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盃の魔法




その夜、ネアが選んだのは二種類のお酒だった。

例のごとくお酒は、口をつけてみたいだけなので、本命の果実水は瓶ごと手元に準備済みだ。

シャンパンのような淡い金色の甘い葡萄酒は、ヒルドへの謝罪の品を買った時に抱き合わせで買わされたもので、最近の対人関係によるストレスから、ついつい購入してしまったのだ。

雨上がりの夜明けだけに収穫する、特別な葡萄を使い、夜明けの妖精が作るお酒だと聞けば、とは言え何だか楽しみでもある。


テーブルの上には、様々なお酒が並んでいた。

果実と霧から作った蒸留酒では薄い青色の瓶に入った無色透明のお酒で、香りはいいがとても強いので、ディノ専用となる。

強い酒を水のように飲む魔物の姿は、なかなかに色めいているので、ネアはこっそり鑑賞させていただく。


食べながらでないと飲めないネアは、チーズやハム、幾つかの料理や乾燥させた果物などの戦利品を厨房から託されており、そちらが本命と言えなくもない。

この為、晩餐は軽めにして、早い時間に済ませてあった。



なぜ、先日の悲劇の後で酒席が設けられたのかと言えば、森の賢者から貰った盃を使ってみたいからである。



(願いを叶える、夜の盃)



森の賢者は、そんな盃を持っていると言われていた。

夜を炉に入れて作るので、盃の色は深い瑠璃色だというその盃は、ネアが森でどんぐりから貰ったものととてもよく似ている。


叶えられる願いは些細なものだが、それでも何だか楽しいではないか。

ディノが一緒であるし、巨人のお酒が持ち込まれない限りは何の問題も起こらない筈なのだが、ネアはちらりとヒルドの方を見た。


(やはり、警戒されている………)


晩餐の様子からお酒を飲もうとしているのは明らかであったらしく、この場には、ヒルドとゼノーシュが同席していた。


グローヴァーの会でどうも警戒対象に指定されたらしく、ネアが飲もうとすると、さっと現れて監視体制に入られるが、基本的に、本来のネアは酔わないのだ。

あのお酒を飲むことはもうないので、どうかそっとしておいて欲しい。



「ネア、これ食べていい?」

「どうぞ。お好きに何でも食べて下さい」


ゼノーシュの目的の半分は、用意された料理なのだろう。

話を聞き、厚意でネアの好物をリーエンベルクの料理人が再現してくれた、揚げイチジクのクリームチーズ添えを輝く目で見つめている。


最近、リーエンベルクの料理人は、ネアが市井ではまった料理を何かと再現してくれるので、何とも素晴らしい優しさである。

料理人たちからすると、流行りの美味しいものの情報を持ち帰ってくれるので、試行錯誤出来て楽しいのだそうだ。



「………二人じゃなくなった」


ディノは二人で過ごすつもりだったのか、何故にこうなったのだろうと悲しそうにしている。


(それは多分、ディノが夜の盃のことを公言したからですよ!)


その結果、事件が起きてはいけないと、二名の監察官がついてしまったのだ。


特に、ヒルドがこの場にいることは、ネアにとってなかなかの恐怖である。

隣の席にならないようにして、危険物の妖精の羽から距離をとった。



「これは何?」

「イベラウスの酒ですよ。妖精の酒ですが、魔物も好まれるかもしれませんね」


ゼノーシュの質問に答えるヒルドに、なぜにまた珍しい酒を持ち込むのだと、ネアは眉間の皺を深くする。

前回の悲劇を繰り返すつもりがないなら、市販品で楽しむべきではないだろうか。


「ネア、念の為に私が注ぐよ。それから、最初の一口は確認するからね」

「…………はい」


安全面はやはり確認するべきであるので、ネアは渋々ディノにそのお役目を託す。


(どんぐりが持っていた盃だから、結構しっかり洗ったんだけどな)


