前へ次へ
32/44

第32話 アナグラ

 マオ達が住んでいる街、ポノノア。その街を横断するように流れる川沿いに、夜になるとぼんやりと発光する『ヒカリヤナギ』があり、その角を曲がったところに『アナグラ』というバーがある。


 落ち着いた店内のカウンターで、ちょうど休みが重なった団長、料理長、フレデリカの三人が静かに酒を飲んでいた。

 ひとしきり酒を飲み、顔をほんのりと赤く染めた団長が舌っ足らずで言う。


「もー。私はねー。怒ってるのー!」

「ちょ、ちょっと、飲み過ぎですよ、団長」

「料理長はいいわねー。みんなから好かれててー……。私なんて誰からも見向きもされないんだから……ひっく」


(うわぁ……。団長、すっかり酔っぱらっちゃってる……。ちょっと面倒くさいなぁ……)


「そ、そんなことありませんよ。みんな団長のこと大好きですよ」

「あー、いいわねぇ、人気者はぁ! 私みたいな除け者にまで気を配る余裕があるんですものー!」

「だ、団長……飲みすぎですって……」


 二人から一つ離れた席で、フレデリカが枝豆を頬張りながら、


「料理長の言う通りだぞ。お前はもう少し自分に自信を持て」

「うるっさいわねぇー。あんただって友達少ないじゃない。大体目つきが悪いのよ、目つきが。もう少し笑いなさいよ。ほら。笑いなさいよぉ!」


(鬱陶しいなぁ……)


 苦笑いを浮かべた料理長が慌てて口をはさんだ。


「で、でも、最近、フレデリカさんはミリアちゃんといる時はよく笑っていますよね」

「何? そんな自覚はないが……」


(え……じ、自覚ないんだ……)


「本当ですよ。と、とても楽しそうで、見ていて安心します」

「……まぁ、あの子の近くにいるだけで……こう……優しい気持ちになれることは確かだな」

「ミリアちゃん、とってもいい子ですもんね!」


 料理長とフレデリカの話を聞き、団長が「けっ」とやさぐれたように残っていた酒を飲みほした。


「のろけてんじゃないわよー。そんな話聞いてても全然おもしろくないの! あーもー! マスター、何かおいしいものちょうだい! おいしいもの!」


 団長達が座るカウンターの向こうには、黒いベストを着た一人の女性が立っていた。長い髪を後ろで一つに縛り、長身で、温和な狐目をしている。

 マスターと呼ばれたその人は、物静かに拭いていたグラスをカチャリとケースの中にしまった。


「おいしいもの、ですか……。そうですねぇ……。では、アヒージョなんてどうでしょうか?」

「アヒージョ? 何それ?」

「私も最近師匠から教えてもらったばかりの料理なんですが、なんでも、スペインという遥か遠くにある国で誕生した料理だそうです」

「へぇ、どんな料理なの?」

「簡単に説明すると、たっぷりのオリーブオイルの中に味付けしたエビや貝、あるいは肉などを入れ、バケットと一緒に食べる、という感じですね。ワインがとてもよく合いますよ」


 料理の説明を聞いた料理長が、ぐっと身を乗り出した。


「わ、私、ぜひ食べてみたいです! アヒージョ!」


 フレデリカがぼそりとたずねた。


「ん? なんだ? 料理長はその、アヒージョという料理を師匠から習わなかったのか?」

「し、師匠は数えきれないくらいの料理が作れるんです。なので、さすがに全部教えてもらうなんてことは……」


 団長が空になったグラスを掲げ、


「もう、なんでもいいからそれちょうだい! それとおかわり!」

「かしこまりました。では、少々お待ちください」



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 しばらくして、三人の目の前にそれぞれ小さな土鍋が置かれ、その中には並々と注がれたオリーブオイルに、よく火の通ったエビが綺麗に並べられている。横には数枚のバケットと白ワインも添えられている。

