もふもふ妖精と結晶化の病
リノアールへ出かけた帰り道、ネアは、木の上から落ちて来た妖精を拾った。
ミンクに似ている、物凄く良い手触りの灰黒の兎と鼠の中間のような生き物だが、妖精の羽がある。
薄い灰色の羽には、銀色の斑らがあり中々にお洒落な配色だ。
「ディノ、確実にディノの今の殺気で木の上から落ちましたからね」
「ネアが浮気しようとしたからだよ」
「今のは浮気ではなく、私の行きつけのお菓子屋さんのご店主に、会釈しただけなのですよ。童顔ですが、お子さんもいらっしゃる良いお父さんなので、威嚇してはなりません」
「でも、人間は結婚しても浮気するのだろう?」
「なんて世知辛い知識を得てきてしまったのだ……」
この前に観た歌劇の影響で、ディノはすっかり耳年増になってしまった。
魅力的ではあるが、浮気を繰り返す困った中年男性が登場したのがいけなかったのだろう。
だがその男性は、最終的には月の女神に踏み付けられて、蛇にされてしまうという物語である
「このもふもふをどうしましょう」
「気に入ったのかい?」
「むくむくで、手の中で揉み込むと、何やら幸せな気持ちになるのは確かですね」
「……羽には触らないようにね」
「はい。妖精さんの羽は、薄いので触ると弱ってしまいそうですしね」
あまりにも手触りのいい妖精が何となく手放せなくて持ったまま歩いていると、街外れの道に真っ青な顔をした女の子が蹲っている。
ディノは、なぜご主人様は拾った妖精を捨てないのだろうと、思案顔でこちらを見ている。
(……迷子かしら?)
けれども、顔色の悪さは病人のそれだ。
どこか悪いところがあるのだろうかと考えて、その指先の色彩に、あっと思った。
魔術汚染の症状であった。
「ディノ、お外ですので無用心かもしれませんが、魔術を抑えることは出来ますか?あのお嬢さんは、魔力抵抗値のないお子さんのようです」
「いいけれど、関わるのかい?」
「私であれば適任ですし、具合の悪そうなお子さんを見付けたのに、放っておくことは出来ません」
幸い、ネアの魔術可動域は四なので、あの子供の障害になることはない。
さくさくと軽い雪を踏んで近付くと、少し陰った瞳がこちらを見上げた。
深緑色のドレスは簡素だが良い縫製であり、それなりに裕福な家の子供なのだろう。
「大丈夫ですか?ご家族の方はお近くにいます?」
そう尋ねると、薄く呼吸を繰り返し、少女は小さく首を振る。
「………ひとりで来たの。ムグリスが渡って来たって、使用人が話していたから」
「ムグリス?」
「兎の妖精。祝福で、魔術の可動域を増やしてくれるから」
「まぁ。………そのような妖精さんがいるのですね」
魔術抵抗値の低い人間だからこそ、こんな風に体調を崩しているのだ。
症状自体は、そこまで高価でもない魔物の薬で癒せるが、体質なので、また魔術に触れれば同じことになってしまう。
だが、多少無理をしてもその祝福を得る事が出来れば、日常生活が少し楽になるのだろう。
「……ごめんなさい、触らないで」
「大丈夫ですよ、私の魔術可動域は四なので人間には何の影響も及ぼせません」
「……四?!」
驚いたのか、少女の目線はネアの背後に立つ、ディノの方に向かう。
少々目に毒な美貌なので、一瞬ぽかんとしてから慌てて目を逸らした。
「後ろの人はこんなに綺麗なのに、魔物じゃないんだ」
(そうか。魔物といるから、もっと可動域が高いと思ったのかな)
「魔物さんの見分けがつくのですね」
「薬を貰う時、屋敷に薬の魔物がやって来るの。隔離部屋から見たことがあるから」
嘘は吐きたくないが、魔物は彼女にとって病気の根源ともなる毒素だ。
不安にさせるのも忍びない。
「綺麗ですけど、安全にして貰っているので、今は大丈夫ですからね」
そう言ってやり、ひとまずは歩道の脇にある、屋根付きのベンチへの移動を手伝う。
街中で助けを求めようにも、警備兵や保安員のような者達の殆どが魔術持ちなので難しいだろう。
一度どこかで休ませ、その間に誰かに対処法を聞くか、ネア達で直接家に送り届けても良さそうだ。
(そう言えば、このお嬢さんの屋敷に来る薬の魔物は、同業者ということなのかな…………)
薬の魔物は珍しくはないので、ウィームには、現在四組在籍しているそうだ。
精製する薬品が被らないので接点もなく、残念ながら会ったことはない。
「少し落ち着いたら、お家にお送りしますね。場所は説明出来ますか?」
「……っ、でも!」
そう言えば、目的を達せないと思ったのか、小さな手が震えていた。
指先の鈍色は結晶化が進んだものだろう。
触れれば崩れてしまいそうで、何とも痛々しい。
「実は私は、こう見えても狩りが得意なのですよ。私の上司に相談してみて、現実的であれば、その妖精さんは、お休みの日にあなたの代わりに捕まえてきてあげることも出来るかもしれません」
「………え?」
「こうしてお会いしたのもご縁ですし、偶然にも、狩りは私の得意分野ですからね!」
「……ネア」
