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第33話 フロランタン

 フレデリカの朝は、部屋に差し込んでくる朝日と共に始まる。

 瞼にぶつかった太陽の明かりで即座に目を覚ましたフレデリカは、音もなく上半身を起こし、そのままスッとベッドを抜ける。

 そして、部屋に置かれたもう一つのベッドの上で静かに寝息を立てているミリアの横に跪くと、その寝顔をじぃっと眺め始めた。


(ふふ。ミリアは今日も幸せそうに眠っているな……)


 ミリアが呼吸をするたび、掛布団がわずかに上下し、フレデリカもなんとなくそれに合わせてゆっくりと呼吸をしてみた。


(あぁ、ミリア。お前はなんて可愛いんだ……。寝顔を見ているだけで幸せになれるなんて、まるで天使のようだ……)


 ミリアの額に少し寝汗がにじみ、寝苦しそうに身じろぎをした。


(おや? ちょっと暑いのか?)


 フレデリカはすぐに窓を開き、部屋の風通しをよくして、もう一度ミリアの横に腰を下ろした。


(ほら、ミリア。これで寝やすくなっただろう)


 ミリアの表情は、心なしかにこやかになった気がした。

 ミリアの髪がスッと口元に垂れ、フレデリカがそれを指で直してやろうと手を伸ばすと、爪の先がそっとミリアの唇に触れてしまった。


(あわわわ! わ、私としたことが、ミリアの唇に触れてしまった!)


 即座に手を引っ込めたフレデリカだったが、ミリアの柔らかな唇をじっと見つめて、


(……も、もう一度だけ、触っても……)


 そう考え、恐る恐るミリアの唇に指を伸ばした時、ミリアがぺろりと舌なめずりをし、その舌先が偶然にもフレデリカの指を優しく撫でた。


(あぁぁぁぁぁ! ミ、ミ、ミリアが! わ、わ、私の指を!)


 フレデリカの荒くなった鼻息だけが室内にこだまする。


(こ、こ、この指を、わ、わ、私はどうすればいいんだ!)


 フレデリカの頭の中の何かが、耳元で囁く。


『舐めちゃえ』

「えっ!?」

『だってそうでしょ? あの愛しのミリアの唾液が、今、あんたの指についてるのよ? だったら舐めない方がおかしいでしょ』

「し、しかし……そんなことをすれば、ミリアに嫌われてしまう!」

『大丈夫だって。ミリアはまだ寝てるんだから。バレないバレない。それに、あんただって舐めたいんでしょ? ミリアの唾液』

「……そ、それは……」

『さぁ、フレデリカ。自分に正直になりなさい』


 それは全てフレデリカの脳内で繰り広げられる自己問答であった。

 フレデリカはミリアの唾液が付着した指を、ゆっくりと自分の口へ運び始めた。


『そうよ。それでいいのよ、フレデリカ。そうして、あなたの舌で、ミリアの唾液を愛撫すればいいの。そして、あなたとミリアは一つになるの』


 だが、フレデリカは指を舐める直前になって、ピタリと動きを止め、そのまますっと立ち上がった。


『ちょ、ちょっとどうしたの!? 舐めないの!?』

「だ、だめだ……。そんなことをすれば、ミリアの期待を裏切ることになる……」

『バ、バレなきゃ大丈夫だって!』

「だめだ!」


 洗面所へかけこんだフレデリカは、泣く泣く自分の指を水で流し、その場に倒れこむように泣き崩れた。


「うぅ……。わ、私だって舐めたかったさ……。でも……でも……うぅ……」


 これこそ、フレデリカの変わらぬ日常の一幕であった。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 外を飛び回る雀の鳴き声で目を覚ましたミリアは、ゆっくりと瞼を開いた。

 ほんの一瞬、フレデリカがベッドの横でこちらを覗いているような気がしてごしごしと目をこすった。


「んー? フレデリカー? そんなところで何してるのー?」

「ようやく起きたか。ん? どうかしたのか?」


 目をこすり終えたミリアが再び室内に視線を向けると、フレデリカはベッドの横ではなく、クローゼットの前に立っていた。


「あれぇー? 今、ここでミリアのこと見てなかったー?」

「あはは。ミリア、寝ぼけてるんじゃないか」


 ミリアはふぁっとあくびをすると、照れたように笑った。


「ミリア、寝ぼけてたみたい」

「まったく。ミリアは本当に朝が弱いな」

「えへへー」

「ふふふ」


(危なかったぁぁ! 寝顔見てるところバレるところだったぁぁぁ!)


