エマジュリア
産まれ落ちたその朝から、
私は、祝福と賞賛をこの身に集め続けていた。
私の名前は、エマジュリア。
向日葵色の髪には、高価なクリームを落としたような幾筋かの淡い色の毛束が混ざる。
瞳は金貨だと詩人が歌い、笑い声は水晶の鈴を鳴らすごとし。
私に焦がれて死んだ男が、一体どれだけいたことだろう。
この指先に口付ける為だけに、男達を殺し合わせたこともある。
夜毎、違うドレスでダンスを踊り、貴女は美しいと囁かれる。
だから、心を捧げるのは特別な男だと決めていた。
「あの人間は何なのですか?」
その歌乞いの少女を確かに煩わしいとは思ったが、自分の心と並べて比較することはなかった。
王は私の問いかけには答えず、秘密めいた微笑みを浮かべるばかり。
千の言葉で讃えても、万の言葉で愛を囁いても、
虹持ちの王は、いつまでも私に心を与えなかった。
私とて、その眼差しを捕らえたことがある。
彼の冴え冴えとした微笑みを向けられ、あの肌に触れたこともある。
しかし、甘やかな火照りを分け与えようとしても、夜明けまで彼の肌は冷たいままだった。
虹白の王はいつも、
さしたる興味もなく気紛れに与え、
慈悲ほどの執着もなくそれを捨てる。
それは、最初から触れることすら叶わない他の高位の白持ちよりも、遥かに残酷で遥かに遠いのだ。
「まさか、笑ってらっしゃるの?」
それなのに貴方は、そうあるべき自分さえもあっさりと放棄してしまう。
安物の人間の為のリボンに口付けを落とし、下賎な魔物のように狩りをする。
(………どうして?)
貴方が手を伸ばせば、どんな物でも手に入れるのに。
貴方が望めば、幾らでも殺して差し上げるのに。
ずっとずっと、その眼差しを追いかけてきたのは私なのに。
「脆弱だけれど、醜いとまでは言わないわ。けれど、何の才能があるの?お前だけのものは何?凄烈な野望もなく、心を溶かす柔和さもない。お前の無色さは、心から醜悪だわ」
奇しくも、この心の揺らぎの頃合いに、問題の人間が一人でいるのを捕まえることが出来た。
本来の私は、脆弱な生き物を不当に低くみることはない。
ここにいるのは、害のない小鳥や蝶と同じ、私達には何の意味もなく儚いばかりの生き物なのだから。
「お前は醜悪だわ。理解しないことが、不相応なことが、そして甘んじていることがとても醜い」
心からの言葉でそう伝えれば、少女は鳩羽色の瞳を瞠り、ふわりと泣きそうな微笑みを浮かべた。
「そうですよ。私は多分、そういう人間です。自分で理解して目を逸らしている分、あなたの言葉は刃物みたいですね」
「お前はそれを、変えようともしないの?」
「変えられないんです。私達人間は、強くて綺麗なあなた方とは違い、とても強欲な生き物なんですよ」
なぜだか、泣きそうな微笑みを浮かべたまま、彼女の声はひどく優しかった。
(まさかお前は私に、憐れみをかけているというの?)
王の寵愛を得ているから?
そんなものはあの娘自身のものではないのに、愚かにもそれを自分の盾だと思っているのだろうか。
「いつかそれが私を殺すのだとしても、この有り様を手離せば、私は私ではなくなってしまう。だから、私は、私を手離せません。これは私の理想ではない。でも、私自身なんです」
その微笑みの静けさに、声音の優しさは彼女なりの謝罪なのだと知った。
傷だらけで生きてゆく惨めさを、ひどく申し訳なく思っているのだと。
「それにしても、あなた達はみんな綺麗なんですね。強くて美しいから、とても無垢なんでしょうか?」
不思議そうな問いかけには、どこか羨望が滲んで、しかし、さらりと乾いている。
唐突に理解した。
この少女の心は、完全に自分の領域だけで閉じている。
気紛れに与え、そして執着しない。
「どうしてお前は、執着しないの?」
「きっと、手に入らないものだからでしょう。手に入らないものに心を傾けるのはね、とても悲しくて疲れるんです。あ、でも手に入るものなら、私だって物欲があるので頑張りますよ?」
きっと今、私の金貨の瞳は無様に瞠られているのだろう。
「わっ、どうしました?!何か目に入ったんですか?どうしよう、今はハンカチも持ってないんですが…」
唐突に涙を零した私に、少女はおろおろと声を上げる。
(そう。あの方は、苦しんでいらっしゃったのね)
でも、どうして私達ではいけないの?
どうしてこの少女を選び、
こんな矮小な人間が彼にどこか似てるのはどうして?
彼女を選んだ理由が、わかってしまいそうなのはどうして。
(………こういうことなのだろうか)
いつかそれが己を殺すのだとしても、変えることが出来ないものは確かにあった。
これが私の心なのだと叫ぶその愚かさは、私もお前も変わらない。
恐らく、私の大切な虹白の王も。
「私はどうすれば良かったのかしら?」
小さな囁きにも喉が痛む。
「何にもしなければ良かったんだと思うよ。最後まで何も手に入らないかも知れないけれど、あの方の欲しいものは、最初から君じゃなかったんだから」
私を覗き込むように見下ろすのは、白混じりの水色の髪の魔物。
見聞の公爵。
「………でも、欲しかったの」
「うん。だから、多分こうなるしかなかったんだよ。見付けたのが僕でもこうするし」
「どうしてあの人間なのかしらと、考えていたわ」
「ディノは、ただあの子が大好きなだけだし、きっとそこに、誰かの為の理由なんてつけないよ。僕だって、グラストが特別な理由も、ネアがお気に入りな理由も、実は僕自身もよくわからないんだ」
見聞の公爵は、少し笑ったようだった。
もうよく目が見えないので、気配だけだが。
「僕はね、少しだけ君の気持ちがわかるよ。グラストが、僕の頭を撫でてくれないのはどうしてだろうって、散々考えたから」
(ええ、私もわかってしまったの)
虹白の王もきっと、自分と同じようにあの少女の眼差しを追うのだろう。
肌に触れてその遠さを嘆き、どんなものでも与え、どんなものでも殺すのだろう。
それがわかってしまったから、
私は、エマジュリアという名前の魔物は、あの少女を許すことは出来なかった。
無様だとわかってはいても、背を向けて諦めることは出来なかった。
その心を殺せば、それはもう私ではなくなってしまう。
あの人間に牙を向けば、王は自分を容易く壊すだろうと、わかっていても。
(あの子も、恋をすればいいのだわ)
恋をして、差し出した両手を切り取られるような苦しみを味わい、大いに嘆けばいい。
そんな思いの一つも持たないのだから、あの少女はとても哀れだ。
(私は、とても幸せね。とうとうこの最後まで、最初の恋を手放さなかったのだから)
私が無垢だと口にしたときの、彼女の眩しそうな眼差しを思い出す。
その無垢さの特権は、きっとあの人間が、既に失ってしまった幸福なのだろう。
魔物の最後は、灰になって崩れ散る。
またこの灰から魔物が生まれるのだとしたら、その魔物もいつか、私のように恋をするに違いない。