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ダリルダレンの書架


北のウィームには、ダリルダレンの書庫がある。

そこに住まうは、青眼の美女。


ダリルダレンを治めるダリルは、書架を司る妖精だ。

書を守り、書の為にだけ生きている、書への信仰から生まれた妖精である。


青い瞳に鹿毛の髪は腰までと長く、斜めに流した前髪の下には、誰もが溺れたくなるほどの青い青い瞳がある。

もっとも、その瞳はほとんどの場合、武骨な黒縁の眼鏡に覆い隠されてしまっていたが。



「ダリル!」



勝手にこちらの領域に入ってきて、勝手に名前を呼んだ男に、ダリルは顔をしかめた。

やっと手を尽くして術式の書を一冊取り寄せたところで、最も会いたくない男が現れてしまった。

あの男だけには、この書を見せるわけにはいかない。



(読んで、もう一回読んで、覚えてから解読するまでだから、せめて二年は!)



「そんな本を購入する許可は与えてないぞ。この書架の管理費と維持費だけでどれだけ……」


まさかの背後から現れた男は、案の定、それが何の本であるか気付くと声を失った。


「エーダリア、悪いがこれは私の私物でね」

「これが私物だったら、お前は横領罪になるのではないか?」

「婚約者にも逃げられるような坊やが使うには、千年は早い言葉だね」

「千年待ったら、私はもう墓の中だ。それに、婚約は私が破棄したのであって、逃げられたのではない」

「へーそうかい。あのネアちゃんの為に、私を散々こき使い、あれやこれやと中央の狸どもの足元まで手を伸ばして調整しておいて、自分で嫌になったのかい?」

「そうだ」

「では問うが、あの少女が嫌いなのかい?」



そう尋ねれば、わかりやすいくらいに渋面になった。



(ふーん。愛だ恋だと思っていたけれど、自覚がないか、もっと別の執着か、どっちだろうね)



「……………き、嫌いだな。だが、あれは私の庇護下にある歌乞いだ。個人的な好みで、不当に評価をするつもりはないが」

「なんで嫌いなのさ?」

「……………」


ここで黙秘を使おうとは、馬鹿もいいところだ。

ダリルダレンの書架妖精が、どれだけの情報を撚り集めているのかも知らないのだろうか。

ここで、その想像が出来ないのが甘さなのだと、ダリルはひっそり嘆息する。



「あの白い魔物を見て倒れたから?それで、あのお嬢さんが、エーダリア様が魔物に恋をしたと思い込んだから?それとも、あの白い魔物を薦められるばかりで、自分に興味を示さないから?」

「知っているなら訊かないでくれ……………」

「私は、エーダリアの代理妖精だ。その心を名乗って裁くなら、知らないことは罪だろうさ」

「お前のそういうところが、無性に腹立たしいのはなぜだろうな………」

「あはは。やっぱり、子供なんだねぇ」



頭を撫でてやると、エーダリアはダリルの手を振り払った。



唐突だが、この元第二王子の初恋の相手は、ダリルダレンの書架妖精だ。


一人しか選べない代理妖精を選ぶ重要な儀式の場で、この坊やはまさかの過ちを犯した。

元々彼を庇護していた高位の妖精を選ばずに、一目惚れしたダリルの手を取ったのだ。

あの瞬間のヒルドの顔は今でも語り草であるし、ダリルにとっても愉快な記憶である。




『勘違いしてたら悪いけど、私は男だよ?』




儀式の後でおもむろにそう告げると、第二王子はショックのあまり、一週間喋れなくなった。

まだ九歳の子供には、酷なことをしたのだろう。

呆然としたまま、力なく座り込んだあの時の姿は、今でもはっきりと思い出せた。



とは言え、何の下準備もなく見ず知らずの子供がダリルを指名した訳でもないし、ダリルがそのような選定式に出たのはその時が初めてだ。

そして、悪辣と名高いダリルダレンの書架妖精がそんなことをしたのは、ヒルドが原因だった。



(あの、高貴なる森の妖精の王)