 フレデリカは動揺を悟られないように服を着替えながら、


「それよりミリア、今日は何かやりたいことがあるとか言ってなかったか?」


 まだ起きたばかりで頭が働いていないミリアは、しばらくぽけぇっと首を傾げて、ハッとベッドの上で立ち上がった。


「そうなのっ! あのねっ! あのねっ! 今日は料理教室があるのっ!」

「料理教室?」

「そうっ! えっとねー、お昼前に、師匠っていう人がお菓子の作り方を教えてくれるのっ!」

「あぁ、師匠か。……ん? それに、私も一緒に参加するのか?」

「……え、もしかして……嫌だった?」

「まさか! ミリアと一緒なら何をしてても楽しいからな。喜んで参加させてもらおう」

「やったー!」


 フレデリカがミリアの頭をぐしぐしと撫でると、ミリアは嬉しそうに「えへへ」と微笑んだ。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 約束の時間。厨房には、料理を教える師匠の他に、料理長を含めた数名の料理人と、フレデリカとミリア、それから少し離れた位置にリュカ、ポルンが座っていた。

 ミリアはリュカとポルンに近付き、はてと首を傾げた。


「あんたたちも来てたのね! ……あれ? マオは?」

「マオちゃんも誘ったんだけど、行きたくないって断られたの」

「どうして?」

「さぁ? 聞いても教えてくれなかったからわかんない」

「ふーん」


 ミリアたちが揃うのを確認すると、全身を割烹着で覆った師匠がみんなの前に立ち、「にゃほん」とわざとらしく咳をした。


「えぇー。みんにゃよく集まってくれたにゃ。今日はフランスやドイツという国で親しまれている、アーモンドを乗せたスイーツ、『フロランタン』の作り方を教えるにゃ。まぁ、教えると言っても難しいものではにゃいので安心するにゃ」


 師匠の姿を見たミリアが、こっそりとフレデリカに耳打ちする。


「ねぇ見て、フレデリカ! リトルキャットだよ! すごくかわいい!」

「そうだな。だが、あの格好は暑そうだな……」


 それから数組にわかれ、師匠が教えるフロランタンの作り方を聞きながら作業に移った。


「まずはバターをとにかく混ぜるにゃ! ここできちんと混ぜておかにゃいとだまになって失敗するにゃ!」


 ミリアがボールに入ったバターに泡立て器を差し込んで混ぜようとするが、中々思い通りにはいかなかった。


「か、固いぃ……」

「代わるか?」

「ううん……。だ、大丈夫……」


 ミリアは何度も手を休ませ、なんとかバターをクリーム状にした。


「次は、通常では砂糖をいれるにゃ。だけどいろいろ試してみた結果、『スラ蜜』の方がおいしく出来上がることがわかったにゃ。だからこっちを入れるにゃ」


 瓶に入った粘性のある金色の液体を、クリーム状にしたバターに流し込み、それを混ぜると、バター全体がほんのりと金色に変化した。


「わぁ! 綺麗! 見て見てフレデリカ!」

「あぁ。たしかに綺麗だ」


 その後、師匠の指示で卵を加え、そこへ小麦粉をふるい入れ、ヘラでしっかりと混ぜた。


「次に生地を冷やすんだけど、それにはこれを使うにゃ」


 師匠はどこからともなく透明の薄い膜を取り出した。

 それを見たフレデリカが、


「その膜は、『ハガレ(ぐさ)の外皮』か?」

「そうだにゃ! よく知っているにゃ!」


 ミリアがちょいちょいとフレデリカの服の裾を引っ張った。


「ねぇねぇ、『ハガレ草』ってなーに?」

「『ハガレ草』はダンジョンに生えている植物の一種で、表面の透明な外皮を引っ張るとどこまでも伸びる性質があるんだ。ダンジョン攻略中はそれを簡易な風呂敷として使ったり、傷口に巻いて出血を抑えたりできる」

「へぇ! すごいね、『ハガレ草』!」

「だがまさか料理に使うとはな……」


 やや遠くにいた料理長が、少し自慢げに言った。


「じ、実は、『ハガレ草の外皮』を料理にも応用できることを思いついたのは師匠なんです。な、なんでも、ラップ? というものの代わりだとかなんとか」

「ほぉ」


 師匠は持っていた『ハガレ草の外皮』の上に生地を置くと、それをくるっと外皮で包み込んだ。


「これを冷蔵庫で三十分寝かせるにゃ!」


 寝かせる、と聞いて、ミリアが不思議そうな表情を浮かべた。


「寝かせる? 疲れちゃったの?」

「にゃはは。寝かせるというのはそっとしておくということだにゃ。そうすることで食感がよくにゃったり、味にばらつきがでにゃくにゃるにゃ」


 言われるままに『ハガレ草の外皮』でくるんだ生地を冷蔵庫に入れると、ミリアはフレデリカに冗談ぽく、


「寝返りとかうったりして」

「……まぁ、ミリアみたいにおねしょはしないだろうし、問題ないだろ」

「ミ、ミリアおねしょなんてしないもん!」



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 三十分後、寝かせておいた生地を四角く伸ばし、それにブスブスとフォークを刺していった。

