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23. 魔物に命を狙われました(本編)


アルテアから譲り受けた装飾品は、ディノの聴取をしながら取りに行くことになった。


ディノの与えた庇護では、一定の要素を退けるような術式が組まれているそうだ。

ネア自身は発動の気配すら感じ取れないが、ヒルドにも分からなかったそうなので、とても高度なものなのだとか。



「エーダリア様、すぐに目が覚めて良かったです」


「壊すとネアは怒るからね」



いつものように話しているけれど、ディノの微笑みは僅かに酷薄なままだ。

その危うさに、ネアは小さな気掛かりの種を育てる。



「ディノ、エーダリア様を困らせてはいけませんよ」


「そうだね。いい上司、だからだろう?」


「ええ。それにあの方を取り巻く社会性が、私にとってこの世界で持てる、唯一の小さな世界なんです。壊れてしまったら、とても悲しいです」


淡いミントグリーンの壁紙には、同色で繊細な草花が描かれている。

白と艶消しの金のモールドに、天井に繋げる彫刻の粋。

天井には黄金の額装を模した区切りを幾つも設けて、見事な天井絵を広げていた。


コツコツと、床の大理石のモザイクを踏む音が、絨毯のところで足音を変える。



(その組んだ術式に触れたということが、とても不愉快なんだろうか)



元より契約の魔物は執着に狂うものと聞くが、比較的大らかなディノと接してきて、このような魔物らしい感性に触れることは少ない。


彼は今まで、上手くネアを自由に生かしてきたのに。




「……もし私が、君の世界を剥ぎ取って、小さな箱庭に閉じ込めてしまったらどうする?」


「それは困りましたね。二度目はどうしてくれましょう?」



ネアが答えると、ディノは不思議そうな顔をした。

自分がかつてしたことを、覚えていなかったのだろうか。


「そうか。二度目なんだね」


「そうですよ。初回はディノに出会えたので良しとしますが、次はここで贅沢を学んでしまったので、節制出来るか自信がありません」


「君は、今の生活が幸せかい?」


「ええ。とても幸せです」



「………じゃあ、これでいいか」



ディノはそう笑って、ネアが引き出しから取り出した装飾品をそっと手の中から取り上げる。


「あ、」


ネアが眉を顰めるのも構わずに、タッセル部分の細い鎖を一本引き千切ると、ネアに持たせた。


「これは元々、ネアの戦利品だから。奪ったのが君だから、アルテアはこれを手放したんだよ。だからせめて一欠片は、礼儀として持っているといい」


「では、そうしますね。これはやっぱりグリムドールの鎖なんですか?」


「そういう名前のものが、材料にはなっているね」


「……だからアルテアさんは、これを返そうとした時に返すと後悔すると言ったんですね」



「ふうん、アルテアがそんなことを?……それと、ほら指輪。もう落としては駄目だよ?」



ディノが指先で摘んで差し出したのは、よく見慣れた乳白色の指輪だった。

ディノから貰った、ネアの宝物だ。



「あら?私、いつも大切に嵌めているのですが、落としました?」


「外しては駄目だよ」


「ディノにそう言われて、守護の意味もあるからってことで、お風呂でも外してなかったんですが、落ちちゃったんですね。拾ってくれて有難うございます」


受け取った指輪を指に嵌めると、やはり元からネアのものだったように手に馴染んだ。


(………あれ?)


それなのに一瞬、見慣れない指輪のように感じてしまう。


(気のせい、…………だよね)



