第36話 甘酒
『白日の宴』本部、エントランス。
マオ、ポルン、リュカの三人は、ぼんやりとクエスト掲示板に目を通していた。
「うぅむ。わしら見習い用のクエストが一つもないではないか」
「ま、よくあることだけどね」
「仕方ない。今日は修行でもするか」
「そうだねー」
マオは眉をひそめ、
「なぬ? 二人ともこれから修行をするのか?」
「うん。そのつもりだよ」
「できるだけ体を動かしてないと体が鈍るからな」
「……ふむ。そうか。ではわしは一人で街へ行くか」
マオは二人とわかれ、目的もなくふらふらと街へ繰り出した。
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街を練り歩きながら、マオは暇そうに一人ごちた。
(それにしても、ポルンもリュカも真面目じゃのぉ。やることがないからといってなぜすぐに修行をするんじゃ。どうせならわしと遊べ、わしと)
マオはふと足を止め、人混みの中で怪しい動きをしている人物に注目した。
「……む? あれは師匠ではないか」
師匠はどこか落ち着かない様子で小さな紙袋を抱え、周りにきょろきょろと視線を配りながら、隠れるようにして狭い路地へ消えていった。
「ふぅむ。怪しいのぉ」
(師匠の奴め、何か紙袋を抱えておったな。……ははーん。さては、あの紙袋の中にとびきりうまい料理が入っているとみた。それを誰かにとられたくなくて落ち着きがなかったんじゃな)
「そうと決まれば善は急げじゃ! 師匠を追いかけてうまい料理を分けてもらわねば!」
マオはとことこと駆け出し、まるでスパイのように師匠が入っていった路地裏を覗き込んだ。
紙袋を抱えた師匠が、尻尾をゆらゆら揺らしながら奥へ進んで行く。
「ふむ。こちらは師匠の家の方角ではないが……。はてさてどこに行く気じゃ?」
しばらく後をつけると、川沿いを進み、『ヒカリヤナギ』の木を曲がると、師匠は一軒の店の前で立ち止まった。
師匠は入念に辺りを見渡すと、そのままドアを押し開け、中へ入っていった。
マオはその店の前まで来ると、上にぶら下がっている木製の看板を確認した。
(む? 『アナグラ』? これが店の名前か? じゃが、何の店かようわからんのぉ)
恐る恐るドアを開けると、廊下が横切り、そのすぐ目の前にもう一枚扉が現れた。そこには『コモレビ 定休日』と札がかかっている。
マオはその扉に手をかけるが、鍵がかかっているのか、カチャカチャと金属音がなるだけで、ドアノブは回らなかった。
「鍵が閉まっておるようじゃな。師匠はこの中に入ったのか?」
ふと視線を横に向けると、すぐ横に下へ降りるための階段があった。
その階段を降りると、またもドアが現れ、そこには『アナグラ』と書かれた札がぶら下がっていた。
ドアに耳を当てると、中から師匠と、落ち着いた口調の女性の声が聞こえてくる。
「にゃー。久しぶりだにゃ、マスター」
「ご無沙汰しております。調子はどうですか?」
「まぁまぁだにゃ。最近は自分とおにゃじようにゃ境遇の奴を見つけたから、ちょっぴり嬉しかったにゃ」
「ほぉ、それはよかった。その方も料理がお得意なのですか?」
「そういうわけじゃにゃいけど、まぁ、にゃんでもかんでもうまそうに食べる奴にゃ」
「料理人冥利につきますね」
「まったくだにゃ」
マオは気取られないようゆっくりとドアを開き、二人の姿を確認した。
(ふむ。カウンターに座っておるのが師匠じゃな。その奥におるの糸目の女がマスターという奴か。他には誰もおらんようじゃな……)
一瞬マスターがこちらに顔を向け、マオはビクリと体を震わせた。
(き、気づかれたか!?)
