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殺さぬ為の叡智


「お前が、母上を殺したのか?」


そう問いかけると、目の前の妖精は生真面目に一つ頷いた。

宝石の妖精と持て囃されている美しい顔には、何の感情の欠片もない。

正妃が外遊先の献上品として持ち帰って来たその妖精は、鋭く鮮やかにどこまでも硬質だった。


正妃の執着は異様な程で、毎夜閨にその妖精を侍らせていると聞いていたが、本来なら手離さない筈のその妖精を、王の不興を買わぬようにと説得して借り受けたのは、息子の第一王子である、私の異母兄だった。



「……あの方のご命令か」

「ええ。私の主人は、あなたのお母君を疎んじておいででしたので」



彼の主人たる正妃の命令なのだ。

勿論、そんなことはわかっている。

この妖精に己の意思などない。


引き千切られた片方の羽が、その何よりも雄弁な証拠だった。

羽を欠いた妖精はもう飛ぶことは出来ない。

誓約で縛られ、羽を奪われ、もはやどこにも逃げられないのだ。



「兄上は、私を亡き者にするつもりなのか」

「さて。ただ、あの方と違い、第一王子様は使えるものは使うでしょうね。私をこうして教師に選んだのは、貴方が良い道具になるかどうか見極める為でしょう」

「では、私は兄の道具になるのか」


ふ、と妖精が小さく笑った。

窓の外を見て、彼は抜き身の刃のような目で嗤う。


「ご随意に」


それは、とても投げやりな微笑みだった。

死ぬのも殺されるのも、はたまた道具にされるのも、この妖精にはどうでもいい。

もはや、全て。


(ああ、この妖精は死にかけているのか)



初めて見たとき、なんて美しい生き物だろうと思った。

一言言葉を交わし、翌日訪れた母にその美貌を伝えた。


『まぁ、私の母は嫁ぐ前まで、妖精の王シーの加護を受けていたのですよ』


母は、そう言って喜んだ。


豪奢な檻である王宮の中で、母は少しずつ呼吸を薄くしてゆくようだった。

魔術の薄い王都ではなく、清涼なウィームの雪が見たいと言って笑う。


とても美しい人だった。



妖精は、母の記憶に重なっている。

その美しい妖精が、あの母の命を奪ったのなら、最後の瞬間に母は何を思ったのだろう。

胸が潰れそうになって、目に涙が滲んだ。



「エーダリア様、妖精はとても残忍な生き物です」

「………いや、お前は隷属のものだ。お前を糾弾するつもりはない」

「ですから、私自身に有用なものであれば、或いは私の興味を惹くものであれば、私は貴方を生かすかもしれない」



窓の光を背にして、ゆっくりとこちらを見た妖精は、恐ろしく冷たく美しかった。

深海のような青い瞳に、ぞっとする程に昏い諦念が揺れる。

それでもまだ、この妖精の牙は折れてはいなかった。


ざわりと光った羽を見て、この妖精の胸底にある怒りの深さを思う。

妖精の羽が光るのは、誰かを殺したいと思うそのときだけなのだ。



「私が貴方に与える叡智を、己の糧となさい」



私に、殺されないように。そう彼は言った。



私は頷いた。

母の健やかな微笑みを思い出し、大きな鳥籠で王都に運び入れられた美しい妖精が、感心したように王宮を見上げていた澄んだ瞳を思った。




「ヒルド、私は約束を果たしたぞ!」


長い冬も折り返しになるある日、私がそう満面の笑みで報告すると、ヒルドは微かに眉を持ち上げた。

相変わらず、表情はほとんど動かない。


「お渡しした課題であれば、これで全てでは?」

「お前が、私の教師になった日に言ったことだ」


小さな沈黙が落ち、どこか嘲笑うような眼差しが揺れる。


「おや。と、申されますと?」

「正妃に術式をかけてきた。あの方はもう、ヒルドには興味を示さないから、ヒルドの正式な主人はもうすぐ空座になるだろう。代理妖精として、新しい契約を得られるからな」



厭わず、ゆるやかに興味を失わせる術式というものがある。

王家にある幾つかの魔術書に遺されたもので、後宮での争いや継承争いに用いられた秘術である。

厭わせる術式の方が容易いが、これは後々に禍根を残し易い。

曖昧なものの方が、遥かに難解なのだ。



(殺されぬよう、叡智を育てろとお前は言った)


だから育てた。

自分に今必要なのは、この妖精の守護だ。


残された一枚の羽の内側に隠された内羽の存在を、エーダリアは知っている。

羽が健やかなままであれば、彼は六枚羽の妖精だった。

この妖精はシーなのだ。



「お前に有用なことをした。だから、私を生かしてくれ」

「……隷属の身に、正妃の寵は栄誉なことです。私がそれを惜しむとは思わなかったのですか?」


真っ直ぐな瞳の青さに、自然と背筋が伸びる。

真夜中に忍び込み、禁書を探し歩いた日々。

身一つで魔術を絞り、王妃にそれを施すまでの綱渡りの時間。



「お前が殺したかったのは、あの方だろう」



確信を持ってそう言えば、妖精は声を上げて笑った。

驚いて目を瞬いているこちらを見て、花が綻ぶように鮮やかに微笑む。



「宜しい。では貴方に私の庇護を与えましょう。久し振りに思い出しましたよ。……私は、弱き者に庇護を与える種の妖精であったことを」



そう笑った妖精は、もう死にかけてはいなかった。



やがて自分の手を引いてくれるまでになったヒルドから、一つの秘密を打ち明けられる。

シーである彼は、千切られた羽などいつでも元通りに出来たのだそうだ。



その半年後、代理妖精の選定の儀で、うっかり一目惚れした美しい妖精を選んでしまった私は、頭を抱えたヒルドに馬鹿王子と罵られた。

正気に戻って呆然としてしまった私の頭を容赦なく一発叩いたヒルドは、その場で見事な羽を復元させると、他の妖精達を圧倒して、兄上の代理妖精に選ばれる。


あの時、私の教師であることを続けさせて欲しいとヒルドが願い出てくれたことを、私はずっと感謝し続けていた。




数年後に、ヒルドを解放した術式を王都のあちこちにばら撒き、私がガレンに逃げ出すまで、彼の授業は途切れずに続いた。

彼が、薄闇に紛れて行く先を塞ぐ草木を刈っていたことも、私は知っている。

彼は確かに、私を生かしたのである。



そんなヒルドが、羽の庇護をネアに与えた。

羽の庇護とは、シーがその心を捧げる唯一人の伴侶候補にだけ許す庇護の形だ。

本人はけろりとしていたが、どうしても聞き逃せず、執務終わりに声をかける。



「ヒルド、………ネアでいいのか?」

「おや、何のことでしょう?」

「私は、……お前には幸福になって貰いたいのだ」


そう言えば、ヒルドは小さく笑う。

ただ穏やかに、そしてどこか満足気に。


彼が今再編しているのは、ネアが集めてきた薬材の目録だ。

一度採ったものはまた手を出すだろうと、その薬材の危険性を取りまとめている。

この妖精は、ほんとうに過保護なのだ。



「幸福ですよ。私は」

「………くれぐれも、狩られないようにな」



本気で言ったのだが、ヒルドは愉快そうに笑った。


だから私は、私の元婚約者殿に心から感謝した。

あの日、エインブレアの託宣が彼女を選んだことを、ネアがこの世界に引き落とされてくれたことを、そしてそれを成してくれたヒルドの恋敵に違いない白い魔物にさえ、心から感謝している。





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