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犬の挨拶




「エーダリア様、犬の挨拶が特殊なように、魔物さんの挨拶も特殊だったりしますか?」

「……まず、なぜ魔物と犬を並べて比較した?」


ある日、ネアがそう尋ねてみると、エーダリアは露骨に顔を顰めた。

たいへん困惑した様子だが、こちらにも教えて貰いたいことがあるので、どうか今暫く我慢して欲しい。


「違う種の生き物には、それぞれ違うお作法があります。そのようなものがあるのかなと思いまして」

「今更そんなことが気になったのか?」

「最近、ディノがよくじゃれてくるので、伝えたいことを汲み取れているのか心配になってきました」

「………あまり親密な付き合いの内情を相談するな。私とて王族として閨房術の指導はあったが、このように話し合う話題ではない」

「閨房術ではなく、動作の持つ言語性について話しています。なぜにそちらに振り切ったのでしょうか。恋でもされましたか?」

「していない!魔物の言動は、人間とさして変わらんぞ」

「椅子にして欲しいと願う、魔物がですか?」

「………それは個体差だ」


薬の提出と、様々な業務確認がひと段落したところだ。

家事妖精がお茶の準備をしてくれ、ネアは焼き菓子を確保したまま、上司兼元婚約者を質問責めにしている。


「妖精さんの羽問題のように、特殊な事情があるのかと思ったのです」

「…………いいか、くれぐれも妖精の羽には触るなよ?」

「エーダリア様、それは繊細な問題を孕むので、一概にお答え出来ません」


ネアは、同席していたヒルドの方を見れず、曖昧に視線を彷徨わせる。

個人の趣味をあげつらうつもりはないので、ここで彼を傷付けるような受け答えはしたくない。


(それとも、このような疑問については、グラストさんの方がわかるのかな……)


グラストはネアと同じ歌乞いだ。

実直で人のいい気質が前面に出てしまうが、元騎士団長であり、突出した能力を持っている。

年長者としてのずっしりとした安心感は、更に激しく高齢である人ならざる者達とは違う、短命種の年長者としての落ち着き方があるので、案外、グラストの方が問題に沿った回答を持っているかもしれない。



「エーダリア様より、グラストさんの方が頼もしいかもしれない……」

「ネア、聞こえてるからな」

「エーダリア様、グラストさんはいつのお戻りですか?」

「………今は任務中だ。夜までには戻るだろう」



リーエンベルクにヒルドが常駐するようになると、入れ替わりで、グラストは外での任務が多くなった。

エーダリアの安全が保障された分、ネアとグラストのそれぞれの歌乞いで、活動範囲を広げられるようになったのだ。


問題が分散している現状、その可動性の広がりは有難いに違いない。



「ネア様は、随分とグラストを買っておられますね。勿論、あれはとても優秀な男ですが」

「グラストさんはこう、頼りたくなるような雰囲気の方なんです。心がほっこりするというか、安定感がものすごいですよね」

「安定感……」

「安定感ですか……」


ネアが率直な回答を述べれば、なぜか、男達は若干目を虚ろにした。

ネアとしては、ヒルドも充分な安定感があるので、そこでエーダリアと同調しなくてもいいとは思う。

けれども、趣味の方では危険な綱渡りをしているので、ここは安易に頷いたりはせずに、もっと安定感を追求して貰おう。



しかし、ここでエーダリアに兄である第一王子からの通信が入ってしまい、ネアは、退出しなければいけなくなった。


この世界には、魔術独自の通信技術があり、指先程の通信端末が声を繋ぐことが出来る。

とは言え、かなり高価な魔術道具であるし、端末の材料となる精霊の卵も希少なのでさほど流通はしていないのだが、このウィーム中央では珍しくはないという程度には親しまれているようだ。