「危ないからね」



そう言うディノに頷いた直後、

ネアは、高位の魔物による襲撃を受けた。





ネアは、その魔物に一度だけ会ったことがある。



向日葵色の美しい髪を持ち、金貨のような目をした美しい少女だ。

ネアよりも幼く見えることもあれば、真紅に塗られた唇が艶めかしく歪み、時折彼女を女そのものにも見せる。そんな、魔物。



たった一度の邂逅は、とても難儀な経験となった。

だから、ネアは暫く心を落ち着けてから、そんな容貌の魔物を見たことだけを、ディノに伝えた。


二人が知り合いだと確信したので、隠しておく方が失礼だと考えたのだ。



あれから半月あまり。



久し振りにネアの前に現れた彼女は、ひどく張り詰めた顔をしていて。

どうしたのだろうと思う前に、後ろから伸びたディノの手に目隠しをされて、意識を失った。




真夜中に目が醒めると、寝台の横に寄り添ったディノが、そっと指先で髪を梳いてくれた。


「………あの方は?」



答えを訊く前から、不思議なことに何かを察してはいて、それでも知っておかなければいけないことを憂鬱に思う。



「もういないから、大丈夫」



「………そうですか」



どうやって、ディノの結界のあるこの王宮に入り込んだのだろう。

もしや、ディノより高位の魔物だったのだろうかと不思議に思っていると、不安が伝わったのか説明してくれる。



「屋敷妖精の一人を刈り取って、上手く内側に道を繋げたんだ。彼女は草木の魔物だから、根を張ることを得意としていてね」



「その屋敷妖精さんは?」


「根が深くなると、道を繋ぐ代わりに宿主は死んでしまうんだよ」



「そう………なんですね」


「私とゼノーシュで他の入り口は全て塞いだから、望まないものは残していない。もう安心していいよ」



「有難うございます」




部屋の灯りの色に、あの、美しい少女の眼差しが蘇る。



(多分、彼女は私を害そうとしていた)



恐らく成せないとわかっていて、それでも。


そんな悪意を向けられたことは、未だかつて一度もない。

恐ろしく悲しく思うのは、ネアが傲慢だからだろうか。




「あの装飾品はどうなりました?」



「エーダリアに渡しておいたから、もう気にしなくて大丈夫。今夜はゆっくり休むといい。それとも、空腹かい?」



「いいえ。このまま休むことにします。……でも、寝間着に着替えますので、一度寝台から降りますね」




一人になった部屋で着替えていても身の不安はなかった。

ディノが大丈夫だと言うのなら、きっと大丈夫なのだろう。



だからネアが心配になるのは、何とも言えない事態の間の悪さだった。



(どうして、こんな風に揺らいでいるときに)



あの少女の死の上にこんなことを考えるのは、とても残酷な仕打ちなのだろう。

けれど、ネアにはネアの世界の事情がある。



こんな時に。

いや、こんな時だからこそ起きてしまったのか。


考え込みそうになって、慌てて顔を上げた。

不用意に時間を取るのはよくないだろう、ディノの傍を離れない方がいい。


(今は、彼を一人にしない方がいい)



