悲愛偏哀、あいしあい。

作者: 篠崎京一郎

肥前文俊様主催の企画「第10回書き出し祭り」優勝作品です。

 ――どうして、読んでしまったのか。


 その選択は決して間違いでなかったと、十二分に深く理解しつつも。


 それでも僕は、嘆かずにいられなかった。



 六畳一間、お世辞にも広いとは言えないボロアパートの一室。その中心に立つ僕は何度も便箋(びんせん)の末文に記された名を確認する。

 だけどそんな僕を嘲笑(あざわら)うが如く、すっかり見慣れてしまった五文字は悠然とそこに存在し続けていた。


「……参ったな」

 ぽつり、(うめ)く。

 文字通りの降参だ。どうやらいい加減、僕は認めなければならないらしい。



 これが、愛するあの人の遺書であるという事実を。



 ***


 白岡(しらおか)結美子(ゆみこ)

 国立関東大学文学部英文学科三年。誕生日は四月七日で、年齢は僕と同じ二十歳。血液型はA型だが整理整頓は苦手。成績が良いため学費はなんとか奨学金で賄えているものの、一方で生活費はコンビニバイト頼りの苦学生。内向的な性格であり、友人や彼氏は現在なんとゼロ。趣味は読書だがラノベや漫画は(ほとん)ど読まず、(もっぱ)ら本格ミステリ小説ばかりを好む。ちなみに最近のブームは京極夏彦。それから――




 ――先週、シャンプーを変えた。




 僕は。

 (はた)圭一(けいいち)は、彼女の理解者(ストーカー)である。



 だから勿論、彼女の遺書を拾ったのもまた全くの偶然という訳ではなかった。

 普段通り彼女の帰宅を見守っていたところ、突如彼女の鞄からそれがヒラリと落ちた場面に遭遇したのである。


 ハンカチーフか、或いは何かその(たぐい)のものと思った僕は、便箋に書かれた遺書の二文字を見つけて仰天した。

 すぐさま僕はそれを拾い、彼女の見送りなどすっかり忘れて自宅へと飛んで帰った。八月の蒸し暑い夜だったのに、強く握り締めた右手だけは血が通っていないかの如く冷たかったのをよく覚えている。



