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第三十話 不死者の不調(side:ルナエール)

 ――カナタが《地獄の穴(コキュートス)》を脱したのと同時期、《地獄の穴(コキュートス)》の地下九十五階層にて。

 ルナエールは、階層内を探索していた。


 《地獄の穴(コキュートス)》では、昨日まではいなかった魔物がふらっと出没したり、誰も見たことのないようなアイテムが唐突に現れることがある。


 一説によれば、神々が持て余した魔物やアイテムを一か所に集め、悪魔に管理させているという話だが、定かではない。

 ただ一ついえることは、《地獄の穴(コキュートス)》は、訪れた人間がその突拍子もない荒唐無稽な説を支持してしまう程には魔境だということである。

 人智が及ぶような領域ではないのだ。


 もっとも、千年の時をこの地で生きたルナエールにとっては、この《地獄の穴(コキュートス)》さえ丁度いい散歩場所にしかならない。

 見慣れない魔物が現れ、新しいアイテムの出続けるこの地は、永きを生きる彼女にとって都合がいいのである。

 魔法修行の他は、この地のアイテム収拾がルナエールの趣味であった。


 如何なる魔物が出て来ようとも、ルナエールが後れを取ることはない。

 何せ彼女は、神々がこの世界ロークロア最強の悪魔として設置したサタンでさえ片手で倒せる程の実力者である。

 少なくとも、普段の彼女ならばそのはずであった。


 ただ、この日のルナエールは、ぼうっと、魂の抜けたような顔つきで通路を歩いていた。


 ルナエールはほとんど変化のない、ただ一人で探索と修行を続けるだけの日々にも、既に慣れてしまっていたつもりだった。

 大きな感動がなく、目指すべき到達点もない、それこそ亡霊の様な日々であった。

 しかし、その毎日にもさして疑問は抱いていなかった。

 元々ルナエールは世界に絶望し、遠回りな自殺としてこの《地獄の穴(コキュートス)》へと訪れたのであった。


 ただ、自身を慕ってくれる青年カナタとの一か月半に渡る奇妙な修行の日々が、彼女の中の常識を塗り替えてしまっていた。

 元々空虚だと自覚のあった当たり前の日々へと帰還し、たかだか二日目にして彼女の精神を絶望が蝕みつつあった。


 ルナエールは壁に手を突き、よろめく身体の体重を預ける。


「……カナタ」


 ぽつりと未練がまし気に彼の名前を呼んで、ひとり溜息を零した。


「……やっぱり、この《地獄の穴(コキュートス)》から出さなければよかった。いっそ、カナタも私と同じ、リッチにしてしまえば……」


 続けて自分の口から出た言葉の意味にはっと気が付き、大慌てで一人首を振る。


 そんなことは考えてもならない。

 絶対に許されることではなかった。

 もしもそんなことをすれば、他の誰でもなく、ルナエール自身が自分を責め続けることになる。


 ルナエールはそっと腕を伸ばし、自身の身体を抱き、目を瞑った。

 最後の別れ際で、カナタが冥府の穢れを無視して抱きしめてくれた時のことを思い返していた。

 ようやくどうにか平静を取り戻し、そっと腕を解いた。


(ノーブルにも要らぬ心配を掛けているようですし、今日は早めに戻りますか……)


 ルナエールがそう考えて来た道を引き返そうとしたとき、遠くにカナタの姿が見えた。

 自身の表情が微かに緩み、同時に身体が内から熱くなる感覚を覚えた。

 緩む表情をぐっと絞り、ルナエールは彼へと駆け出した。


「カッ、カナタ、どうして、ここにいるのですか! あれほど私は、外の世界に向かえと言いましたのに……! 駄目ではありませんか、すぐに外へ……!」


 すぐ近くまで接近してからようやく、カナタはルナエールの方を向いた。

 カナタに似つかわしくない、不気味な満面の笑みであった。


「カナ……」


 カナタはルナエールを素早く抱きしめる。

 掴まれた肩の薄い衣が裂ける。

 ルナエールが目をやれば、カナタの両腕は肥大化しており、その先には大きな鉤爪がついていた。


 同時に彼の腹部が大きく縦に裂け、中から植物の根のようなものが突き出してルナエールの身体を貫通した。

 ルナエールの小柄な身体が持ち上がる。

 伸ばされた異様に長い両腕は、今なお彼女の身体をがっしりと掴んでいた。


「がはっ! あ、あなた……カナタじゃない……ファンタズマ!」


 カナタ擬きの顔と身体がどんどん白くなり、人型が布を被ったような不気味な姿になる。


 ファンタズマは、幻影鬼とも呼ばれる凶悪な魔物であった。

 ファンタズマは見る者に、自身の姿を大切な人と誤認させる能力があった。

 通常のルナエールであれば、この程度の手品には掛からなかった。

 ただ、今の彼女は精神が不安定であり、それが大きな徒となっていた。


「ケタケタケタ、ケタケタ」


 ファンタズマが笑う。


「油断……しました」


 腹に大穴を空けられたルナエールがぽつりと漏らす。

 直後、ルナエールはファンタズマの不気味な腕による拘束を力で押し切り、白くて丸っこい頭部へと頭を添えた。

 頭を中心に魔法陣が展開される。


「時空魔法第十八階位《空間掘削(ドリリング)》」


 ファンタズマの頭が綺麗に消し飛び、ファンタズマの身体がその場に倒れた。

 《空間掘削(ドリリング)》は、指定した範囲をこの世界から別次元の世界へと斬り飛ばす魔法である。

 射程も攻撃範囲もそれほど広くないが、すぐに発動できるのが強みである。


 ルナエールは続けて《空間掘削(ドリリング)》で、ファンタズマの腹の口から伸びた根のようなものを切断し、身体を捩って串刺しから逃れた。

 ルナエールは、自身の口から流れ出る青白い血を拭う。

 それから肩の破れた衣、腹部に空いた大穴へと目線を戻す。


「……私が、こんな程度の魔物に後れを取るなんて」


 ただ、この程度の魔物相手に先手を取られたからといって、ルナエールが敗れるようなことはなかった。


「時空魔法第二十二階位《治癒的逆行(レトグレーデ)》」


 ルナエールの怪我や破損した衣が、見る見るうちに再生していく。


 《治癒的逆行(レトグレーデ)》は、身体の怪我や病を治癒する白魔法ではなく、時空魔法に所属する。

 怪我を治癒しているのではなく、因果を選択的に遡って再生しているのである。

 故に、対象は肉体面の破損だけに限らない。

 物の修理に特化した時空魔法は別に存在するため、生物向けとしての魔法である《治癒的逆行(レトグレーデ)》はやや効率が悪くはあるのだが、この程度の修復であれば、ルナエールにとっては誤差程度であった。


「こんな調子では、ノーブルに笑われてしまいますね……」


 ルナエールは一人呟き、小屋へ続く帰路へと向かった。

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