どこにでもいる学生達と、読書の秋とハロウィンの日。
ハロウィンとは何か。
営業戦略の道具か、それとも馬鹿騒ぎの口実か。
否。
古代ケルト人が生み出した、秋の豊穣を祝い悪霊を追い出す神聖なる行事である。
「……今回はどこの記事を丸覚えしてきたの? 京介くん」
「ウィキペディアだな」
十月三十一日、今日はハロウィンである。
パイプ椅子に座った少女の呆れた声が部屋に響く。彼女に京介くんと呼ばれた俺は、長机を挟んだ彼女の向かいでポッキーの袋を開けながら素直に答えた。
「そんなとこだと思ったわ。テストでも下から数えた方が早い成績の貴方が、古代ケルト人なんて知ってるはずないもの」
「……別にソースがウィキペディアだろうとアンサイクロペディアだろうと、間違ってなかったらそれでいいだろ」
まぁ確かに、古代ケルト人なんて聞いたことも無かったのは事実ではあるが。
ポッキー片手に開いた文庫本のページを繰りながら、ちらとその文字列から彼女の居る空間に視線を移す。
彼女、橘和葉を一言で形容するならば、やはり文学少女であろうか。
肩まで伸びた髪はおさげに結われ、黒縁の眼鏡の奥には吸い込まれそうな程黒い瞳が鎮座している。そしてその双眸は今、彼女の両手で開かれた夏目漱石の「草枕」へと向いていた。
「――そもそも、その続きにはこう書いてあるはずよ。『現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている』と」
「……なんで部長も丸覚えしてんだよ」
「部長と呼ぶのはやめなさいって言ってるでしょう? 副部長くん」
文庫本を閉じてスマホをポケットから取り出し、一字一句違わないことを確認して俺は呆れた様子で彼女の肩書きを呼ぶと、間髪入れずにむず痒い肩書きが跳ね返ってくる。
いや、厳密には時野京介は副部長ではない。そして、橘もまた部長ではない。
ここ、安曇高校にて俺達が所属していた文芸部は、去年の冬先輩達の卒業と同時に廃部になった。元々活動なんてろくにしていなかったし、部員が俺と彼女の二人しか残っていないのだから当然と言えば当然である。
だが、一方で高二の俺達が今更改めてどこか別の部活に入るというのもまたなかなか難しい話であった。既に形成されたコミュニティに割って入れるほど、俺達は人付き合いが上手くない。なんなら人より苦手な部類である。
通常の人間ならここでさっさと諦めて帰宅部になるのだろうが、しかし彼女は通常では無かった。
何をどうしてそうなったのか彼女は廃部を「敗北」と受け取り、持ち前の負けず嫌い精神と共に俺を引き連れ廃部後も通い続けたのである。こうして、ここに名ばかりの部長と副部長が生まれたのだ。
「――要するに俺が言いたいのはな、リア充が騒ぐ口実にいちいちイベントを使うなってことだよ」
「イベントが無くなったら無くなったで、毎日騒ぐようになるだけよ。くだらないことで読書の邪魔のしないでくれるかしら」
再度文庫本を開きながらそうこぼすと、彼女は俺とリア充をまとめてバッサリ切り捨てる。見た目のまんま、相変わらず読書に対する熱意は凄まじい。幾度も読まれたであろう彼女の草枕は、しかし折れひとつない綺麗な姿のままであった。
「んじゃ、帰っていいか?」
「待ちなさい」
机のポッキーを掴んでパイプ椅子から立ち上がると、彼女は素晴らしい反射神経と共に俺を静止する。
「そこに居なさい。部長命令よ」
「……へいへい」
その圧の籠った声に、俺はパイプ椅子に体重を戻しながらポッキーを再展開し、また書籍のページを捲り始める。
こんなやり取りも、春から何十回目だろうか。
負けず嫌いの彼女は、同時に寂しがり屋でもあった。それは早々に諦めて帰宅部になろうとしていた俺が、部活動に巻き込まれた理由でもある。
もっとも、橘はその寂しがり屋を「兎年だから」とかなんとかよく分からん理屈で正当化していたのだが。
実際、別に悪い気はしない。頭脳明晰で、それでいて美人の女子高生と二人っきりで嫌な気分になる奴なんてそうそう居ないだろう。
ましてやその美人に好意を抱いているのなら、尚更である。
だが、彼女が寂しがり屋なら俺はヘタレであった。その好意を彼女に打ち明けるほどの度胸を、残念ながら俺は持ち合わせていないのだ。
故に俺は、せめてこの曖昧な関係を楽しむことにした。
こんな青春も悪くないと、割り切ることにしたのだ。
「――もう、こんな時間」
「だな、あと十五分で最終下校時刻だ」
あれからおよそ二時間、互いは互いの読書に没頭していたらしい。
食べ終えたポッキーの箱を部屋の隅のゴミ箱に放り投げると、草枕の世界から戻ってきたらしい彼女が時計を見ながら呟く。
「それじゃあ、私はもう帰るけれど」
「俺は推理短編読んでる最中だから、俺はこの話が終わってから出るよ」
「そう。なら、戸締りはお願いするわね」
言いながら彼女は荷物をまとめ始める。といっても、草枕を鞄に入れるだけなのだが。
鞄を肩に掛けた橘は、机の横を抜け俺の隣に立つ。そして先程までポッキーのあった位置に、かしゃんと軽い音を立てて彼女は部屋の鍵を置いた。
彼女の腕が視界の端を掠め、ふわりとなんの種類かも分からない花の心地よい匂いが鼻に触れる。
「はい、鍵。それと……」
直後、頬に感じたその柔らかい感触の正体をすぐには理解出来なかった。
視界を塞ぐように大きく揺れるは、しなやかな髪をまとめたおさげの片割れ。だがそれも、次第に小さくなる揺れとともに左端へ消えてゆく。
「……は?」
たっぷり十秒、俺達は固まっていた。
「とりっくおあ、とりーと」
か細く震えた、ともすれば聞き逃してしまいそうな彼女の声を耳が拾う。そうして彼女が離れた今も、まだ頬には熱が残っていた。
「ずっと待っていたのに、お菓子をくれなかったからいたずらしただけよ。京介くん、また明日」
「いや、橘お前くれなんて一言も……」
同じく震えた声は、しかしガラガラピシャンと閉じられた扉に遮られる。直後その向こうからは、乾いた上靴の駆ける音が響いてくるのみであった。
どうやらずっと、呆けていたらしい。
最終下校時刻の鐘の音で、ようやく俺は我に返った。
――お菓子をくれなきゃイタズラするぞ。
小さい頃から何度も聞いていたそのセリフを脳内で反芻させながら、俺はゴミ箱に刺さった、去り際に見えた彼女の耳と同じくらい真っ赤なパッケージを拾い上げた。
少し早い気もするが、受験用パッケージというやつらしい。「がんばれ!」という手書き風の文字が、そこにはでかでかと描かれていた。
ふっ、と口元が緩む。
「……菓子にまで、応援されたらな」
ハロウィンとは何か。
営業戦略の道具か、馬鹿騒ぎの口実か、それとも古代ケルト人達の豊穣を祝うお祭りか。
どれだっていい。
ただ、今年のハロウィンはあるヘタレにとってとてつもなく幸せな日であり――。
そして、覚悟を決めた日であった。