あの生き物がどういう衛生管理を出来るのか考えた結果、保管方法がかなり怪しいと判断し、厨房の妖精にぴかぴかにして貰った。

素人洗浄ではなくプロの手も借りているのだが、それでもディノは心配なのだろう。


お蔭で盃は青さを増し、ただの硝子だと思っていた表面には細やかな模様があることも判明した。

花や気象の図案で森の四季の様子を描いてあるようで、とても繊細な模様だ。



「へぇ、美味しいね………」


一口含んだディノが、意外そうにそう呟いた。

随分に好意的な感想なので、ネアは隣りの椅子の上で小さく跳ねる。


「早く渡したまえ!」

「うん。あまり強いものは出さないようにね」


そんな忠告に頷き、ディノから盃を受け取ったネアは、華奢な飲み口に唇をつけた。

割れてしまいそうに薄いのだけれど、夜そのものが素材なので投げても割れないそうだ。


「………おかしいです。杏水の味になりました」


注いだのは、黄金色の葡萄酒だった筈なのに、ネアのお気に入りの杏の果実水の味に早変わりしている。



「もしかして、お気に入りの飲み物に変化するのでしょうか?」


ネアがそう呟けば、さっとゼノーシュとヒルドの顔色も変わる。


「僕も!」

「私も宜しいでしょうか?」


ほんのりとはしゃぎ出したので、ネアは盃を二人に渡した。

杏水であれば、手元に大瓶で控えさせているので惜しくはないのだが、何とも言えない悔しさが残った。


(もしや、この盃が叶えてくれる願いは、こういうことなのだろうか……………)


酒好きには大変素晴らしい仕様かもしれないが、ネアとしてはさほど心に響かない。

お気に入りの飲み物が、かなり安価な果実水なのもその要因だった。

高価な飲み物が欲しければ、これはかなりの節約になるだろうが、記憶をひっくり返してみてもとても高価な憧れの飲み物というものも特にない。


ぱくり、とチーズを口に運びつつ、大盛り上がりの魔物と妖精を眺める。

持ち主にはいまいちな効能でも、楽しそうで何よりではないか。

ネアが飲むと聞いて青い顔で逃げていってしまったエーダリアも、参加すれば良かったのにと少しだけ残念に思った。



「あら、また雪が降ってきましたよ」


外は、夕暮れに止んだ雪が再び降り始めている。

雪が降るのを見ているのが好きなので、ネアは唇の端を持ち上げて窓の外を眺めた。

リーエンベルクは外にも魔術の炎が灯されているので、雪を受ける庭もぼんやりと明るく雰囲気がある。

時々、禁足地の森の奥の方に鹿の姿が見えたりして、結構に楽しい。


「ネア、こっちにおいで」


窓の方を向いていたネアは、不意にディノの膝の上に引っ張り上げられた。

突然の暴挙に、お仕置き用の顔で振り返る。


「椅子にするというご褒美は、差し上げていませんよ!」

「うん。それでもいいから」

「なぜに受け取る側の判断なのだ」


ふわりと微笑んだディノの表情を見て、ネアはおやと首を傾げた。


(もしや、………酔っている?)


全体的に淡く透明感のある色彩が強いので、ディノが目じりを染めると何とも言えない破壊力がある。

そして、滲むような色の目には、どこか危うく鋭い煌めきが見えた。


「ま、待って下さい、目を離していた間に、何をどれだけ飲んだんですか!?」


慌ててテーブルの方を確認したネアは、その惨状に目を瞠った。

特に反応がないのでおかしいと思っていたが、こちらもまずいことになっている。


「………ゼノ?」


チーズに蜂蜜を増し増しにして食べているゼノは、なぜか、チーズ食べ人形のように黙々とその作業を繰り返していた。

お皿の上を確認すると、四人分のものを一人で片づける算段のようだが、果たしてそれはもう本人の意志なのだろうか。


(ヒ、ヒルドさん…………)


怖くて声をかけられない方は、ネアの夜の盃で黙々と何かを呑んでいた。

手にする瓶を間違っているので、飲んでいるのはネアの果実水だ。

しかしながら確実に酔いを進めている様子なので、実際に摂取しているのはどんな酒なのだろうか。

静かに飲んでいるだけだが、どうにも安心は出来ない気配がする。

この惨状に反応してくれないのが、いい証拠ではないか。




「まずい、酔っ払いに包囲された………!」


そしてディノは絶賛拘束椅子を発動中なので、ここから逃げ出せる見込みも立たない。

悲鳴を上げたら、家事妖精が助けに来てくれるだろうかと考えたが、それもあんまりな仕打ちだろう。


(でも待って、ここに居るのは、高位の魔物に高位の妖精だから……)