 フォークを生地に刺すたび、ミリアがにたりと笑う。


「これ楽しい!」

「そうか。よかったな」

「フレデリカもやってみて!」

「私もか?」


 フォークを渡されたフレデリカも、見よう見まねで刺してみる。


「ほら! フレデリカも楽しいでしょ!」

「あぁ。楽しいな」

「えへへー」


 その生地をオーブンで焼いている間に、師匠が各料理台に少し焼き後のついたアーモンドを持ってきた。


「これは事前に焼いておいたアーモンドにゃ! 今からこれに味をつけるにゃ!」


 ちょこちょこ歩く師匠の後ろ姿を見て、ミリアが「かわいいー!」と声を漏らし、フレデリカの方を向いて上目遣いで、


「アーモンドをおいしくするにゃ!」

「かわいい」

「えへへー」


 それから師匠の指示で、運ばれたアーモンドに牛乳、『スラ蜜』、バターを加え、弱火で煮詰め、それを焼き終えた生地の上に丁寧にのせていった。


「これ焼いたら完成だって!」

「ふむ。思っていたよりも簡単だな」

「……あっ! これを焼いたら完成だにゃ!」

「かわいい」


 味付けしたアーモンドがオーブンの中で焼かれること十五分。ちょうどお昼時になり、厨房のカウンターの向こうには少しずつギルドがメンバー昼食をとりに来ていた。

 料理長達は事前に用意しておいた食材をテキパキと並べながら、オーブンから焼き終えた生地を出した。

 食堂中に甘いアーモンドの香りが立ち込める。

 料理長は包丁を取り出し、それを丁寧に切り分けて、ミリア達もぞろぞろと食堂へ移動した。


 フレデリカと一緒に席についたミリアは、リュカとポルンが食堂を出て行こうとしていたので首を傾げた。


「あれ? 二人とも帰っちゃうの? ここで食べないの?」

「うん。理由はわからないけど、今日はマオちゃん来なかったから、部屋に持って帰って一緒に食べようと思って」

「そうなんだ。じゃあ、マオによろしくね」

「うん。じゃあねー」


 ポルンとリュカは手を振り、そのまま食堂を後にした。

 ミリアは改めて目の前に置かれたフロランタンに視線を向ける。

 表面はほんのりと黄金色に染まり、生地は『スラ蜜』の影響でわずかに金色に輝いている。


「ほら見て、フレデリカ! こんなに綺麗にできたよ!」

「あぁ。ミリアが頑張ってくれたおかげだな」

「食べていい? 食べていい?」

「もちろん」


 さくり、と一口頬張ると、ミリアはみるみる笑顔になった。


「おいしい!」

「そうか。よかった」

「フレデリカも食べて!」

「あぁ。じゃあ、もらおうかな」


 フレデリカが自分の目の前にあったフロランタンに手を伸ばそうとすると、不意に、ミリアがそれを遮った。


「はい、フレデリカ。あーんして!」

「……え?」

「ほら、あーん!」

「……い、いや、自分のがあるんだが……」

「いいから! こっちの方がきっとおいしいから! あーんして!」


(い、いやいやいや! 完全に油断してた! フロランタン食べてるミリアめちゃくちゃ可愛いとか思ってる場合じゃなかった! こ、こ、このフロランタンを食べるってことは、わ、わ、私は、ミリアと間接キスをするってことなんだぞ! い、いいのか……? そんなことをすれば、ミリアに嫌われてしまうんじゃないか!?)


「ほらー。早くー、フレデリカー」


(あわわわわ! こ、これは、もう……いくしかない!)


 パクリ。


「どうー? おいしいでしょー?」

「…………あぁ。間違いなく、世界一おいしい」

「えへへー。よかったー!」


 その夜、フレデリカは興奮のあまり、一睡もできなかった。





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〇本日の献立

・フロランタン:フランスで生まれたスイーツ。サクサクとした食感の生地の上に、甘く煮詰めたアーモンドを散りばめている。できたてはサクサクとしておいしいが、少し時間を置くとしっとりとしてまた別の食感が楽しめる。

 料理教室で作ったフロランタンのほとんどは食堂に集まったギルドメンバーに配られた。ちなみに、少し前に『世界樹の根』から採取できる甘い蜜を食べ過ぎたマオは、しばらくは甘い物など食べたくないのでリュカとポルンの誘いを断った。

 リュカとポルンがフロランタンを差し入れに来ることを、部屋で昼寝をしているマオはまだ知らない。


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