はながたい世界を生きている。

 

 この世界と出逢であえただけでも、生まれてきた価値があった。

 今まで出逢ってきた人、もの、景色の全てが、私の生きる意味だった。

 

 もし、これからもっと具合が悪くなっていくとしたら、ベッドから出ることも、町を見下ろすこともできなくなるのかも知れない。窓を見ても、空しか見えないのかも知れない。

 だけど、きっとそんな状態になったとしても、私は自分の人生を無価値なものだなんて思わない。

 刻一刻と色を変える、あの空を見ているだけでも、きっと意味はある。

 綺麗なものを綺麗だと感じて、心をホワッとあたたかくするだけでも、意味はある。

 だから、もしも私の人生が、ただこの空を見るためだけにあったのだとしても、かまわない。

 

 大きな意味や意義なんて、らない。

 他人と比べて幸せだとか不幸だとかも、どうでもいい。

 だって、どんなにうらやんだところで、結局、私には私の人生しか生きられないから。考えるだけむなしいばかりで、精神の無駄遣むだづかいだ。

 

 不幸な運命を、ただ不幸だとなげいて、自分を不幸に追いんだりなんてしない。

 こんな日々の中だって、幸せを見つけるのをあきらめたりなんかしない。

 私は、私に与えられたこの人生の中で、精一杯の幸せを、味わいくすのだ。