ジゼル
誰かを慈しむことを、もう随分忘れていた。
『お兄さま、またそんなことをして!』
そう可憐な声を荒げたのは、双子の妹達だ。
乳白青の真っ直ぐな長い髪、金色の瞳。
たおやかな美貌はまだ幼く、その幼さを慈しんだ。
サーラとカーラは、決して産まれることがないと言われた、竜の双子だ。
一匹の竜は生涯に一つの卵しか産まない。
それ故に、この世に双子竜は存在しないと言われている。
だからこそ、とある竜が二つの卵を産んだ時、一族は騒然とした。
母竜は卵を産み落としてすぐに死んでしまい、生まれた双子はそれぞれ片目の視力を持たない子竜だった。
力に重きを置く一族がその子等を処分しかけた時、引き取って庇護下に置いたのは王としての責務でしかなかった。
『お兄さま!わたくし、今日はたくさん飛べたのよ?』
『ずるい、サーラ!わたくしも飛んだんだから!』
城に戻れば、妹達が飛び付いてくる。
可愛い、可愛い妹達。
少し前まで、万象の魔物に恋をして、手酷く傷付いていた哀れな妹達。
二人が、あの白き虹持ちの王に恋をしたとき、自分でも情けないくらいに動揺してしまった。
よりにもよって、二人は同時に同じ魔物に恋をしたのだ。
一族の者やそれ以外の者にあたり、魔物の王の情報を掻き集めた。
酷薄ではあるが、寵を与えもするし、殺しもする。
それがその魔物であるらしい。
妹達を失うわけにはいかないと、必死に二人を説得した。
『大丈夫よ、お兄さま。あの方は誰にも心を開かないわ。でも、だからこそ私達はあの方に惹かれてしまうの』
『心を渡さない女を殺す程、あの方は残虐でもないから大丈夫』
妹達はそう声を揃えて笑う。
翼を広げて覗き見た魔物の王は、確かに何の温度も持ち合わせていなかった。
竜の目から見ても心惑わす程に美しいが、その美しさはがらんどうの虚無の美しさだ。
虚だからこそ、彼は万象の王なのかもしれない。
魔物の王が妹達に執着することは勿論なく、一年も経たない内に恋に破れた二人は、この兄に取りすがって泣いた。
哀れだったので、ウィームの王宮の舞踏会に連れて行ってやり、華やかな王宮でダンスを楽しませた。
生まれたばかりの王子の名付けを祝う舞踏会で、二人の美しい竜は、それはそれはもて囃された。
大事にされて頬を染める妹達に、兄としての満足を覚えて安堵する。
王としての責務は時に非道な判断も強いられ、心を削ることも多々ある。
少しずつきな臭く戦乱の匂いのしてきたこの国で、この先どうやって一族を守るべきだろう。
城を閉ざし、長年寄り添った北の人間達と縁を切るべきだと論じる声が高まりつつあった。
あの舞踏会の時にはまだ赤ん坊だった王子が、成人の儀を迎えたその日、統一戦争の幕が切って落とされた。
『お兄さま、私達は王子様と共に戦争に参りますわ』
『お別れですわ、お兄さま』
その日、妹達は手を取り合い、城に戻ってくるなりそう告げた。
手からこぼれ落ちた書類を拾い集めてくれ、いつの間にか身につけた淑やかな微笑みで手渡してくれる。
『お兄さまは、皆を守って下さいませ』
『お兄さま、今まで有難うごさいました』
あの日、妹達を止められれば良かったのか。
でもそれは、竜が手に入られる力の半分を失って生まれてきた妹達が、初めて己の力と心で望んだ恋だった。
妹達は、あの王子を心より愛し、命をもって守護したのだ。
リーエンベルクが落ちた一月後、その王子は処刑された。
終戦の日に自分の盾となって殺された双子竜の鱗を抱いて死んだ王子の話は、今でも悲恋としてウィームの民に語り継がれている。
あの日、もし、妹達を止めていられたら。
或いは、この力をもって妹達と共に闘うことが出来ていれば。
何度そう思っただろう。
城はとても静かになった。
雪竜が人間達の舞踏会に紛れ込むことも少なくなり、ウィームの北の王族はもはや最後の一人だ。
妹達がいなくなると、誰も雪竜の王に無体は働かなくなった。
じゃれついたり、登り木にしたり、おっとりと叱ってくれる双子竜はもういない。
雪の城には、今日もあの二人が生まれた日と同じ雪が降る。
「無様だな」
南の王宮で出会った妖精王にそう言ったのは、彼がある種の同類だと感じたからだ。
未だ王座にある私とは違い、彼は羽を捥がれて隷属の身と聞く。
より惨めなものがいたことに、心のどこかで安堵していた。
ただ、彼が庇護するのが北の王族の末裔であることが不可解だ。
永らく北の王族と蜜月を繋げた雪竜ではなく、見知らぬ国から連れて来られた妖精王の庇護を、かの王子が選んだことは屈辱だった。