「ディノ、終わりましたよ」



ぎいっと扉を開いて、ネアは絶句した。



「………嘘」




さっきまで床石があった場所には、深い苔が生えている。

壁は朽ち、柱は崩れて屋根の代わりに星空が見えた。




「………そんな」



見事なまでに荒れ果てた廃墟の上には、かつて剪定されて美しい庭木だったものが、荒々しく覆い被さっている。

夜の風に、ぎいぎいと壊れた扉が音を立てた。


慌てて錆びついたドアノブから手を離し、ネアは自分の後ろを振り返る。


ほとんど変わらない、廃墟があるだけだ。




「……ディノ?」



応える声はない。

風の音が聞こえるだけ。

虫の声に濃密な緑の香り。ここは、夏のようだ。



「ディノ!」



やはり応えはなく、ネアは膝の力が抜けて座り込んでしまった。




「酷い悪夢だな」




不意に、聞き覚えのある声が上から降ってくる。



はっとして声の位置を辿れば、崩れた壁と柱の残骸の上に、アルテアが座っていた。


漆黒の燕尾服姿の彼は、何か不穏なものの象徴に見える程だ。



「これは、……夢なのですか?」


「そうだな。お前の中にある、とびきりの悪夢だ」



「これが、私の悪夢」



「こういう悪夢を持つ人間は、わかりやすい悪夢を持つ者よりもタチが悪い」


「そうなのですか?」



答えずにアルテアは小さく笑った。

もう暫くは会うこともないだろうと考えていたが、どんな風の吹きまわしだろうか。



「今夜は、早く帰せと言わないのか?」



少しだけ考えて、ネアは率直に答えてみる。



「あなたから、とてもはっきりとした悪意を感じるので」



だから色々と思案してみたけれど、やはり取っ掛かりはなかった。

他人の心のことなのだから、よく分からなくても仕方ないだろう。

ネアは、それ程アルテアを知っているわけではなかった。




「勘は悪くないようだな。今夜は、お前を殺してみようかと思っている」



まるで晩餐のメニューを提案するように、アルテアは歌うような口調でそう告げた。



「ここは夢だ。黒煙の時と同じような、身の外にかけられた守護を期待するなよ?」



確かに今、ネアの手にはあの指輪も見えない。

頼りない白の寝間着姿と、柔らかい皮の室内履きがあるだけだ。



「どうして私を殺そうと思ったんですか?」



そう問いかけると、アルテアは薄く笑う。



「さあな、他の魔物に殺されるくらいなら、自分で殺してみたかったから、かもな」


「私が他の魔物に殺されるのは、決定事項なのですか?」


「エマジュリアの件があったからな」


「エマジュリア……さん?もしかして、私を襲った、金貨色の瞳のあの美しい方ですか?」


「あれは子爵の魔物だが、信奉者の多い女だった。シルハーンはやり方を間違ったな。殺さずに、今まで通りの寵を与えておけば良かったものを」



(寵を与える………)



彼女はただの知り合いではなく、ディノの寵を得ていた者だったのか。

そう考えると、じわりと胸が痛んだ。


彼にもやはりそういう欲があって、ただのネアの大事な魔物ではなかったのだということが、不安の棘となって胸に刺さる。


ここでネアにとって、たった一つしかない日常が、自分で繋ぎ止めきれない、見知らぬものであったと知るかのような。



(私の小さな世界は、私だけで成り立つ世界ではない)



ずっと昔、一人で完結したあの場所とは違う。




「覚えておけよ。お前に関わって死んだ女の名前だ」


「あの方は、どんな魔物だったのですか?」


「黄菊の魔物だ。大輪の花ではないが、気位が高く、常用され、信仰をも司る完璧な輪郭の花」


「そうだったんですね。とても凛として、強くて綺麗な方でした。……忘れません」



真っ直ぐな目でネアを断罪した。

鈴を鳴らすような声はナイフのようで、心の柔らかな部分がずたずたになった。


部屋に戻ってから、ゼノーシュにあげようと思っていたお菓子を一人で食べきってしまって、胸やけに襲われてまた自己嫌悪した。


誰かに泣きつかなかったのは、言われたことが全て、ネア自身も理解している自分の欠点だったから。

言うだけ自損事故になる。




「あの方の信奉者の方が、私を標的にすると考えていらっしゃるんですね」


「お前は籠の中で暮らしているわけじゃないからな。隙が多い」



確かにそうだろう。

ネア自身、自分がとても自由に生活していることを、日々不思議に思っていた。

職務としての拘束もあるにはあるが、それは自身の欲求と折り合える程度のものだった。



「アルテアさんは、面倒臭がりなんですね」


「………どうしてそうなった」


「あなた程の力があれば、私が損なわれそうになってから、かすめ取る事も出来たでしょう。でも、こんな早々に手を打ったのだから、先々の予測を立てる煩わしさが、面倒になったのでは?」



ざあっと、木々が揺れる。

葉の触れ合う音がさざめき、ネアはウィームの雪景色を思った。


これから訪れる雪の季節は美しいだろう。

祝祭の飾り木を見てみたかった。

注文しておいた、ディノへのプレゼントはどうなるのだろう。



(もし、私が死んだら、私の魔物はどうなるのだろう)




