指輪の音と薬の手帳
ネアは仕事熱心だ。
とは言え、仕事にのめり込むことはなく、時間が終われば自分の時間を謳歌する。
それでもやはり仕事熱心だと思うのは、ネアがつけている薬手帳を見ればよくわかる。
「ネア、それは何の記録?」
「生薬の材料ですよ。蜂が解毒、蝶は血の薬、蛇は目の薬なんですね」
「………蛇なんて捕ったっけ?」
「ええ。この前森に入り込んだところで、ゼノに悪さしようとしたのを成敗しました」
「どんな蛇だろう?」
「緑がかった灰色で、目が鮮やかな黄色。小さな緑色の羽がついていました」
「蛇の魔物だね」
人間に擬態していたとは言え、ゼノーシュに牙を剥いた時点でそれはもう、無害なただの蛇ではない。
よくもそれを捕まえたものだと、今更ながらに驚いた。
元々体に魔力を持たない人間の場合、魔術は言葉と心の織り合わせだ。
前提となる価値観が違うので、こうも容易く相手の魔術領域に打ち勝ってしまうのだろうか。
「これは何の記録だろう?」
「あの大量破壊兵器こと、夜の盃で実験をしています」
「……え」
数日前にあの盃で、それなりに愉快なことが起きた。
ある程度魔術の技というものには精通しているつもりだったのだが、ああいう僅かな魔術を織り上げたものが、思いがけない成果を出すのだと初めて知ったのだ。
酩酊するという感覚は馴れなかったが、経験の一つとしては悪くない。
途中からヒルドが、確信的にネアに絡んでいたので排除しようとしたが、幸いにもネアはもの凄く嫌そうな顔をしていた。
私もヒルドも、ある程度の段階で酔いは醒めている。
とは言え、まだ酩酊の余韻の残る状態で、あそこまで冷徹な襲撃を受けるとも思わなかった。
指輪を渡した相手に、狩られそうになった魔物など他にいるだろうか。
ある種の誓約を結び、庇護を与えているからこそ、相手から与えられるものは拒めない。
あの後、誓約の中身を少しだけ書き変えた。
目を覚ました後に何やら深刻そうに術式を呟いていたので、恐らくヒルドも同じ作業をしたのだろう。
まさかの酒瓶を妖精の頭部に投げつけたネアは、小さな試行錯誤の記録を得意げに見せてくれる。
「試した結果、あの盃は“願い”に近いものを叶えてくれるんです。となれば、薬湯も出るのではないかと思ったんですが駄目でした」
「そんなことを試したんだ」
「でも、幻のお酒は出ました」
「待って、一人で飲んだのかい?」
「研究ですよ?お仕事ですので、ヒルドさんにお付き合いいただいて…」
「……ヒルドに?」
少し面白くなかったので、ネアの膝の上に髪の毛を落とし込む。
呆れた顔をされたが、最近は何も言わなくても構ってくれるようになった。
「……薬用酒は出るんです。だからあれは、あくまでも飲料専門なんですね。でも、お陰で、病で声を失った方の治療が出来そうですよ」
ネアは仕事熱心だ。
あるべきところで時間が動く限り、その役目はまっとうしようとする。
だからこの手帳は、ネアが彼女なりに己の仕事にかけた手綱なのだ。
薬の精製など私に任せてしまって、好きなことをしていればいいのに、そうはしない。
或いは、何もせずとも自由に暮らせる場所を望めばいいのに。
一度それが不思議で、何故なのか聞いてみたことがある。
ネアは納品する蜂の死体を袋に入れながら、困ったように淡く微笑んだ。
『仕事という括りでしか達成出来ない、地道に何かの成果を出すという喜びがあります。職種が合わなければ喜びもありませんが、私はどうやらこの作業が好きみたいですね』
そう言って楽しそうに笑ったので、ネアから仕事を取り上げるのは止めることにした。
こちらから彼女を取り上げられるのを警戒してか、エーダリア達も、ネアに過分な仕事は振らない。
歌乞い達を統括することで、よく魔物の気質をわかっているようだ。
不相応な欲を出して彼女を磨耗すれば、私はすぐにでもネアをここから連れ出すだろう。
彼女が幸福でない場所など、何の意味もない。
『エーダリア様はそういうことは出来ないと思いますよ。きっと、あの方自身が、かつてそのような欲に晒されたからでしょうね』
ネアはさして不安がる様子もなく、そう評価して少し遠い目になる。
『もう少し欲をかかれてもいいのですが、真面目過ぎるんでしょうね。変に厭世的で冷たいところもあって、困った上司です』
少しずつ、ゆっくりと森が厚みを増してゆくように、ネアはここで自分の世界を作り始めていた。
そこに当たり前みたいに自分が組み込まれていると知る時が、一番幸福だと感じられる瞬間だった。
当たり前のように手を伸ばされて、彼女の世界の一部だと感じられる時が。
でも馴染めば馴染む程、彼女はいつの間にか他の何かも抱え込んでしまう。
知らずにシーに求婚し、それを拒絶させない程だ。
かなり不本意ではあるが、彼女が損なわれた訳ではないので放っておくことにした。
彼女は得ただけで、彼女が彼に得られたわけではない。
強力な守護という意味では、彼女の助けにもなるだろう。
彼女自身が、奪われない限り。
彼女が、彼女自身を与えようとしない限り。
それまでは気にするまいと、そう言い聞かせた。
「ネア、指輪を落としたよ」
そう言って微笑めば、ネアは一瞬だけ途方に暮れた顔をした。
多分彼女は、何かが言葉通りではないことに鋭敏に気付いている。
これが、とても厄介なことであるとも。
「落としたでしょうか?二度目だと流石に不安になります」
「困った指輪だね」
幾つ馴染ませれば、この指輪は誰からも見える誓約の証となるのだろう。
幾つ染み込めば、彼女は憂いなく私のものになるのだろう。
成り合いの違いでその体を損なわないように、慎重に魔術を馴染ませる。
普通の魔物であれば二個程度で済むのだが、自分の場合はどれだけ必要となるのか、正直なところ自分でもわからなかった。
「落とさないようにしますね」
ネアはそう言って指輪を元の指に嵌めてくれる。
やれやれ仕方ないなぁと、全てを受け止める顔でどこか慈しむように。
かつては厄介だからと手を切ろうとした彼女が、厄介だと知りながら、何も聞かずに知らん顔で飲み込んでゆく。
当たり前のように。
(それがきっと、君が少しずつ私の物になってきている証)
要求に応える度に少しずつ、君は君を私に売り渡してくれる。
ネアが指の根元まで押し込むと、指輪の魔術が木々の葉がさざめくような音を立てた。
勿論ネアには聞こえていない。
「髪の毛はもう引っ張らないの?」
そう言えば、もの凄く嫌そうな顔になった。
そうされる度に胸が痛むけれど、こうして少しずつ侵食するしかないから。
だから、君がその厄介さを受け入れる度に、とても幸せな気持ちになる。