(しかし、あの王子を無下にも出来ないのだから愚かな話だ)
北の最後の血を繋ぐ王子は、妹達が愛した王子にとてもよく似ている。
「おや、私は羽を失いましたが、残されたものは守り抜きましたよ」
「同盟した精霊王の裏切りに遭い、国を蹂躙されたと聞いたぞ?」
「戦局が悪化した後、男達は国に残りましたが、女子供は他国に逃がしましたので。もう二度と会うことはないでしょうが、後悔はありません」
かの国に生き残りは殆どいなかったと聞く。
であるなら、男達は皆殺されたのだろう。
「国を失えば、それは敗戦だろう。ましてや王が奴隷になるなど片腹痛い」
聞けば、王だけはせめてと逃がそうとした部下達を振り切り、献上されようとした囚われの騎士達の代わりに奴隷になったという。
何とも惨めな話ではないか。
「さて、そんな目をした竜に絡まれても答えかねますね」
小さく微笑むと、竜殺しと名高い妖精の王は振り返りもせずに歩き去っていった。
(なぜ、…………)
全てを失った筈の妖精王が、また誰かを慈しんでいるのか。
なぜ、妹達しか喪わなかった自分が、こんなにも後悔しているのか。
なぜ。
なぜ、目の前のつまらない人間に、心を震わされたのか。
容赦のない反撃に、背中によじ登って遊んでいた、サーラとカーラを思い出した。
かつて、この体を踏みつけ、足蹴にしたのは幼かった頃の妹達だけだ。
この人間は頑強だ。
この手を振り払う程に強ければ、そう容易く死なないだろう。
そう考えたら、久し振りに心が弾んだ。
それなのに、彼女は万象の王の指輪を持ち、あまつさえ、妖精王の庇護も得ていると言う。
「リズモという小さな妖精が与えた、良縁の祝福が原因で貴方の心が動いたらしい」
城への中継地点で会談を持った、ウィームの領主、北の最後の血族であるエーダリアにそう言われ、思わず顔を顰めてしまった。
「魔術に貶められたということか?」
「暫くネアに会わなければ、その魔術が動くこともない。新たなものが術式を編まぬよう、ヒルドが堤防を作ったので、影響を出した祝福もじきに消えるだろう」
安心召されよと申し伝え、今はもう王子ではなくなった男は帰っていった。
その言葉を伝える為だけの会談であったのかと呆れると同時に、この心の揺らぎが消えるのかと、温もりのない胸に手を当てる。
もう長いこと、誰も慈しまなかったこの心。
揺らぐことを思い出したこの心が、果たしてその喜びを手放せるのだろうか。
やっと、取り戻したものを。
翼を打ち広げ、雪空を滑空する。
統一戦争時に壊され、朽ち果てたままの山の中の教会に降り立った。
二匹の竜が死んだここは魔術汚染が酷く、人間はあまり近付かない。
なので、墓標に花を手向けつつ、人型になり街に降りるには好都合な場所なのだ。
街に降りたら、あの少女に会いに行こう。
そう考えながら人型になり、目元の鱗を隠すフードを被り歩き出したときだった。
「ジゼル、君は困った竜だね」
「………っ、……万象の王」
街へと続く道のその正面に、白い魔物が立っていた。
こうこうと吹き荒ぶ雪の中で、髪の一筋揺らすこともなく、ひたすらに鮮やかに。
「あれは私のものだと、そう言っただろう?」
「あの妖精王は、」
あの妖精王は許したくせに。
そう言いたかったが、舌がもつれた。
無様な恐怖に、魔物の王が低く笑う。
「彼は、狡猾でとても利口だ。決して私の領域を侵さないし、必要な補填にも役に立つ。……けれど、それでも不愉快にはなる。だからこそ、もうこれ以上はいらないんだよ」
白い魔物が艶然と微笑み、伸ばされたその手をただ見ていた。
何を奪われるのかわかり、微かに抵抗したような気がする。
(ああ、雪だ………)
ふと気付くと、雪の降る崩れた教会の前に立ち尽くしていた。
つい先程まで心を震わせていた温かなものは、もう思い出すことも出来ない。
何をされたのかを理解してはいても、その感情を思い出すことは出来なかった。
万象の王は、あの少女に抱いた感情を剥ぎ取っていったのだ。
『お兄さま、大好きよ』
『お兄さま、大好き!』
小さな顔いっぱいで笑いかけてくれた妹達の声を思い出す。
この身は王だ。
もはや失われた思いの為に、愚かになることなど到底出来まい。
街に降りる理由はなくなった。
あの、歌乞いの少女に会うことはもうないだろう。
小さな二つの墓標の前で項垂れ、片手で顔を覆った。
もし、もう一度あの日に戻れたなら、
王座など捨てて、飛び立ってゆく妹達を守りにゆくのに。
不意に訪れた情熱が失われると、
この胸に残ったのは、墓石の下で息を吹き返すことのない、在りし日の愛情の残骸だけだった。