 料理長が興味津々に、


「これがアヒージョ……。こ、この油はオリーブオイルですか?」

「はい。そうです」

「……す、すごいインパクトのある見た目ですね。うーん……。師匠はどうしてこんな斬新な料理を知ってるんだろう……」

「おや? ルナさんも知らないのですか? あなたは師匠の一番弟子なので、てっきり知っているものかと」

「……い、一番弟子といっても、師匠がこの街に初めて来たとき、偶然居合わせただけですし……」

「そうなんですか……。まぁ、あの方はあまり自分の話をしたがりませんからね、こちらからも詮索しない方がよいのかもしれませんね」

「……そ、そうですよね」


 料理長とマスターが喋り終えると同時に、団長とフレデリカがオリーブオイルにひたったエビにフォークを突き立て、パクリとかじりついた。


「んっ! おいしいっ!」

「たしかに、うまいな。オリーブオイルとにんにくの香りがいい。白ワインともよく合うな」

「お気に召していただけたようで幸いです。そちらのバケットはオリーブオイルを塗って食べていただくとよいかと」


 団長は言われるがままにバケットを頬張り、満足そうな表情を浮かべた。


「ほんとねー。やっぱり香りがいいのね。どんどん食べちゃうかも。……でもこれだけ大量の油を食べるってなると、ちょっぴり体に悪そうね」

「いえ、そんなことはありませんよ。たしかにあまり食べすぎるとよくありませんが、オリーブオイルは体に吸収されにくく、通常の油よりもヘルシーなんです」

「そうなの? さすがマスターね。うちの料理長よりも料理のことに詳しいんじゃない?」

「いえ、そんなことは……」


 すかさず、料理長が団長を睨みつけ、早口で語り始めた。


「オリーブオイルとは、オリーブの果肉から絞り出した果汁の表面に発生するオイルのことです。オリーブオイルの成分には酸化されにくいオレイン酸が多く含まれているので、常温で固まりにくく、腸を刺激する作用もあるので便通もよくなります。特定の地域では油と言えばオリーブオイル、というほど日常的に使用されています。そもそもオリーブとはモクセイ科の常緑高木のことで――」

「じょ、冗談よ、料理長! 料理長の方がずっと料理に詳しいから! だ、だからその真顔やめてちょうだい……」

「いえ、わかってもらえればいいんです」


(いやいや……。まだ真顔なんだけど……)


 団長は新たに白ワインを継ぎ足してもらうと、


「さぁ、二人とも! 今夜は朝まで飲むわよ!」


 その声に、先に自分の分のアヒージョを完食したフレデリカが席を立って、


「いや、悪いな。私はここらでおいとまさせてもらう」

「えぇっ!? もう帰るの!? 早くない!? もっと飲もうよ~フレデリカ~」

「だめだ。明日はミリアと約束がある。だから早めに寝て体を休めておくことにする」

「もー」


 そのままフレデリカは先に会計を済まし、そそくさと『アナグラ』を後にした。

 フレデリカの背中を見送ると、ぼんやりと団長がぼやいた。


「フレデリカも変わったわねー。最初は教育係なんてやるもんかって啖呵切ってたくせに」

「ミリアちゃん、かわいいですからねー。つい一緒にいたくなるんじゃないですか?」

「そんなものかしらねぇ……」


 団長は改めて、


「まぁ、帰っちゃったものは仕方がない! さぁ料理長! 私たちは朝まで飲むわよ!」

「い、いえ、私も、今日はこの辺で……」

「うそっ!?」

「じ、実は明日、師匠に新しい料理を教えてもらう約束をしているので……。だ、だから今日はこれで帰りますね」

「えぇ!?」

「じゃ、じゃあ、おやすみなさーい」

「料理長!?」


 料理長が出ていくと、無情に、パタン、と扉が閉まり、取り付けられたベルの音だけが残った。

 団長はカウンターにぐったりとうなだれて、


「何よ何よ! どいつもこいつも小さな女の子とばっかり遊んじゃって!」

「そ、それだけ聞くと、何やら不穏ですね」

「マスター! マスターは帰ったりしないわよね!?」

「え、えぇ。私は仕事ですので」

「うぅ……。マスター……。みんな帰っちゃって、私寂しい……悪いけど、今日は閉店まで付き合ってもらうわよ……」

「えぇ。私でよければ、いつまででも付き合いますよ」

「さすがマスター!! とりあえずアヒージョおかわりで!!」

「かしこまりました。すぐにご用意いたします」


 こうして、『アナグラ』の夜は更けていく。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


〇本日の献立

アヒージョ:スペインの代表的な料理の一つ。『アヒージョ』とはスペイン語で『小さなにんにく』を意味する。たっぷりのオリーブオイル、にんにく、鷹の爪、塩などを入れるのが一般的で、バケットやチュロスをオリーブに浸して食べる。白ワインや赤ワインともよく合う。団長はこの後飲みすぎて眠ってしまったため、マスターが自宅に連れ帰って看病するはめになった。


前へ次へ目次