ディノが少し困ったように口を挟み、ネアは眼差しで一喝する。
「ディノ。私はもうやると決めてしまいましたので、反対したら椅子なしですからね」
「そうじゃなくて。今、君が左手に持ったままでいるのが、ムグリスだからね」
「……はい?」
思わぬ指摘に、ネアと少女の視線がぱっと、そこに集まる。
しかし、ネアの手の中のもふもふは、兎と区分するにはとても重要な部分が見当たらないではないか。
「耳あります?……鼠さんにしか見えませんが……」
「うん。鼠にしか見えない………」
ふくふくした体も飽食した鼠のようだ。あまりにも丸いので、飛べるかどうかすら不安になる。
だがしかし、これがムグリスであれば。
「………ふむ。必要なのは、この妖精さんの祝福なのですよね。一芝居打ってみましょうか。まずはこやつを起こしますね」
「え?……あ」
狼狽する少女を置き去りにして、ネアは、ムグリスの鼻先を指先でつついた。
突然の攻撃にムギュっと鳴いた妖精は、まん丸の目をぱちりと開く。小さな手で必死に鼻を押さえているので、少し痛かったらしい。
「目を覚ましましたね、もふもふ! いいですか、木から落ちたあなたを助けたのは、こちらのお嬢さんです。さあ、この子に、祝福のお返しをするのですよ!」
「えっ!?」
「強引にさせてしまうのだね………」
ムグリスは小さな顔を必死にあちこちに動かし、自分を拘束した人間と、その隣に座り困惑している少女、そして、ネアの後ろのディノを見比べる。ちびこい生き物が鼻を押さえたままきょろきょろするのでとても可愛らしいが、交渉中なので、ネアは頬を緩めないようにした。
「はい、こちらのお嬢さんですよ?」
「……ムキュウ!?」
「すみません。期待し過ぎて手に力が入ってしまいました」
少しだけ指先に力が入ってしまったのか、恐怖のあまりに悲鳴を上げたムグリスはふるふると震え出し、両手で自分の顔をくしゃくしゃにした。
(む、自暴自棄になった……?)
もしや自棄になったのかと不安になったネアだったが、そこで作成した毛玉のようなものを、ムグリスは、ぽいっと少女に投げつける。その直後、ぼふんと控えめな音がした。
「………今のは、…………攻撃?」
「これが祝福だよ。そのムグリスは、もう放してもいいだろう」
「この子は、逃してしまっても大丈夫ですか?」
「うん」
ディノの確認が取れたので手を開くと、もふもふは物凄い早さで飛び去って行った。
「………まぁ。あんなに小さな羽で飛べるのですね」
「ネア。あれは妖精だからね」
「でも、明らかに体より羽が小さいのですよ?」
やはりこの世界の生き物は、おかしなものばかりだ。
釈然としない気持ちで遠ざかる影を見送っていると、小さな嗚咽が聞こえてきて、慌ててネアは視線を戻した。
「どうしました? 怖かったですか!?」
「………ゆび、肌色になったの」
見れば、隣に座った少女の先ほどまで鈍色だった指先は、いつの間にか綺麗な子供らしい肌色になっているではないか。健やかな肌は、それだけでとても綺麗だった。
「もう、息は苦しくないですか?」
「……うん」
えぐえぐと泣きながら、それでも涙を丁寧に拭って、少女は自分の指先を何度も何度も確認する。その不器用な仕草に、ネアは、ようやく口許を綻ばせた。
「ディノ、このお嬢さんの魔術抵抗は大丈夫そうでしょうか?」
「結構な祝福が得られるものだね。可動域が三十くらいになってるから、抵抗値としても問題ないよ」
「普通の人と同じ!」
「………な! 私の、およそ七倍………?」
入れ替えで沈痛な眼差しになったネアに元気よくお礼を言って、少女は、雪の歩道を駆けて行った。
家は近いらしく、抵抗値の問題が片付けば、家族と一緒に広場の飾り木を初めて見ることが出来るのだと喜びに輝いている。
(………祝祭が延びてくれて良かった)
奇妙な敗北感に胸を痛めつつ、ネアは、そんな背中を見送る。
この美しい街に住んでいながら、飾り木を見ることもなかったあの少女は、よほど大事に守られていたのだろう。
家族が不在に気付いて心を痛めていないといいが、自分の足で家に帰るということだけでも、きっとあの子供にとっては得難い喜びなのだろう。
ネアは、暫くその場に留まり、少女が、花壇を覗き込んだり歩道のリースを見上げたりしながら、自宅と思われる家の扉を開けるまで、静かに見守った。
「ディノ、結果としては善行を積みましたね」
「ネアが捨てないで持っていたからだね。………さて、元に戻そうか」
ふわりと、沈めていた魔術をディノが解放する。
擬態はしていてもやはり魔物は魔物、その気配にざわりと街路樹が揺れた。
「あ、………」
ぽすんと、再び、もふもふが落ちてきた。
「ムグリス!!」
ネアは勿論、大喜びで祝福をもぎ取ったが、なぜか可動域は六にしかならなかった。
「………解せぬ」
ヒルドに相談したところ、最初に拾った銀羽のムグリスは、ムグリスの女王だったことが判明した。
あの少女はどうやら、相当に強運の持ち主だったらしい。