ダリルは、書架に生まれたが故に、最初からある程度の自由を約束された妖精だった。

生まれた時から人間と関わり合い、その性質も扱い方もよく知っている。

そんなダリルにとって、ヒルドは生まれて初めて見た、支配階層の妖精の王子だったのだ。

書物の中でしか知らなかった、本物の妖精の王族だった。


妖精には氏族の王や王族を持つ者達もおり、そんな王族位の者達をシーと呼ぶ。

しかし、本来それは、種族的な王族位の者達を指した言葉であり、ヒルドはそのような妖精種を治めるべきだった一族の一人であった。


その階位の妖精は、ヒルドの一族が滅び、今はもう妖精の国の一部にしか残っていない。

残忍な気質の者達なのでそう簡単に地上に上がって来られても困るが、そうそうお目にかかれるものでもないのは確かだ。


そしてダリルは、そんな本物のシーを、一度でいいからじっくり観察してみたかった。



(なんて、気高くて美しいんだろう)



書架に生まれたダリルの知らない、妖精というものの美しい形がそこにはあって。

そんな美しいものが檻の中にいるのだから、興味を持つなという方が無理ではないか。



「ねぇ、私が助けてあげようか?」



片手に誓約の前の枷を嵌められた妖精に、どうにか会うことが出来たのは、彼がこの国に運び込まれた数日後だった。


「逃してあげるよ。私の暮らすウィームの書架にくればいい。上手く隠れれば、きっと人間も諦めるよ。あの子達ってさ、飽きっぽいし」

「……………結構です」



彼は素気無くその申し出を断った。

ダリルは、書架に匿った妖精の王子との暮らしを想像してしまっていたので、がっかりしたが、そういう気位の高い様も悪くはない。



(きっと、人間達の中では生きにくいだろう。私が面倒を見てやらないと!)



そう、思っていたのだ。

本物のシーである彼の目は、ダリルと同じ青で、まるで秘密の仲間になったような不思議な高揚感さえあった。



「これ食べたことある?今王都で流行ってるんだよ?」

「ほらドレスを新調したんだ。どうだい、素晴らしいだろう!」



鬱陶しがる顔がまた綺麗で、何度も何度も会いに行った。


ダリルがドレスを着ていたのは、最初に出会った人間がダリルが女だと思ったからだが、装飾の多い女物の服は好きだ。

ダリルは派手好きであるし、人間達の服は本当に罪深い。



(笑えば可愛いのに)