そんな恐ろしい場所に、姿も定まっていない家事妖精を招き入れていいものか。

僅かな時間目を離した程度でこの惨状になったのだから、この先、被害は深まるばかりだろう。

ここでの暮らしに欠かせない妖精達を、そんな形で喪いたくはない。



「………ディノ。こんなにも楽しい会なのですから、エーダリア様も混ぜてあげましょう」

「あれを呼ぶ必要はないからね」


決死の救援を求める声も、あえなく閉ざされてしまう。


「ゼノ!グラストさんも呼んであげましょう!!」

「グラストはね、お仕事してるから邪魔しないんだ。終わったらたくさん寝たいだろうし」

「くっ、ここでまさかの優しさが最大の敵だった!」


最高の逃げ道を見付けたと思ったのだが、ゼノーシュは、大好きなグラストは自由にさせる方針のようだ。

もうどうすればいいのだろうと必死に考えていたら、頬に柔らかいものがあたる。


「…………ディノ」


じゃれるように口付けられたのだとわかったが、ここは酔っ払い。

頬に血色が昇るのは致し方ないけれど、ネアはあまり気に留めない方針で施行することにした。

膝の上に横抱きにされているので、ディノの側になる左側はされたい放題となるが、心を無にして、自分は銅像だと思うことに専念する。


(そして、せめてヒルドさんが潰れてくれるといいんだけど……)


そちらは、観察を始めて七杯目である。

どうだろう、そろそろバタンといってくれないものか。

頭数を減らしたいネアは、そう必死に祈る。

食べ物担当のゼノーシュは、これ以上の泥酔は見込めないので、せめてこのまま、無害なチーズ食べ人形改め、ハム食べ人形でいて欲しい。


「………ふぎゃっ!」


しかし、次の瞬間、予想外の攻撃に淑女らしからぬ悲鳴を上げたネアは、満足そうに微笑んでいるディノの髪の毛を引っ張った。


「ネア、可愛い」

「何をするのです!背中に手を突っ込まないでいただきたい!!」

「ネアの背中ってすべすべだよね」

「なぜに、私の背中事情を知っているのだ!!」

「僕も触る……」

「ゼノ!その蜂蜜だらけの手で触ったら、許しませんよ!」


未だかつてなくゼノーシュを手荒に追い払っていると、ゆらりと、視界が翳ってネアは戦慄した。


「…………ヒルドさん、お席にお戻り下さい。そして、うっかり殺してしまいたくないので、羽を広げないように。命は、一人一つしかない、とても大切なものなのです」


必死の説得も虚しく、なぜ背中を触られたのだろう。

酔っ払いに、腹痛患者を宥めるように執拗に背中をさすられ、たいへんに心が荒んだネアは、暗い眼差しで室内に武器になりそうなものを探す。



(もういい、減るものでもないし背中は解放する。その隙に、彼等を斃すことが出来る武器を……)



「ちょっ、ディノ?!襟口から手を突っ込むのはもう止めませんが、下から服地を持ち上げたら、私は怒り狂いますよ!!この洋服は繋がっています!下からめくるのは永劫に、この世の終わりまで禁止です!」

「………確かに、滑らかですね」

「ヒルドさん、私の背中の感想は結構ですので、席にお帰り下さい!!」


言いながらネアは、この際ご褒美も止む無しと、強力な頭突きでディノを沈めた。

とてもいい音がして手が緩んだので、その隙に膝から飛び降りて逃走しようと思ったのだ。

扉まで辿り着ければ、こちらのものだと考えたのだ。


「って、何で?!何で、ゼノ転移までしたんですか!!!」

「ネアが逃げるから?」

「駄目だ、何かみんな変な病気みたいになった!」


足の速さには自信があったのだが、魔術に敵うわけもない。

扉を死守するクッキーモンスターと鬩ぎ合いをしている内に、背後に忍び寄った妖精に捕獲されてしまった。


「ネア様、危ないので屋内で走ってはいけませんよ」

「現状の危険度は、皆様方の方が遥かに上です。一刻も早く、私を解放して下さい!」

「やれやれ、聞き分けがありませんね」

「なぜに叱られたのだ!」


今度は、ヒルドに抱えあげられてしまった。

羽に触れる云々以前に、羽で覆われて飛び出し防止柵のごとくがっちりガードされているので、逃げ出すには、殺す覚悟を持って触るしかない状態だ。

こんなに儚げに見えるくせに、やはり頑強なのが憎い。


必死に周囲を見渡したが、奥でディノが額を押さえてうっとりしているだけで、先程から、事態は何も好転していないように見える。

捕縛されたままそれを悟った人間は、静かに絶望した。


(駄目だ、戦闘能力では敵わない!)


