第六十六話 理不尽な姉
風呂に入って長旅の汚れを洗い流し、さっぱりした俺とユルゲンは服を着ながら今後のことを相談する。
「とにかく今は姉上のペースです。姉上のペースに飲まれないようにしましょう」
「はい。しかし、見事に先手を取られてしまいましたね」
そう言うユルゲンの顔は全然悔しそうじゃない。むしろさすがだ、と称賛しているような顔だ。
まぁ見事にこっちの思惑を打ち砕いたあたり、さすがといえばさすがなんだが感心している場合じゃない。
「弟としての感想ですが、姉上のラインフェルト公爵への態度は嫌っているものではないと思います。むしろ好ましいと思っているかと」
「本当ですか!?」
「俺がそう感じたという話ですが、リーゼ姉上はああいう性格ですから。いくら俺が来るからといって嫌っている人間の屋敷には来ません。やはり縁談を受けない理由はあの人が言った条件にあるんでしょうね」
「〝共に死ねぬ者とは結婚しない〟ですか……」
「はい。逆にいえば、その条件を満たせば結婚すること自体は嫌がってないということです。結婚自体に否定的ならどうしようもありませんが、あれでも一応は皇族の女性ですからね。幼い頃からいずれ自分は結婚すると教えられています。ですから公爵が条件を満たすと証明できれば希望はあります」
「なるほど……しかし、あの方と共に死ねる者となればあの方の側近になるしかありません」
それが問題だ。
姉上はわざわざ軍に入ったユルゲンを追い出している。
側近になるチャンスを姉上が塞いだんだ。
その一点だけが姉上らしくない。軍に入って、ユルゲンが挫折したわけじゃない。姉上が手を回して追い出したんだ。
どうもその点が気になる。
「どうであれ、最低限戦えることは証明しなくちゃいけません」
「わかっています。リーゼロッテ様に修練の成果をお見せしましょう」
そう言ってユルゲンは意気揚々とポンと出た腹を叩く。
ブルンと振動する肉を見て、なんとなく不安になったがさすがに口には出せなかった。
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「長風呂だな。髪と体を洗うのにそんなに時間がかかるものか?」
「風呂を髪と体を洗うものだと決めつけるのは風呂への冒涜ですよ。リーゼ姉上」
開口一番、そんなことを言うリーゼ姉上の髪は艶やかだ。
おそらく言葉とおり大して手間をかけてない。たぶん普通に洗っているだけだ。
世の女性たちからの顰蹙を買いそうだな。
俺とユルゲンは姉上が座っている丸テーブルにつく。テーブルには紅茶が用意されている。お菓子もあるが、姉上が自分のほうに引き寄せているため手を出せない。
「そんなものか? 戦場では水が貴重だからな。楽しむということをしないんだ」
「帝都にいたときは気にしなくてよかったですよね?」
「帝都にいたときは侍女たちもいたから嫌だった。結局、どこにいようと私は早風呂だ。どうも風呂を楽しむという感覚がわからん」
ある意味侍女たちもすごいな。
この姉と一緒に風呂に入って、体を流すとか怖くないんだろうか。
まぁそんなこと考えてたらやってられないんだろうけど。
苦労の多い仕事だな。今度、母上の侍女たちに差し入れを持っていこう。
「風呂は隙が多いですからね。リーゼロッテ様は無意識にそういうのを嫌っているのかもしれませんね」
「おお! それだ! 良いことを言うな。ユルゲン」
笑みを浮かべながらリーゼ姉上はユルゲンを褒める。
そして褒美とばかりに自分の前にあったお菓子をユルゲンに渡した。
あの姉上が物を与えるなんて!?
