かわほたる
【大学生の独白】
「カワホタル」
と重たげに頭を起こした若い男性が呟いた。大学生くらいだろう。彼よりもう少し年上の、おそらくはサークルの先輩か何か、別の男性に連れてこられて、彼だけ飲み潰れたために置き去りにされていたのだった。
「カワホタルさんを、見送ったんです。羽田まで行って」
彼はまだとろんとした目をしていた。背伸びをした茶髪が、それが背伸びだとわかるくらいに似合っていない。年齢確認はしていない。ここはそういうところであった。
「ドイツに行くんですって。ドイツ。遠いよなぁ、ドイツって」
そう言いながら、水の入ったグラスを掴み、しかし傾けることはなく。
「管弦楽団だったんす。僕も、彼女も。僕は打楽器で、彼女はビオラで。似合ってたんすよねぇ、ビオラ。ビオラってなんていうか、こんなこといったらビオラ奏者に怒られそうですけど、パッとしないじゃないですか。少なくともヴァイオリンよりは格段に。でもね、彼女が持つと違ったんですよ。彼女に華があった、って言った方が正確なのかな。いやでも、ビオラを持ってるときが一番――」
――綺麗だったなぁ……。と呟いて、彼はようやくグラスを手にした。飲み損ねて胸元を濡らし、あぁあ、とさして気にしてないような嘆息。
「だめだなぁ、俺。何も勇気出なかった。ドイツに行って音楽の勉強するんだ、って聞かされて、そっか、じゃあ頑張れ、なんて言って、それっきりで」
差し出されたおしぼりで、彼は真っ先に顔を拭いた。このおしぼりいい匂いしますね、などと言いながら胸元を拭く。
「……カワホタルさんもいい匂いがしたっけなぁ」
【老人の独白】
一番隅のカウンター席に座った老人は、ウイスキーをちまちまと傾けていた。
「故郷はいわゆる田舎というやつでね。毎年必ず、川辺に蛍がたくさん出たんだよ」
いつだったかなぁ、と老人は遠くに思いをはせる素振りを見せて。
「家の庭に一匹、迷い込んできたことがあってね。家は川からそれなりに離れていたから、蛍からしてみれば大冒険だったろうよ。それで一人でふわふわと飛んでいるんだが、それがなんとも優雅に見えて……子供心に感動したのを覚えている」
グラスの中で氷が転がり、カランと音を立てた。
「あの蛍のようだったな、彼女は」
それから彼は、半年前パリのカフェで出会った和装の女性のことを語り出す。彼女はドイツから移住してきたばかりだと言い、日本人に会えたことを手を叩いて喜んだ。パリの町並みに結城紬の単はひどく人目を引いていたが、彼女があまりに堂々としていたせいか、奇異の目で見られてはいなかった。彼女とはいろいろな話をした。乞われるままに、自分の今までの旅行歴を語ったりした。彼女は反対に、これからの夢を語った。ビオラ奏者として小さな楽団に入っているが、いずれもっと大きなオーケストラで一番になるのだ、と。
そんなようなことを、ほとんど脈絡無く、降り始めの雨のようにポツポツと語った。グラスの中は空になっていた。
「孤高で美しく、心底魅力的な女性だったよ」
老人は顔色に見合わぬしっかりとした足取りで立ち上がった。
「……けれど、あの蛍はきっと伴侶を得られなかっただろうな、と思うのだよ。そう思って、むやみに悲しくなったり、するのだよ」
【医者の独白】
壮年の医者は疲れ果てた様子でカウンター席に座り、ビールを一息で半分にした。
「ああ、疲れた」
溜め息の深さで疲れを測るならば、その深さは海底に届きそうなほどであった。
「患者の悪口なんて言いたかないんだけどね。今日看取った女、どうにも哀れで仕方なくって。普段から自慢話ばっかりしてて、うるさかったんだけどさ」
私と五分以上話して惚れなかった男はいないだの、海外の楽団でトップの腕だったから病気で戻ってくることになってひどく惜しまれただの、そういう嘘とも本当ともつかない自慢話を毎日毎日、繰り返していたのだという。
「まぁ別にそれ自体は珍しいことでもない。話を盛るのもね。よくあることさ。嘘だってこっちにはわかってるんだよ、見舞いは誰も来ないし、カードの一枚も来なかったんだから。でも」
死ぬ間際になってね、と医者は顔を曇らせた。
「いよいよってときに、僕に“手を握っていてほしい”ってさ。言われたとおりしてたら、こう、泣き出して。はらはらと、って擬音が自然に浮かんでくるような泣き方でさ」
それからかすれた声でこう言ったらしい。
「ひとりでいくってこわいのね」
それが最期だったという。
「確かに、綺麗な人ではあったんだよ。綺麗な人ではね。ま、最期はやつれて、見る影もなかったんだけどさ」
医者は飲み干したグラスをこちらへ寄越して、二杯目をまた一息で半分に減らした。
「ああ、やだなぁ。川蛍みたいだ。知ってます? 川蛍、って妖怪。僕の地元じゃわりと有名なんですけどね。まるでそれみたいだ……」
おしまい