だが、マオの心配をよそに、二人は再び会話を始めた。
師匠が、持っていた紙袋をカウンターの上に置き、
「この前はにゃしてた例の料理を持ってきたにゃ」
「ほぉ。それはありがたい」
マスターは渡された紙袋を開き、その中から小さな小瓶を取り出した。
その中には薄い緑色をしたものが入っている。
「これが……例の、わさびをメインにした料理、ですか?」
「そうにゃ。『わさび漬け』というにゃ。これはそのまま酒のアテとして食べてもうまいし、ご飯の上にのせて食べてもおいしいにゃ」
「あの辛いわさびをご飯の上に、ですか……」
「とりあえず食べてみるにゃ! そうすればわかるにゃ!」
未だに半信半疑のマスターは、師匠に促されるままに瓶のフタを開けた。
すると、マスターの眉がピクリと動いた。
「ん? この香り……。もしかしてアルコールが入っているんですか?」
「酒粕が入っているにゃ。この世界は酒だけはどこもめちゃくちゃうまいくてすごいにゃ!」
「この世界……?」
「にゃ!? にゃんでもにゃいにゃ! とにかく一口食べてみるにゃ!」
マスターはわさびの味を知っているだけに、ためらいながら少量のわさび漬けをスプーンですくうと、ゆっくりと口の中に入れた。
「んっ! や、やはりわさびのツンとした感じがありますね! ……って、あれ?」
「どうにゃ?」
「……不思議です。食べた瞬間は確かに辛かったんですが、後に引かない辛さと言いますか……。いえ、辛さを打ち消す甘さが後からやってくる感じでしょうか」
「にゃー。砂糖やらみりんやらを入れてるし、アルコールの風味も強いからマイルドににゃっているにゃ」
「なるほど……。これは、たしかにご飯が進みそうですね」
「にゃー。レシピはその袋のにゃかに入ってるから、また自分でも味を調整して作ってみるにゃ」
「いつもありがとうございます」
師匠はコホン、とわざとらしく咳をすると、
「えー、でだにゃ。その、例の物は届いたかにゃ?」
「例の物? あぁ。そうでしたね。わさび漬けの衝撃ですっかり忘れていました」
マスターは後ろにあるカウンターから酒瓶を一本取り出すと、「こちらです」と師匠の前に置いた。
「『タリア紺碧結晶』という鉱物から抽出された鉱物酒、『セイライ』です」
「うにゃー! これが噂に聞く『セイライ』にゃー! ここらへんはどこの店にも全然置いてにゃくて困ってたにゃ! ふふふ。こんにゃ珍しい酒がこの店にあるとバレれば大騒ぎだにゃ。今日もここまで誰にもバレないように来るのが大変だったにゃ」
「『セイライ』は雪国でしか長期間の保存ができませんからね。この辺りではまず店舗に並ぶことはないでしょう」
「今日はマスターもこれで一杯やるにゃ!」
「はい。喜んでお付き合いします。……ところで、師匠はそちらの可愛らしいお嬢様とお知り合いですか?」
「うにゃ?」
マスターに促され、師匠は首を傾げながら横を見た。
するとそこに、わさび漬けの瓶を両手で持って、くんくんと匂いを嗅いでいるマオの姿があった。
「にゃにゃにゃにゃにゃ!? にゃんでお前こんなところにいるんだにゃ!?」
マオはわさび漬けにスプーンを突っ込みながら、
「お主が怪しげな動きをしておったので尾行しただけじゃ。よもやそれが酒を独り占めしたいがための行動じゃったとは、なんともなさけない」
「にゃ!? う、うるさいにゃ!」
マオはスプーンについたわさび漬けをペロリと舐めると、足をバタバタとさせて悶え始めた。
「な、なんじゃこれは! 舌が熱い! 痛い! ぎゃあああ!」
「にゃんだ? マオはわさびダメにゃのか?」
「ひぃぃぃ! 水! 水をくれ!」
慌てふためくマオの前に、マスターはスッと水を差し出した。
ゴクゴク。
「……ぷはぁー。な、なんじゃ今のは……」
「わさび漬けだにゃ。マオにはまだ早い、大人の味だにゃ」
「……あほか。あんなものをうまく感じ取るお主らの方がどうかしておるんじゃ」
「にゃはは。また子供染みたことを言っているにゃ」
二人のやりとりの間に、マスターは『セイライ』をコップに注ぎ、師匠の前に置いた。
ほんのりと青く染まった液体の中に、青い欠片が揺らめいている。
師匠は舌なめずりをしてそれを一口すすると、だらしなく尻尾を振り始めた。