「お前は、さして怯えないな」


「いえ、積極的に死にたいとは思いませんが、よく生きた方だなとは思いますので」


「………よく生きた?」


「私の魔術可動域はね、四なんです」


「知ってる」


「つまりそれは、地面にささやかな穴を掘る蟻の魔物さんの、半分程度の強さしかないということなんです。蟻の生存率を思えば、私は結構頑張った方ではないかと!」


「待て、どうしてドヤ顔になるんだ…」



「そしてふと思ったのですが、厄介な殺し方をする予定だったりしますか?」


「さて、どんな殺し方が相応しいかな」



アルテアは唇の端を歪めて深く微笑んだ。

夜闇の中で咲き誇る大輪の花のような艶やかさに、ぞっとする程の冷ややかさ。


「ふむ。アルテアさんは根性が捻くれていそうですしね。痛いや怖いが発生するなら、お先に失礼してもいいですかね…」


「随分耳慣れない断りを入れてきたな」



「一応、歌乞いとやらは、きっと物騒なお仕事かと予防線を張ってましたので。脱出手段は完備済みです!」


「そりゃあいい」


白い手袋に包まれた手を打って、アルテアが笑う。

わざとらしく目元の涙を拭う仕草には、悪意が滴っている。


「逃げられると、思ってるのか?」


「あなたは魔物ですが、魂ごと死んでしまえばこっちのものです」



「………何だと?」



低く、慎重な問いかけ。

まるで子供のように純粋で大人びている。



やはり魔物達は、人間のように打算的ではないのだろう。



「私は、ディノを得たばかりの頃、私の手には負えないと考えて、他の魔物の方を見つけて転職するなり、あの王宮を出て自活するなり、環境を変えることを考えました」



しかし、この世界が生まれ育った世界のように、わかり易い治安で収まるものではないと、最初から懸念はしていた。



「様々な悲劇が予測されましたので、弱虫の私は、とっておきの防衛手段を見付けました」



お眼鏡に適うものは、リノアールの魔術道具の店に並んでいた。

あの高級商店は、お忍びの貴人も愛用する特別な店だ。

その品揃えには、彼等の要求に応える特殊な商品も並ぶ。



「特殊な術式陣の紙を飲み込み、魂に術式陣を書き込むんです。後は、決められた手順を心の内で踏むだけで、身一つ、そして行動すら制限されても、私はいつでも私を見捨てることが出来る」



自壊への潔さは、魔物には不可解な文化なのだという。

魔物や、その他の不都合な者の手に落ちた際の、人間用の流行りの自決道具だ。


売れ筋商品なのに、アルテアはまだ知らなかったらしい。




「だから、こんな風に試されると、私は逃げてしまいますよ、ディノ?」



「……は?」



呆然とするアルテアが振り返るよりも早く、ネアは突然現れた白い嵐のようなものに揉みくちゃにされ、ぎゅうぎゅうと抱き締められて持ち上げられた。



「まったく、困った魔物です」



思わず半眼になり、声も低くなる。



「私を怖い目に遭わせて、籠に閉じ込めてしまおうとしましたね?」



虹色を持った白い魔物は、答える余裕もないのか、ぶるぶると震えながら、必死にネアを抱き締めている。


まるで、そうやって拘束してしまえば、魂ごと押し留められるかのように。



頭を撫でてやると、悄然とした瞳が恐る恐る持ち上げられる。


「…………ネア」


割れてしまいそうな、悲しげな声。



「まったくもう!私は怖い思いもしたし、とっても腹を立てているので、当分の間は体当たり禁止です。爪先も踏みませんし、髪の毛も引っ張りません」



睨んでみせると、びくりと体を揺らす。

そのくせに、腕は拘束を強めるばかりだ。

本気で襲撃したつもりだったのか、向こうでまだ呆然としているアルテアといい、魔物達はやはり愚かで愛おしい。



だからこそ、しっかり躾けないと困ったことになってしまう。



(やはり暴走しましたね!)



エーダリアの件から、非常に嫌な予感はしていたのだ。

案の定の暴走具合である。

しかも、あわよくば、アルテアも巻き込んで諸共都合良く整理しようなど、姑息なやり口ではないか。



「ゼノの泣き落としを真似ても駄目ですよ!………でも、最初に怖がらせてしまったのは私なので、手を繋いであげましょう」



自分を拘束する腕を引き剥がし、よいしょと手を繋いでみる。

髪の毛から手に変える転換期が、やっと訪れてくれた。


(私はチャンスを無駄にしない女!)


ふんす、と無駄に胸を張りつつ、ネアは繋いだ手に力を込める。



「ディノ、怖い時は怖いと言って。あなたがきちんと要求を伝えてくれれば、私は納得するまで話し合います。こんな風に荒ぶったりしなくても、私はいつだって、あなたのご主人様ですよ」



「………ごめんね、ネア」




あまりにも不安そうに言うので、ネアはとびきりの怖い微笑みを浮かべた。

躾けに妥協は許されない。




「……そろそろ、事情を説明してくれ」



寂しげなアルテアの声も、勿論無視した。






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