アルテア
「待て、どうして俺が被験者なんだ?!」
その部屋に入ったときには、まだ余裕があった。
歌乞いの力は、魅縛の一種だ。
網を投げ鎖をかける拘束としての拘束力、
そして、麻薬のように酩酊を誘う強制力。
どちらもまた、最後の決定権は魔物にある。
堕ちるにせよ、抗うにせよ、定めて膝を屈するまでが魔物の意思だ。
そこに歌乞いの決定を反映させることは、魔物にとって最大の屈辱とされることを、人間はあまり知らない。
つまりのところ、捕らえた魔物を解放しようなどという偽善は、魔物にとっては不愉快な行いでしかないのだ。
一般的には。
「まさかあそこまで、症状が深刻だとは思いませんでした」
そう悩ましく目を伏せていたのは、ネアという名前の歌乞いだ。
青灰色の髪は胸下まで。艶やかで毛質が細いくせに強く、微かに癖がある。
鳩羽色の瞳は、灰色に菫の虹彩と、ほんの僅かな緑青の虹彩。
魔物が好む多色性の色持ちであることは、恐らく本人のあずかり知らないところだろうか。
そんな少女は、声を潜めて囁く。
「あそこで黒煙さんを羨んでかかるとは………」
「完全に靴底の下だったからな……。説得が滑らかなのは、慣れたのか?」
「慣れましたね」
国一つの歴史より古い頃からの知り合いが、様子がおかしくなる姿を見るという経験は、なかなかにない。
ましてやそれが、不変を常とする魔物なのだから驚きだ。
「まぁ、あれが日常なら、手に負えないと感じるのは……仕方ないのか」
そう呟くと、ネアはわかりやすく遠い目になった。
「そういう当たり前のことを、当たり前の調子で同意してくれる人が、どれだけ貴重かわかりますか?」
ウィームの北の離宮に訪れるのは、二度目になる。
最初はネアに強引に連れ込まれた時、
今回は、聴力検査という非常に不愉快な名目での呼び出しだった。
音痴だという評価のネアの歌の質の変化と、拘束力を見るのだと言う。
あの破壊の権化とも言うべき童謡を聴かされ、一度は着地したのかと思っていたが、今回はシルハーン主体の提案だというから驚きだ。
黒煙の魔物の様子を見て、何か思うところがあったのだろうか。
ほとんどの場合、歌乞いに下る魔物の多くが、この知的欲求から道を踏み外す。
知りたいと手を伸ばすその行為は、まるで毒を呷る遊戯のようだ。
大きな力を持ち、自由に遊ぶ。
ほとんどのものは手に入れることが出来るこの暮らしに、俺は倦みも飽きもしてはいない。
時折、ひどく無気力になることはあるが、それだけだ。
「アルテア様、朝までお傍にいて下さいますか?」
そう囁いて唇を寄せたのは、この西の大国の王女だ。
善悪なく、貴賤なく、女と言うものは得てして欲深い。
魔物とて欲を持たないわけではないので、時折こうして手を伸ばす。
「罪深い方、」
そう目を潤ませる女こそ、その美貌と機知で国を一つ滅ぼした王女だ。
滅ぼした国の王、かつての婚約者が血を流し倒れた大地に立ち、嫣然と笑った女。
いずれ父親が死ねば、彼女が女王となるのだろう。
血と、欲と、怨嗟の響き。
この国に滴る悪意の蜜は甘い。
「……興が冷めた」
驚愕に目を瞠り、取りすがる繊手を雑に払う。
甘いだけのものが、不意に煩わしくなった。
仮面の剥ぎ替えは、一種の余興の一つだ。
そして、この世界の剪定でもある。
そこから派生する物語を堪能し、場合によっては配役を変え、人間たちが舞台を楽しむように、或いは読み物を好むように、この力の在り方は、都合よく暇潰しを与えてくれる。
だからこそ世界は今でも彩り深く、常に刺激と遊びに満ちていた。
今、目の前の少女は、公開処刑だと呟き続けている。
聞けば、あの庭の隅にある小さな墓標は、彼女の歌で死んだ蝶の魔物のものらしい。
蝶の魔物は決して珍しいものではないが、生命力は強い個体だった筈だ。
本気で彼女が悪しき使い様に謳えば、中階位の魔物の無効化も叶うかもしれない。
「……で、何を謳うんだ?」
「前回の歌が本当はいいのですが、…………あれは少し、気恥ずかしいですね」
(あの時の歌か…………)
もし、世界を壊したいと願うなら。
あれは、そんな詩を持つ歌だった。
何かを奪われ、氷のような憎しみを燃やし、復讐を図る何者かの歌。
絶望と、慟哭と、あどけないまでの切実な殺意と。
今迄に一度も耳にしたことのない、剥き出しの鮮烈な唱歌だ。
哀れなまでの短い時間を売る女達がいる店でも、あんな歌は謳わない。
どれだけの言葉を尽くした魔術師でも、あんな陰惨な言葉は選ばないだろう。
だとすれば、そこは一体どんな世界だったのだろう。
恐ろしく悲しく、ひたすらに美しいあの歌を、生み出した世界とは。
これは一滴の毒だと、どこかで感じていた。
毒はあっという間に体を回り、思考さえも浸食してしまう。
だからこそ、俺は確かにこの女を憎むのだろう。
自由を奪うこの鎖を、外すべきかどうか迷わせたのだから。
「あの歌は、どうやって学んだんだ?」
「流行のものですよ。一等に好きで、毎日聴いていました。私は彼に、復讐を遂げて欲しかった」
そう言いながら、なぜ微笑むのだろう。
「擦り切れるくらいに聴いて、同じラインの曲は皆好きです」
「ああいう歌を、他にも謳うのか。物騒だな」
「くっ、音痴でなければ!」
そう言って、隣りに立つ王の腕をばしばしと叩く。
古い友人は嬉しそうに微笑んで、ひどく不可解な眼差しを、こちらに向ける。
やがて開始された聴力検査にて、ネアは、あの歌を謳った。
ネアが好んで聞いてるのは、壮大めな展開の映画主題歌です。
映画の物語に沿った主題歌なので、魔物もびっくりの歌詞になっています。