「はにゃー……。この酒は噂以上だにゃー……。常温のはずにゃのに、冷たい舌触りと、鼻から抜ける甘い香りが最高だにゃー……」
「むっ。酒はそんなにうまいのか? わしにも一口くれ」
「ダメだにゃ。酒は二十歳ににゃってからだにゃ」
「なんじゃと? お主、ふざけておるのか?」
「ふざけてにゃいにゃ……。そう決まってるにゃ。というか、子供のうちに酒を飲むのは体によくにゃいにゃ。だからやめておくにゃ」
「……しかし、わしはこのままでは満足できん。さっきのわさび漬けというのも痛いだけじゃったし」
「いや、別にお前が満足できんのは知らにゃいけど……。あっ! そうだにゃ! そう言えば偶然、マオにぴったりの物があったにゃ!」
「なんじゃと?」
「マスター、紙袋の中にもう一つ瓶が入ってるにゃ。そのにゃかみを鍋に移して温めてくれにゃ」
「かしこまりました」
数分後、マオ、師匠、マスターの三人の前に、それぞれ湯飲みが置かれた。
その中には、湯気を立たせた白濁液が入っている。
マスターが興味深そうに手で仰いで香りを嗅いだ。
「これは、酒ですか? とても甘い匂いがしますね」
「これは『甘酒』というにゃ! ちにゃみにこれは米麹で作った甘酒だから、アルコールはまったく入ってにゃいにゃ!」
マオも湯飲みを自分の目の前に寄せ、またもくんくんと鼻を近付けた。
「ふむ。独特な臭みはあるが、うまそうな甘い匂いじゃ」
「それはいわばお子様用の酒だにゃ。存分に楽しむがいいにゃ」
「うむ。では……」
ズズズ。
「ん!? うまし! 思っておったよりもずっとどろっとした口あたりじゃ!」
マスターも続いて、
「ほんとですね。それにこれなら、アルコールが苦手なお客様にも出せますし。師匠、後でこの甘酒の作り方も教えていただくことはできませんか?」
「どんとこいだにゃ」
「ありがとうございます」
師匠も自分の分の甘酒をすすると、
「『セイライ』もうまいけど、こういう昔にゃがらの飲み物も懐かしくていいにゃ」
チビチビと甘酒を飲んでいた師匠に、マオがコトンと頭を寄せた。
「にゃんだ、マオ。ちょっと邪魔だにゃ。もう少しあっちに行くにゃ」
「……ふはは」
「にゃ?」
マオは師匠に頬ずりをすると、そのまま一気に師匠の耳をパクリとくわえてしまった。
「にゃ!? にゃぁぁぁぁぁ!?」
「はむはむ」
「にゃにするんだにゃ!? や、やめるにゃ!」
「ふはは~。よいではないか、よいではないか」
「お、お前、にゃんでアルコール0%で酔ってるんだにゃ!」
「なぁにぃ? わしは酔ってなどおらん。ただ、お主の耳が食べたいだけじゃ~」
「にゃあ!?」
「ふはは~。うまし、うまし」
「ふにゃあ!」
それから一時間ほど、師匠はマオに耳を舐められ続けることになった。
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〇本日の献立
・わさび漬け:わさびを刻み、酒粕に漬けた料理。酒粕が放つアルコールの香りと、わさびの辛さがご飯を進ませる。作り手によってかなり辛さが異なるため、場合によっては辛すぎて食べられないこともある。新鮮なわさびは辛さよりも香りが際立っており、お刺身や肉と一緒に食べるとうまさが際立つ。
・セイライ:雪国のダンジョンで採取できる『タリア紺碧結晶』という鉱物を叩いて伸ばし、紙状にしたものを数ヵ月水に浸した鉱物酒。『タリア紺碧結晶』は水をアルコールに変換する作用があるが、寒帯でしか保存できず、一度温めると再び冷ましても劣化し続けてしまう。
・甘酒:酒粕や米麹を原料として作られた飲料。米麹を用いた甘酒にはアルコールは一切含まれない。ただし、甘酒は前世が魔王だった場合にのみ、その封印された力を解き放つ。
元魔王の体内に侵入した甘酒は何かしらのそういったあれやこれやが反応し、酔いと同じような感覚を生じさせる。ただし、アルコールは0%なので子供でも安心して飲める。アルコール0%だから法律にも引っかからないし、体にも悪くない。アルコール0%だから何の問題もない。アルコール0%だから。
(※)マオが飲んだ甘酒にアルコールの類は一切含まれておりません。