目を血走らせて部屋中を見回していたネアは、ふと、テーブルの上のものに目を止める。



「ヒルドさん、私も喉が渇きました。あの盃を取って下さい」


テーブルの上には、全ての悲劇の要因となった夜の盃が罪なく佇んでいる。

清廉なその青さに、ネアは覚悟を決めた。


「この羽に触ってみて下さい。そうしたら、持ってきてあげますよ」

「なぜに死ぬ覚悟なのだ……」


ヒルドが閃かせたのは、一番繊細な筈の内羽であるので、もしや、ディノの趣味が伝染してしまったのだろうか。

或いは、死んでもいいから水分は摂らせないという意思表示なのか。


「………私は、ヒルドさんを殺したくはありません」


若干、もうやむを得ないような気がしつつ、一応は否定してみせる。

けれど、己の命を案じられた筈のヒルドは、愉快そうに小さく笑った。


「羽に触られたくらいでは死にませんよ。寧ろ、喜ばしいことですから」

「………そうですか、とうとうヒルドさんも、そちらの方面に開眼してしまったのですね」


それならばご褒美で済むだろうと、ネアは宝石のような羽に触れた。

平素であれば嬉しかった筈の体験なのに、現状はただのノルマでしかないのがとても辛い。


指先でなぞった羽には、肌と同じような温度があり、指先で触れた部分が、淡く菫色に色付いた。



「さぁ、あの盃を与えたまえ!!」

「……………ええ」



そう答えてくれたヒルドは、一度きつく目を閉じて深い溜息を吐いている。

さくさく働かせたいのだが、その様子には流石に不安になった。


(やっぱり少し苦しげだけど、明日の朝になって死んでいたらどうしよう……)


命の危険を伴うご褒美を欲するあたり、もしかしたらディノより重症かもしれない。



「ほら、もう充分楽しんだだろう。ネアを返して貰うよ」


ヒルドが盃を取りに行ってくれたタイミングで、ネアはディノの手に取り戻される。

どうやら頭突きのご褒美を堪能する時間は終わったようだ。


「ええ、どうぞ。意思表示をいただきましたので、もう満足です」

「理解しているとは思うけれど、この子は私の指輪持ちだよ」

「魔物と妖精の理は違います。どちらが生きるか、どちらのものも施行される可能性すらある」

「シーともあろう者が、随分と欲深いものだ」


酔いが回りきったのか、酔いが醒めてきたのか、二人の会話は冷え冷えとしつつも弾んでいた。

後は、二人に任せることにして、ネアはディノの腕に拘束されたまま、がぶがぶと夜の盃で杏水を飲み続ける。



「出でよ、グローヴァー」



ネアが盃に願うのは、世界が傾く巨人の酒。

人間が酩酊しようとするのは、喜びや嗜好だけでなく、

太古より現実逃避という意味合いもあるのだから。



途中で何度か、ディノに、額や鼻先や頬に口付けられたが、ネアの心は既に焼野原だったので慌てずに作業を続行出来た。

無我の境地というものはこうして訪れるらしい。


巨人の酒の酔いが回る直前のネアは、いつの間にか部屋の扉が開け放たれていて、ゼノーシュの姿がない事に気付いた。

とうとう脱走者が出たのだなと、ぼんやり考えていたことを覚えている。





その後、脱走したゼノーシュがグラストのところに突撃したことにより、この事件は広く周知されるところとなった。


慌てて駆け付けたエーダリアが目撃したのは、部屋の隅で倒れていたヒルドと、意識のないディノの髪を掴んで引き摺って歩いていたネアだったそうだ。

ネアの眼差しはひどく暗く、とても残忍な微笑みを浮かべていたらしい。



ネアは何が起こったのか思い出そうとしたが、最初の悲劇以降の記憶は曖昧だ。

だが、霞がちな記憶の奥に薄ぼんやりと、“敵は全て斃した”という記憶だけが残っている。






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