携帯出来ない通話手段であれば、水鏡を張り、そこで映像と音声通信をすることも可能だという。

そちらの技術を応用し、一方的に“目”という魔術を添付した相手の監視も可能なので、ネアは、そんな観察魔術の方面については、かなり危険視していた。


となれば、魔術師は、盗撮も盗聴もし放題ではないか。

この先出会うのが信頼関係を結べる相手だけとは限らないので、用心しておくべきだろう。



「ネア様、そちらは厨房ですよ?」


考え事をしながら歩いていたら、ヒルドに呼び止められ、ネアは慌てて立ち止まる。

違う方向に歩いていたようだ。



「すみません、考え事をしていました。本能とは恐ろしいものですね」

「ディノ様と何かありましたか?」


その声がとても静かであったので、ネアは、振り返ってきちんと視線をヒルドにあてた。

薄曇りの曖昧な光を受けても、彼の羽には鮮やかな色がある。

魔物達と同じ、内側から柔らかな光で照らされたような透明感のある鮮やかさだ。



「ディノは、最近口付けを覚えまして」

「………そう、ですか」


本当は飛び込み型の打撃のことも伝えたいが、それではヒルドを揶揄しているようだ。

ネアは相談相手の微妙なスペックの悪さにげんなりする。

早くグラストに話したい。


「恐らく、この前の野外オペラの時に隣に座っていたほかほか家族の影響を受けたのだと思いますが、見た人に誤解を与えそうですよね」

「………ほかほか家族とは?」

「お隣の家族は、愛情表現を動作で示すご一家だったみたいです。抱き締めあったり、お嬢さんがお父上に可愛らしい口付けをしたり、ご夫婦も、何度か笑い合いながら口付けされていましたし。恐らく、あれを仲の良い家族の見本として学んだのでしょう」

「それは………、いえ、成る程」

「恋人同士の甘やかなものではなくて、家族の軽やかで楽しげな口付けでしたので、私も仲良しさんですねと微笑ましく見てしまいまして、それで家族とはかくありきと認識してしまったのでしょう。ディノは、変に擦れているところもありますが、同じくらい純粋培養ですからね……。困りました」

「純粋培養ですか。………あの方が?」

「寵姫の方がいたそうですので、爛れた男女関係は網羅してそうですが、家族や仲間のような、もっと根本的な関係性の詰め方を知らないんです」


(恐らく、あの嗜好が大きな壁になっているのだろう……)


ディノの友人であるアルテアは、ディノの性癖を知らなかった。

あの様子だと、少し厄介な遊びを一緒にしていそうなのにだ。

だからきっと、ディノは、他者との関わり方によって甘え方の種類を変えているのかもしれない。



(なので、安心して家族のように素のままで甘えられるところでは、本能的なおかしな欲求が爆発してしまう、と……)



ディノが、長らく孤独だったような気がするのは、そのような要求までを満たしてくれる相手がいなかったからなのかもしれない。

臨時精神科医のネアはそう診断しているが、何分、こちらには専門的な知識がある訳でもない。

少しずつ手探りで理解し、互いの関り方を決めていかなければいけない時期なのだ。



「一度、どのような感情の機微でその行為に繋がるのか、きちんとお話しされてみては如何でしょう?」

「そうですね。そうやって、対話型の治療も試してみます!」

「………治療」



ヒルドは微かに同情的な眼差しになったが、彼とて他人事ではないのに。


(きっと二人共、常人には考えられないような生活を送ってきてしまっていて、…………その結果、色々な思考が捩れたのかな……)


専門的な捩れに対する知識は、どう得ればいいのか誰か教えて欲しい。

アルビクロムで見た、専門店のお姉様達なら詳しいだろうか。



「でも、ネア様は嫌がられませんね? それは、治療の対象であるからでしょうか?」



小さく笑う吐息の気配がして、ヒルドはなぜか、微かな苦さをもって笑う。

長命者の穏やかな見守り方なのか、彼自身の趣味趣向に所以する諦めか、ネアには判断がつかない程に深く。



「そうですね、丸ごと受け止める所存ですので、どこに転がっていっても、拒絶感のようなものはないのですよ」

「もし彼が、あなたに伴侶としての絆を繋ぐことを望んでも?」


それは、随分唐突な質問なので、ネアは少しだけ考えた。

そもそもあれだけ特異な美しい魔物なのだ。

伴侶という観点から人間を眺めるかは、かなり怪しいような気がする。

かつて彼の寵姫だったという魔物も、絶世の美少女だったではないか。



「その可能性はあまりないとは思いますが、ディノという生き物が好きなので、そちらでも構いません。と言うか、そちらに転べばせめて、治療は成功したと言えるでしょう。世間的にも真っ当な関係性ですし」

「あなたも、そのような好意を返せると?」

「元々好意そのものはありますから、単純に好意を向けられれば、…………驚きはしても、普通に嬉しいと思います。既に、身勝手ながらも身内のような執着心もありますから、もし彼が私にそのような好意をくれれば、遠からず感化されて好きになりそうだなと言うくらいには、元々好きなのですよ」


大事な魔物だけでなく、あれだけ美しい魔物なのだ。

その愛情をくれるというのであれば、貪欲な人間は、有難く頂戴するだろう。

あの破壊力のある生き物に言い寄られても陥落しない程、ネアは女性として経験を積んでいない。

とは言えどこか、人気者の先輩に告白されたら付き合いますかという質問に近いものでもあった。


(そもそも、ディノは私の事をご主人様と呼ぶのだから、その括りなのだよなぁ…………)