『孤独の中で生きることが辛くなりました。さようなら』



 遺書にはたったそれだけの文章と、恐らくは自殺の予定日であろう丁度一ヶ月後の日付があるのみであった。

 後悔も、懐古も、そもそも感情すら存在していなかった。何とも味気ない、言ってしまえば書く必要があったのかどうかすら曖昧な遺書であった。

 先立つ不幸をお許しください、なんていうありふれた定型文すら――



 ……いや、そりゃそうか。

 巡る思考の中、僕はそこでようやく呼吸を思い出す。

 それから少しだけ目を伏せ、僕は遺書を閉じた。



 先立とうにも、彼女の両親はもういない。

 僕の父が殺したのだ。 


 否、警察は事故と言っていたか。

 飲酒運転の、スピード違反の、信号無視の末の()き逃げを事故と呼ぶならそうなのだろう。

 いずれにせよ、彼女の両親は父のせいで死んだ。


 それが、二年前の四月七日。奇遇にも彼女の十八の誕生日である。彼女にしてみれば、最悪の日と呼べるだろう。




 ただし、僕にとっては最高の日だったのだが。




 忘れもしない。

 (まさ)しく、ハートを撃ち抜かれたが如き出会いであった。



 血の匂いが残る、封鎖された交差点。

 (しら)せを受け、駆けつけた僕の視界へ一番に飛び込んできたのは、その交差点の中心に立つ彼女の姿であった。


 ありったけの悲愴と絶望をその身に纏い、両親の赤黒い血痕の上で、彼女はただ静かに立ち尽くしていた。



 ――あぁ、白状しよう。

 僕は父に感謝した。



 絹に墨汁をぶちまけたが如く、全てを台無しにされた彼女を視界に認めたその瞬間、その刹那。僕は彼女から、胎動にも似た生命のエネルギーを感じたのである。


 悟り、そして確信した。


 これが、愛なのだと。

 好いた惚れたなんて単純なものではなく。この獣欲にも似た本能的な衝動こそが、真実の愛なのだろうと。




「……そうか、あれからもう二年か」

 気付けば、何故か僕は泣いていた。声を上げることもなく、無意識に僕の目は涙を垂らしていた。


「二年、二年か。早いなぁ」

 遺書を机へ投げる。それは極めて乱雑に、ほとんど叩きつけるようなものであった。

 それから手を本棚へと伸ばし、中のファイルをそのまま床にひっくり返す。


 音を立てて散らばる髪。爪。それから箸や靴下。


 小分けにされた記憶達が、床を彩る。

 僕は、そこに一片の迷いもなく倒れ込んだ。


 当然それらにクッション性など皆無だ。自然僕は床に頭を強打して、鈍い音と同時に光が散らばるのを見る。


 そんな痛みに耐えるよう、僕は大きく深呼吸をした。


 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。

 吸って、吐――


「ふふっ、ふふふっ……!」

 抱かれたような多幸感から思わず、笑みが(こぼ)れた。


 (おもむろ)に僕は間近にあったひとつの袋を手にする。偶然にも掴んだ袋には、彼女に出会った日の付箋が貼られていた。


 僕は袋から一本の毛髪を取り出すと、まじまじとそれを凝視する。




 ……二年間、僕はずっと孤独を生きる彼女を見続けていた。


 孤独に打ちひしがれる彼女を見ていた。

 孤独に抗い、恋に走る彼女を見ていた。

 孤独に負け、恋に破れた彼女を見ていた。

 孤独に向き合い、友や恋人に恵まれずともそれでも前を向き続ける彼女を見ていた。



 そんな彼女が、孤独から逃げる?



 笑みが、歯軋(はぎし)りに変わる。


「そんなの、許せないな」

 悲劇のヒロインは、舞台から逃げ出してはならない。

 惨憺(さんたん)たる散々なる、ざんざん降りの雨の中を、それでも健気に踊り続けるべきなのだ。


 自殺なんて幕切れ、僕は絶対に認めない。



 しかし同時に気付く。

 僕自身の存在を彼女に知られてはならないことに。


 決して、それは僕が轢き逃げ犯の息子だからなんてくだらない理由では無い。

 そんなことはさしたる問題では無いのだ。ただ――




 ――悲劇のヒロインに、理解者は要らない。

 孤独だからこそ彼女はかくも美しいのだから。




 幸いにもプライバシー保護というスバラシイ観点から、父の息子である僕の存在は彼女に伝えられなかったらしい。事実、事件の後も彼女が僕を認識する機会は一度たりとも無かった。

 それで良いのだ。そうでなければならないのだ。


 加害者の息子としての僕なら全くもって構わないが、彼女を愛している僕の存在だけは絶対に知られてはならない。その僕を彼女が知った時、彼女は真の意味で僕の前から消えてしまうに違いないのだから。



 考える程に、懸念は(がん)細胞の如く増えてゆく。

 さりとて、一向に妙案は浮かばない。


 ただ彼女の死を止めなければという義務感だけが、独りでに胸の内で暴れ続けていた。


 ふと、ごろりと体を返す。

 仰向けになった僕に、天井の景色が飛び込んできた。



 彼女はそこにいた。

 一面に張り巡らされた彼女の写真は、どれも僕の方を見てはいない。

 けれど確実に、そこに存在していた。

 ハーフアップの黒髪を(なび)かせ、透き通るような肌を蠱惑的(こわくてき)に覗かせ、彼女は写真の中で生きていた。



「結美子」

 彼女の名を、呼ぶ。


 思考は纏まりきらない。


 だけど、自信はあった。

 彼女の死を防ぎきる、その自信だけは。



「守ってみせるよ。君の命も……」

 君という芸術の、邪魔立てなんて絶対にさせない。

 それが仮に――




「君の、孤独も」

 君自身であっても、だ。















































































































































「あはっ、かっこいいなぁ」

 思わず、声が漏れた。


 画面の中で、秦圭一は私を見ていた。

 ……否、正しく言うなれば、それは私であって私ではない。




 私の映った写真であって、()()()()()()()()()()()ではない。




 そっと、頬をパソコンの画面に擦り付ける。彼の温もりがすぐそこに存在している気がした。


 ねとり、それからゆっくり舌を画面に這わせる。液晶に付着した僅かな唾液は、そこに映る彼の姿を少しだけ歪めてしまっていた。


「私を守る、だなんて。本当にかっこいいなあ」


 興奮に(たかぶ)った息を吐きつけると、画面の上を結露が走る。

 しかし直前私が(ねぶ)った彼の姿だけは、唾液に守られ中心にくっきり残ったままで。



「……ねぇ、君はどんな風に私を助けるんだろうね?」

 結露が縮んでゆく光景を眺めながら、私はぽつり呟いた。





 真の恋の道は、茨の道である。

 そう言ったのは、シェイクスピアだっただろうか。


 ああ。ならばきっと、この(いびつ)な"EYE"の関係は――





「頑張ってね。圭一くん」

 これでようやく、真実の"愛"へと昇華する。