いつも、そう思う。


彼が何かを諦めたのは知っている。

でなければあんな風に、全てを閉ざした目をするわけがないし、時折辛そうに空を見上げない。



だから、自分だけに心を開けばいいのに。




ヒルドは、自分だけの宝物だった。

あの王妃も第一王子も、彼のことは道具だと思っている。


不愉快だが、いっそ都合はいい。

あれだけの宝石を簡単に使い潰そうとしているのであれば、人間はなんとも馬鹿な生き物ではないか。



ダリルは、ウィーム暮らしの妖精の癖に、靴を汚す雪が嫌いだった。

だから、雪が降り始めると外に出なくなる。

この冬が明けたら、またヒルドに会いに行こうと考え、王都を離れたのは雪が降り始める頃のこと。


きっと冬の間の孤独に耐えられなくなって、ダリルに縋って泣いてしまうかもしれない。

あんなに儚く神経質そうな妖精が、この国の雪に耐えられる訳がないのだ。


浅はかにも、そう考えていたのだ。

けれども、冬が明けるとヒルドは変わっていた。




第一王子の命令で、弟王子の教師に抜擢されたのだという。


不恰好に後ろをついて回る王子の手を引き、そいつが不慣れな命令を出すと微笑んで従う。

時折、第二王子が言動を誤ればこちらも背筋が寒くなるような笑顔で諌めていたが、中身はどうであれ、彼は笑うようになっていた。



自分の為に笑う筈だったのに。

そう思いながら、ダリルはヒルドの後ろをちびちびと歩く小さな生き物への報復を誓う。



泣かせてやろうと思って会いに行った時に、彼が小さな顔を真っ赤にしたのを見て決意した。

そして儀式の日、ダリルは艶然とした最高の微笑みでもって、第二王子を籠絡したのである。



自分を慕う小さな生き物に裏切られたヒルドが、がっくりと項垂れる様は爽快であった。

あの馬鹿王子と呟いていたけれど、まったくその通りだ。

ウィームの書架だけに篭っていられる生活は失ったが、そんな光景を見られただけでその甲斐はあった。




『やれやれ、貴方を守れるようになるには、私はまだまだ努力しなければならないらしい』



ある日、自分の犯した過ちに気付き、落胆のあまりに喋れなくなったままの王子を見にきたダリルは、眠っている王子の枕元に、ヒルドが立っているのを見つけた。

そう言って、王子の銀色の髪を撫でたヒルドは、どきりとするぐらいに感情的な、見たことのない表情を浮かべている。



それは、まるで、子を抱く母親のような力強さと艶やかさで。



『強くおなりなさい、エーダリア様。私がきっと、この王宮から貴方を逃して差し上げます。……あなたが自由に、人生を謳歌出来るように』



そうして告げられた低い囁きには、もはや、微塵の弱さもなかった。


書架に帰ったダリルが調べたことによると、ヒルドの一族は、代々の王族が他の森の生き物達を庇護してきたらしい。

同じ島に暮らす精霊の王に裏切られて、献上されようとした妖精騎士の代わりに、ヒルドがこの国に献上されたのだ。

精霊王に殺された父親に代わり、ヒルドは若い王になったばかりだった。



彼等は獰猛で、一騎で竜の首をも落とす戦士だという。

外遊で訪れた王妃が妖精を欲したのは、彼等が良い戦力になるからだった。



(そうか、ヒルドは守られる側ではなく、守る側だったのか)



であれば、彼は決して逃げないだろう。

守る為にこの国へ来たのだから。

脆弱な王子様ではなく、頑強な王だったのか。

そんなことを知ってしまうと、すっかり興味がなくなってしまった。

ダリルとて例に漏れず、妖精とは庇護を与えたがる生き物なのだ。




手元に残ったのは代理契約をしてしまった、ひ弱な王子で。



(まぁ、これでも仕方ないか)


ここから逃げ出したいというのなら、妖精として守護してやってもいいかなと思う。

ヒルドの教育のせいでどんどん可愛げのない堅物に育っていったが、せいぜい意地悪く構いながらダリルも鍛えてやった。



そしてあの日。



『王子としての身分を捨てることになった。お前との誓約は残るが、今後はガレンエンガディンとして、そしてウィームの領主としての私に仕えて欲しい』



ヒルドの策略が実を結び、エーダリアはとうとう己の力で、王宮から堂々と逃げ出した。

あの小さな王子が、つまらなくも立派になったものだ。

そう思い、嫌がらせで頬に口付けてやったら、顔を真っ赤にして怒られた。


その人間が生き延びた事をどうして自分がこんなにも喜んでいるのか、その理由を考えたらお終いだと思っていた。




「で、この本はまず私が目を通す。経費で何を買ったのか、調べる必要があるからな」

「ほんと、つまらない男になったね。理屈っぽくて柔軟性のない男って、結婚出来ないよ」


目の前には、ウィーム領主になったあの日の小さな子供がいる。

魔術書に異様な執着を持つところがそっくりだとヒルドによく言われるのだが、どうせなら、ドレス仲間に育てば良かったのにと、ダリルは思う。



「で、白い魔物はそんなに魅力的なの?」



そう言えば、エーダリアは頭を抱えてしまった。

まぁ、可愛くないと言えば嘘になるなと思い、ダリルはにやりと笑ったのだった。







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