誤解を受けやすい話題なので丁寧に答えたが、ヒルドは、頭痛を堪えるような微妙な表情になる。

種族の違いだろうかとそんな様子を見守り、次の質問を待った。



「……随分と受け身ですが、そのような恋情を向ける相手はいないのですか?」

「あら………そう言えばいません……ね。こちらに来てから、就職したり仲間が出来たり、大事な魔物と出逢ったり、心を動かすような要素が多過ぎたせいでしょうか。恋というものに割かなくても、私の心は全力で稼働中なので、その隙間もないという感じがします。…………例えば、どなたかを見て素敵だなぁと思うことはあっても、ただの感想で終わってしまいます」


そう説明しながら、ネアは、少しだけ女性としての己の状態に寂しさを感じた。

毎日が充実し過ぎていたせいで、それを寂しいと思う余裕もなかったのだ。

加えて、最初の職務説明で契約の魔物の狭量さを説明されていたので、そもそも諦めていたという部分もある。



「エーダリア様から、契約の魔物さんは大変に嫉妬深いので結婚や子供は難しいと聞かされていました。私もディノを見ていると、確かにそうだなという気もします」


飼い主独占型の動物の里親になってしまうと、他人を生活に受け入れられなくなるという。

思えばこれは、まさにその構図ではないか。

以前の世界でも、そのような犬を飼ってしまって婚期を逃したと話していた隣人がいた。


(大事な魔物がいるのだし、その告知を受けた最初の段階ではショックだったにせよ、今はもう結婚出来ないことへの不満があるわけでもないのだけれど……)


結婚というものは、一つの道筋だとネアは思っている。

あたたかな家族に憧れはあるが、相棒として暮らすものも、子供のように面倒を見なければいけないものも、既にディノで定員なので特に寂しさは感じない。

多分、ネアが欲しかったのは家族で、それは伴侶ではなくても良かったのだろう。



「確かに、ネア様の場合は特に難しいでしょうね。ディノ様があのご様子ですし」

「……そうですね」


しかし、諦観を滲ませてそう言われてしまうと、暗に変態のお世話で終身雇用だろうと言われたようではないか。

奇跡の向こう側かもしれないが、まだ可能性はゼロではないと言って欲しかったところだ。



「今度ディノ様と話すときに、どのような関係性を目標とするのか尋ねてみると、お互いにどう関わり合うのかの見通しがきくと思いますよ」


けれども、ヒルドは最後には年長者らしい助言もくれた。

まさにそこからなので、ネアはしっかりと心に留めることにする。

安堵に微笑んで頷くと、ふっと、指先で頬に触れられて驚く。

見上げると、ヒルドはどこか不思議な微笑みを浮かべていた。


「因みに、私の種族はこのように密な接触を好みます。あくまでも、庇護対象に限りますが」


心配事を抱えたネアに、優しい好意を示して安心させようとしてくれたのだろう。

人型の妖精は特に庇護を与えることを好むと言うが、やはりヒルドは懐が深い。


(でも、エーダリア様にもこんな感じだったかな……)


「エーダリア様にもですか?」

「………エーダリア様は男児ですので。男児には、厳しく教育する主義ですね」


成る程、女子供に優しい種なのだろう。

そんな彼には、ここには庇護するべき一族がいないのだと思ったら、ひどく辛くなった。

擬似行為で心が慰められるなら、幾らでも付き合ってあげよう。


「ヒルドさん、心労が溜まったらいくらでもお付き合いしますので、いつでも来て下さいね」


子供扱いは癪だが、あえてその役割を与えてやるのも隣人としての務め。

存分にお兄さんぶるといい。


ネアの言葉にヒルドは虚を突かれたような訝しげな顔をしていたが、

一拍置いてから得心気味に微笑んで短く頷く。


「では、遠慮なく」


そう鮮やかに微笑んだので、ネアは安堵した。

臨時精神科医は患者を増やしてしまったようだ。




部屋に帰ってからディノに、今後のネアが、どのような存在であって欲しいのか聴取をかけてみた。


「…………うーん、全部かな。ご主人様」

「………全部」


まさかの、全知全能の神となれという無茶振りに絶句する。

そしてご主人様活動への希望は、本日も絶賛継続希望らしい。

ヒルドにその聴取結果を伝えると、彼は珍しく頭を抱えてしまった。



とは言えネアは比較的大雑把な方面の人間なので、話し合いから数日すると、ディノが頬や鼻先に口付けするのにも慣れてきてしまった。

ウィームでは元々口付けのハードルは高くないし、ディノのこの甘え方については、犬が飼い主の顔を舐めるあの行為だと思おう。

今日もご主人様としての好感度は、間違いなく安泰のようだ。





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