衝撃だった。
リーゼ姉上は自分の物への執着が強い。思い入れが強いともいえるだろう。俺ですら姉上の物を貰ったことは数えるほどしかない。
かつて、リーゼ姉上の部下が大貴族の不興を買って、暴行されて治療を受ける羽目になったことがあった。それを聞いたリーゼ姉上はその大貴族の家まで押し入り、こう言い放った。
私の部下は私の物だ。その命まで私が預かっている。つまり貴様は私の所有物を勝手に傷つけたということだ、と。そこからリーゼ姉上は大貴族をボコボコにしてしまった。
かなり問題になったが、皇太子があちこちに働きかけて大問題に発展する前に収めたのをよく覚えている。
その姉上がユルゲンにお菓子を与えるなんて……。まぁ元を正せばユルゲンの物だし、お菓子も三人で食べるように出されたはずなんだが。
それでも非常に珍しい。これだけでも姉上がユルゲンをそれなりに気に入っているのが見て取れる。
「感謝します」
「うむ」
たかがお菓子をユルゲンは大層ありがたそうに受け取り、姉上もその態度を当然として受け入れている。
今日はやけに機嫌がいいのかもしれない。
その可能性を探るために俺は意を決してお菓子に手を伸ばす。
すると、視界がぐるりと回り、背中に衝撃が来た。気づけば俺は床に仰向けで転がされていた。
「久々に会ったら手癖が悪くなったようだな? アル」
「リーゼ姉上は相変わらずなようで……」
伸ばした右手の手首は姉上に掴まれている。
片手で手首を返し、体勢を完全に崩されたようだ。しかも怪我をしないようにソフトな着地。
お菓子ごときで恐ろしい姉だ……。
「おかしい……機嫌がよいはずでは?」
「機嫌はいいぞ。久々にお前に会えたからな。帝都で暇を持て余しておきながら、私のところに会いに来ない姉不孝な弟だというのに、会えただけで機嫌がいいんだ。素晴らしい姉だと思わないか?」
「どうでしょうか。お菓子を取ろうとしただけで、軽く投げ飛ばす姉を世間一般では素晴らしいとは言わないかと」
「お前が黙って私のお菓子を盗ろうとするからだ」
「おかしいですよ? それ、三人分ですからね? 全員で分けるためのお菓子です」
「当然のように私の目の前に置いてあったぞ? つまり私の物だ」
「……」
そう言って姉上は美味しそうにお菓子をつまむ。
前線ではお菓子はあまり出てこない。元帥である姉上なら贅沢しようと思えば贅沢できるんだが、そんなことをすれば兵士に示しがつかないと姉上は質素な暮らしをしている。
だから姉上としても久しぶりのお菓子なんだろう。だいぶご機嫌だ。
そんな姉上を見て、ユルゲンも幸せそうだ。
なぜだ。どうして俺だけが手首を固定されているんだ。理不尽だ。
さきほどからもがいているのに、姉上の拘束から抜け出せない。
「姉上。そろそろ放してもらえませんか?」
「なぜだ?」
「なぜだ!?」
「謝っていない者を放すわけがないだろ?」
「ですからそれは元々三人分のお菓子でして」
「私の物だ」
「……お菓子を盗ろうとして申し訳ありませんでした」
「もう少し付け足す言葉があるはずだぞ?」
「〝姉上の〟! お菓子を盗ろうとして申し訳ありませんでした」
「よろしい」
そこまで言ってようやく俺は解放された。
手首をさすりながら椅子に戻ると、姉上の前にあったお菓子はもうほとんどなかった。
「うん? ユルゲン。お菓子がなくなったぞ?」
「自然消滅したみたいな言い方しないでください。姉上が食べたんでしょうが」
「すぐに用意させます」
「うむ」
「……」
なぜ俺の突っ込みが華麗にスルーされなきゃいけないんだ。
ユルゲンが手を叩くと侍女たちが小皿に乗ったケーキを持ってきた。匂いからして甘い。しかし嫌な甘さじゃない。チーズケーキだろうか? 美味そうだ。
まずそれは姉上の前に置かれる。次に俺の前に置かれ――横から伸びてきた姉上の手によって姉上の前に引き寄せられた。
もう我慢ならん!
「ちょっと!! おかしいでしょ! これは!」
「なにがだ?」
「何もかもですよ! なんで俺の前に出された小皿を持っていくんですか!? 姉上の分があるでしょ!?」
「ないが?」
「もう食べたの!? 早っ!? っていうか、それ俺のですから! さらっと食べようとしないでください!」
「弟の物は姉の物だ」
「なんですか、その横暴な理論!? じゃあ妹の物は兄の物だって言われたら納得するんですね!?」
「私は理不尽には屈しない」
「このっ!? ええい!」
何を言っても無駄だと察して、俺は強硬手段でケーキに手を伸ばす。
しかし、姉上は片手で俺の手を弾く。そしてもう片方の手でケーキを食べ始めた。
このっ!
絶対に奪い取ってやると決意して両手で挑むが、すべて片手で捌かれた。
そうこうしている内に俺のケーキは姉上に食べられてしまう。
「ああ……」
「アルノルト殿下。どうぞ、僕のを食べてください」
「公爵……ありがとうございます。いただきま」
「弟の物は姉の物だと言ったはずだぞ?」
ユルゲンから渡されたケーキも俺の手に届く前にインターセプトされた。
そしてそのケーキも結局、姉上の腹の中に収まった。
理不尽だ……。
結局、俺はその場で何も食べることができなかった。
二回更新ばっかりしていたので、一回更新のときの話の作り方を忘れてしまった(;´・ω・)
テンポが遅いかもしれませんがしばし御辛抱を